愛するちから

「やりたいことがなんなのかわからない」という声をセッションでよく伺います。また、「なにかやらなければならないことがある気がするけれど、それがなんなのかわからない」という声もあります。

ひとつには、それを思考で解析しようとしているうちは、たとえ候補があがっても、行動に移すには至らないものです。思考は何かを行う原動力にはなり得ません。私たちを揺さぶる心の要求の声は普通、感情・感覚・本能を通して発動します。

そこで世では潜在意識を活用(活性)せよ、というふうに言われたりします。しかし、潜在意識というのはあくまで欲の世界です。しかもその欲とは、からだが学習したことをもとに設定されています。からだが習慣としている反射がほとんどを占めます。欲がなくなったら死ぬよ、なんて言う人もいますが、欲が最低限命を守ろうとする力はそうそう抑えられるものではありません。いざとなったら働いてくれます。そんなことより私たちの欲求が普段、本当はしあわせになるためにいらないものを欲しがってみたり、それが必要だと思わせるよう私たちを仕向けているところが問題です。本当はその欲求を吟味し、手なずけたり手放していくことが重要なのです。

「やりたいこと」とみなさんが表現されるものの中味はそんな欲ではなくて、心底意義を実感できるような、人生や自分そのものを愛さずにはいられないくなるような、本当の満足のことを指しているのではないでしょうか。しあわせ、というのはその中身を手に入れいることに他なりません。

すべての人に可能で、そしてそれが最も地上で価値あるものだと神さまが人間に保証してくれているもの、それが、愛することです。「愛です」と言ってしまうと多くの人は、愛を手に入れるとか、愛されることを連想するかもしれません。しかし、愛を求めていても愛しているとは限りません。

愛することを始めるのに必要な準備は、それぞれに完璧なかたちで魂と内なる神から与えられています。その愛は内側で準備され、発動命令が下るのを待っています。

しかしそれを始めない限りは、そのレッスンを始めることはできません。自転車についていくら考えたとしても、自転車に乗ってみないと上達はしません。愛することも同じです。愛について知っているつもりでも、愛してみないことには問題点にすら気づけません。

現代では愛する前に問題点に気づきたいと考えている人も多く見受けられます。しかしそこでいう問題点とは他者の体験であって、自分のものではありませんから、いくら吟味しても自身に役立てることは難しいのです。わかったつもりでもいざ自分のこととなるとうまくいきませんから、余計にイライラしたり否定的になってしまう弊害も起こります。

愛に向かうための問題とは本当はそれ自体喜びです。向き合うほどに、愛が育つわけですからね。

すべての人は、生まれながらに愛を求める強いちからに動かされ、まず親からそれを受け取ります。そして同時に親を愛します。しかしその愛は、本能や刷り込み的な学習によって裏打ちされた、条件付けによる愛です。欲しい、という気持ちと表裏一体なのです。

ですから思春期に異性に抱く愛情もそれに似て、欲しいの裏返しの感情です。どうりで相手を思うと苦しかったり怖かったりしますよね。幼少期に愛情の欠乏感(寂しさ)を強く持つと、思春期的な愛情欲求が長く続いてしまうものです。求めては失望することを繰り返し、それを超えることができません。欠乏状態では信頼関係を育てることが困難なのです。

トラウマ(心的外傷)というと暴力を連想しますが、多くは共感力の強さ、優しさから傷つく人がほとんどです。他者にフォーカスすることに慣れすぎ、自己の欲求を抑え込んだ体験が寂しさ、欠乏につながって、インナーチャイルドが不満、不安を抱えたままになっていることが愛することを妨げています。ですから人一倍愛を求めていながら、恐れによって愛を遠ざけているのです。愛せていないのです。

一方で、強い欲求なしには人間はなかなか愛のレッスンに取り掛かれないのかもしれません。愛は受容や忍耐や理解や、自分の慣れ親しんだ世界観までもを差し出すことを私たちに求めます。そうすることで他でもない、自分自身が内なるスペースを広げ、養い、成長し、新しいものに生まれ変わるというしあわせを享受することが可能になります。

つまりは愛を学ぶことが即ちしあわせなのです。手放すとは、愛するもののためにスペースを明け渡すことです。愛は古い価値観を捨てるにふさわしい理由です。

その過程で、私たちは幾重にもがんじがらめに巻き付けられた恐れに出会うことでしょう。この恐れに直面させ、そのまやかしに気づかせてくれるのもまた、愛のちからです。

ではどうやって愛すればいいのでしょう? 未知を体験するにはそれを想定してやってみることです。最大限の想像力で、あなたが最上だとイメージできる限りの愛と見当をつけて。そうしてみるとき、魂のちからが発動します。悠久の時間を超えて、神の愛とともに歩んできた魂の記憶があなたの意志のちからに触発されて、魂が廻り始めます。あなたとともに。

するとあなたは気づきます。なんだ、なにも大げさなことじゃなかった。どこへ行く必要も、持ち物を変える必要もなかった。私はひとりじゃなかった。すべてはここにあったんだ、って。

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感謝とともに

AZU拝

魂の目的を知る


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みなさんこんにちは。AZU WORLDへお越しくださりありがとうございます。

沖縄に住んで7年目に入りました。そして、ここ知念具志堅に来てまもなく2年になります。ついでに、結婚からはまもなくまる8年となります。結婚生活のほとんどは沖縄で過ごしていることに驚きます。たった二人でやってきて、社交性も発揮せず、こつこつと自分たちのワークに取り組んできたな、と思います。にもかかわらず、私たちの仕事を通して、直接関わってくださった多くの方への感謝は言葉になりません。私たちの中身のほどんどはそれでできている、というくらいです。

ネットで一所懸命探して、吟味し、私たちを選び、来てくださったり、私で言えば、遠隔という顔の見えないセッションでも私をご信頼くださった方がたには、敬意と誠意と、そして私たちがコツコツと前進することでおかえししたい気持ちです。

私の行っているワークは、昨今知名度は上がってきたとは言え、まだまだ一般的にその内容や実用性、必要性は浸透しているとは言えません。自分にはそれらを誤解なく少しずつ伝えていくという使命があるかと思っています。セッションやメールなどで、レイキの用途についてお話しますと「そんなふうに使っていいんですね」というお声が返って来ます。ブログに書こうか、と考えていて、ふと、これは資料にまとめておこう、とひらめきました。実際こんなふうに使おう、という参考資料です。レイキというエネルギーの本質を解説しつつ、ご説明します。

私のセッションをお受けいただく方にはこれからお渡ししようと思いますが、過去にお受けいただいたみなさんにも、ご希望があればお渡しさせていただこうと思います。出来上がりましたらまたこちらとホームページにも掲載いたしますが、もしご希望があればメールをください。出来上がり次第、ワードのファイルでお送りでします。

インナーチャイルドについても、本当にたくさんのことをお伝えしたいと思っています。正直、自分が知ったことを伝えなくてはと思うと、あまりの膨大さに降参したくなるくらいなのです。自分がこの人生で、ワークを通して気づき、知ってきたことの膨大さ、それはまだ書物やこの世界の学問としてあまり現されてはいません。

インナーチャイルドとはなんでしょう。私の中に住んでいる子どものこと、とイメージされることが多い気がします。実際は、私の今世で作られた自己意識のすべてと言っていいです。ここの領域は潜在意識と言われ、肉体感覚、つまり五感を通して感知し刷り込まれた記憶のことです。この領域はお母さんのお腹の中からすでに記憶が始まり、3歳までに概ねの部分が記録され、13歳くらいになると蓋がされ、それ以降はあまり変わらない、よほどショッキングなこととか、心にどんと響くようなことがない限り、というふうに言われています。

➖セッションの冒頭で、このご説明をしただけで、感涙される方々をたくさん見てきました。その涙は、自分の苦しみのわけがこれで見つかるんだ、という安堵のお気持ちが奥にある気がします。➖

ですから、退行催眠をすると、お母さんのお腹の中の記憶も思い出せるということが起こります。実際、赤ちゃんの耳は胎内6ヶ月くらいで出来上がるそうです。それくらいからは耳で聞こえたことを感覚的に(言葉の意味ではなく、耳触りの感触で)覚えています。しかもお母さんの心臓音、もしかしたら血流音、そして声などはとても密接に近くに聞こえています。それに比べるとお父さんの声は遠くにあり、お父さんの声にお母さんはいつも反応しているはずです。ですから、お父さんに対するお母さんの心情などは声色や口調に表れているはずです。お父さんと対話してお母さんが泣いたり、怒ったり、感情を害することが繰り返されることは、お母さんの心音や血流音や声で赤ちゃんに伝わるでしょう。もしかしたらお母さんから与えられる栄養分の流れが増えたり阻害されるということから影響を受けることもあるかもしれません。それを不穏さ、不快さ、または不安という感覚で赤ちゃんが捉えることは想像に難くありません。

ここまでは生物学的に見て自然のことですが、スピリチュアル的な捉え方をすれば、赤ちゃんはそれ以上の感覚でお母さんを捉えている可能性があります。赤ちゃんはお父さんとお母さんの魂を選んで生まれてくる、などと言われますが、もっとざっくり言えば波長を感知して合うところに宿るという感じです。

私はある時、人間の赤ちゃんほど長い時間自分で動けない生き物は珍しいのでは、と気づきました。哺乳動物が生まれる映像など見ると、生まれたばかりの赤ちゃんがみるみるうちに立ち上がって、やがてお母さんと一緒に走りだすところを目にします。しかし人間の赤ちゃんは違います。2歳と言ってもよちよちしていて、全面的にお母さんの庇護を必要とします。潜在意識の形成期、赤ちゃんはそのほとんどをお母さんの愛情と庇護を求め受け取ることで成長します。私はそれを、人間という生き物が、生存と同時に愛を学ぶ生き物であることを示しているのでは、と思いました。愛を学ぶ必要がある生き物であるが故に、お母さんの愛情を一身に集めるため、肉体が自立するのに時間を要するようになっているのではないかと思ったのです。

その考えに至ったのは、退行催眠で思い出すトラウマの原因があまりに些細な出来事であるケースの多さによります。生後まもなくお布団に寝かされていて、お母さんに来て欲しかったけど来てくれなかった、とか、眠っていて目を覚ましたら誰もいなくてとてもこわかった、とかそういうことから人間は孤独や恐れの原型を自己意識に刻んでいきます。しかしこれらはあってはならないことでも、誰かのミスでもありません。人間が体験すべき自然な場面であり、それを通らずに人間の成長はあり得ません。

以前はトラウマというのはないほどいい、というふうに考えていました。また今勉強されている方もほとんどはそういう考えではないでしょうか。しかし、こういったことから人間が傷つきを体験し記憶し、それが後の心の反応を作っていくというのは、実際ネガティブなこととは言えません。ネガティブに捉えるか、前向きに捉えるか、という感じ方のほうがむしろ解放されるべきことであり、作ったきっかけはどうであれそれは言わば習慣、思い癖なのですから、それは気づきによって解放されればいいだけなのです。要は、理由を知ることより、自分が心のなかでなにをしているかに気づき、それを自ら手放すと決めること、その選択こそが重要です。そしてあとは仕組みに基づいてそれを実際に行うだけでいいのです。またその作業、ワークというのは、特定の人にだけ必要なものではなく、望むと望まざるとにかかわらず内面の成長、霊的進化を生きるすべての人にいずれ求められる自己を知る道につながると私は思います。

私はこう考えました。人間は、この世にやってくる時、波長の合うお父さんお母さんに宿った肉体に魂として宿ります。この波長はその人の意識のエネルギー体系によるもので、潜在意識にある過去世の記憶も大いに含み、関係します。(潜在意識は、過去世の体験からくる記憶と、今世の主に幼少期に形成される肉体意識の貯蔵庫です。)

そして赤ちゃんはまず、このお母さんが持っている愛に対する知識と愛情表現をコピーするように学びます。3歳までほぼつきっきりで教えてもらおうとします。頭でそう考えるのではなく、本能でそれを求めます。本能では、人間の赤ちゃんは他者に面倒をみてもらわなくては生きられないことを知っていて、必死に気を惹こうとします。時に笑顔で、時に泣き声で。そしてその本能の発令がうまく機能しないとき当然ながら恐れをいだきます。それが恐れの記憶の原型になります。

一方魂の目的では、赤ちゃんは両親、特に縁の強い(お腹から一心同体であることから)お母さんに対して非常に強い愛情と愛情欲求を持っています。同時にお母さんから、魂の学びの基礎となる愛について学んでいきます。13歳くらいまでの間にそれを完了し、それ以降は実践に入るわけです。恋をし、そして愛し合うことやもっと大きな愛について実践していきます。そこで初めて自分が学び、無意識的に受け入れ信じてきたものが試されることにもなります。それで、躓いた時、またお母さんと同じやり方では通用しないような人生の局面に出くわした時、初めて過去を振り返る必要が出てくるのです。

そこでしなくてはならないのは、単に自分を知ることだけです。私たちは自分自身をよく知ることを通してこの世を知り、神を知っていきます。過去にあるのは、そこへ自己を向かわせるための道標です。

子どもはどうであろうと自分の人生に則したテーマを生きなければなりません。お母さんから学ぶのはその最初のスタート地点だけであって、確かに自己意識の礎を占める重要な役割ではありますが、それを糧に乗り越え学ぶのはその人自身です。トラウマさえも含めて、それはその人が最初に与えられた人生を模索する手がかりに過ぎません。それが優しいものであれ、厳しいものであれ、それがこの世で自分を生きていくための地図に予め埋め込んでおいた付箋となります。

インナーチャイルドワークは、無くするべき傷を癒やす方法を超えて、自己をその無意識的習慣と思い込みという檻から解放するための自己探求のやり方です。

魂とスピリチュアル、この世の表面に見えているもののもっと奥の仕組みを探って行くと、私はそこに行き当たりました。現実の奥にはそうあるべくしてある、壮大な仕組みがあります。ワークの目的を、自己の傷の修復と見るか、更に壮大な魂の真の目的への道標とするか。私は前者から後者へと導かれました。多くの方がそう導かれることを祈っています。