天使とのつきあい方

今日は、長年のお付き合いをさせていただいているお客さまからいただいたご質問への答え、を掲載させていたきます。
長いセッションの積み重ねの体験があると、お互いの共有する理解の中で、私自身が自由になれて、深い内容について触れることが容易になります。これは私自身のしあわせです。

いただいたご質問は、AZUさんご自身は天使やマスターにどのようにお願いをしていますか、という内容です。

昨今では波長の法則が認知されるようになり、高い波動は高いものを、低いものは低いものを引き寄せる、ということが広く知られるようになりました。確かに、この物理次元の法則はまったくもってそのようになっています。
それが認知されることはすばらしいことですが、そのために、自分の本当の状態を自分にまで隠す、というようなことをしている人をよく見かけます。いいことを引き寄せたいがために、本当は悲しいのに、それを思考で片付けて、ないことにするような態度です。

私はそれを本末転倒だと思っています。それは、自分をよりよく変える道を逆行するようなものです。

より良き未来を創るのは、自分の意志に他なりません。そしてそれはいつも未知です。
私たちが既に知っている良いことというのは、現状の自分にとって都合のいいことなのです。
でも、本当の良きことというのは、私たちが未体験の奇跡からやってきます。それは、神からの贈り物です。
神からの重要な贈り物というのは私たちにとってだいたい、都合のよくないものです。予期できないような道を辿って届くのです。

波長の法則を知って、神からの贈り物を期待する人は、もっと、もっとと贈り物を求めるようになっているように見えます。
でも、私たちは本当は、神からの最上の贈り物を受け取る準備をすべきです。それはときには過去にあげた自分の成果を手放すことです。

恵愛するヨガナンダ先生は「神からの贈り物を求めるのではなく、神そのものを求めなさい」と言います。スピリチュアルを信奉する人はぜひ、そうしていただけるといいと思います。

以下のメッセージは、そういう生き方を選ぶすばらしさにすでに気づかれた人に向けて書かれています。

 

天使って、人間界ではいろいろに捉えられていますが、ほとんどは自分の思いの投影だと思います。私も実体としてどんな存在かと言われると、これ、というふうにはわかりません。でも、いる、というか、ある、ということはわかっています。
私のイメージでは、より高次元の意識の層みたいなものです。定義するなら、高次元であり人間として生きたことがないエネルギー、だそうです。

マスターは、人間として何度も転生して、そして人間をマスターしたエネルギー(魂)と言われていますよね。

私のお話をするのであれば、私が自分を明け渡していいのは「神」だけと強く思っています。「神」というのは、より高いものではなく、完全でありすべてです。

神は波動すら持たないと喩えられています。点、みたいですよね。点には面積も体積もない、とされています。神は全宇宙の点みたいに私は思っています。点は、すべてのどこにでも存在できます。

その神の次の次元には意識が存在する。もう少しこの次元に降りてきていただくと光や愛や叡智や完全なる生命力として姿を現してくださる。神の息吹のようなものです。それは聖霊と呼ばれます。

そうなると、私たち人間にもそれを捉えられる可能性が出てきます。
私たちの魂は本当はすべてを知っていますが、知覚で捉えるのはとても難しいです。知覚はからだベースでそれを理解しようとしますから。つまり体験的に知っているものの範疇で判断しようとするのです。

生き物は生まれてこの方、からだベースで生きるよう訓練されてしまっています。でも、待てよ、魂は知っていたはずなのに。では、魂に訊いてみよう。それが瞑想ですよね。(魂は、神に準ずる意識で、個々に備わっています。)

祈りは、そこへつなげてください、というお願いです。聖霊を通じて、神や魂そのものと直接つなげてください、という。

そんな私たちの姿勢があると、天使やマスターは喜びます。自分たちと近い波動を感じて引き寄せられます。
天使も、マスターも、神の波動が好きなのです。自分たちもそこへ近づきたくて仕方ない存在だからです。

ですから、ともに神に歩み寄ろう、明け渡そう、という意識と連帯し、協力し合い、助け合います。そう、これは助け合いです。仲間の誰かが前進したり、またはつまずいて学びを深めたりすることで、互いに影響し合えるからです。

彼らは神に歩み寄りたい意識を無条件に助けます。ですから、彼らにはただ、お願いすればいいのです。彼らは無条件の愛を体現したいのです。

私たちはその助けを受けることでまた、無条件の愛を実体験できます。お互い様です。

世間でいろいろ言われているのは、自分なりの考え、つまり次元の枠のなかで高次元を考えているからです。例えば、神に歩み寄ろう、自分を明け渡そうという決意無く、ただ漠然と天使にお願いしようとしても、本当は何をお願いしていいかわからないと思います。それで、こんなお願いはOK、こんなのはNGとか、そんなふうに分けなければならなくなります。例えば、自分が心地いいものをください、不快なものはいりませんとか。または、そんな低次元のお願いは通らない、とか、欲になるとダメ、とか。確かに自分をよく知る段階で、それは体験すべき道ではあります。

でも本当は、目的がはっきりしていなければ、天使も手伝いようがないのです。それでも彼らは無条件の愛を体現したいから、ある程度どんなお願いにも応えます。でも今度は、受け取る側に疑問が出てしまいます。「こんなになんでも叶えてもらうだけでいいのかしら。そんなはずないけど」と。

それで、真理の探求が始まるなら天使も本望なはずです。より良い目的をみんなが探し始めれば、それで無条件の愛は目的が果たせています。

私はいつも、「最高次元の根源なる神よ」と心の中で呼びかけ祈り始めます。天使やマスターたちはその私の祈りを全部聴いています。そして私の本当の望みを知っている神の意志に沿って私を護ったり導いたりしてくれます。

私にとってのピンチというのは、それらの信念(直覚)がぐらぐらとするときです。自分がとんでもなく間違ったところにいるような感じがしたり、愛という次元から外れてしまったように感じるときです。○○さんもそうではないでしょうか。

それは一番の試練ですよね。

そんな時こそ、お願いをします。そういう時は一番のピンチですから、お願いの仕方などまったく問題ではないと私は思います。普段から祈りと瞑想をしていればいるほど、それが届くことを知っています。

マザーテレサは、本当の愛は傷つくものだ、と言います。それは、愛が弱いものだという意味ではなく、本当の愛を求め、体現して生きようとすれば、肉体に近い次元の心は痛みを感じるということだと思います。多くの人が、覚醒すれば痛みを感じない、と誤解をしていますが、覚醒というのはより繊細になることですので、実際はますます神の助けを必要とするようになるのです。そしてますます、自分を神に明け渡せるようになります。

もし天使(無条件の愛)が、重い波動のものを救えないとすれば、地獄にいる人はどうやって救われればいいのでしょうか。最も困難で苦しみにある人は、どうやって光をみつけるのでしょう。一ミリも光が差し込む余地のないほど重たい苦しみにあっても、それを救うのが天使の仕事です。そうやって人はどこで何をしていても、光を見ないことはできません。ただ顔を少し上げるだけで、それはそこにあって、手を伸ばせば触れられてしまいます。願いというのはそこに手を伸ばすことです。

やってみてください。そして、神が望むのであれば、そのカオスの中で、ただ自分であり続けるという訓練を受けて立ってください。受けて立とうという決意によって、神は次のレッスンを準備し始めます。

わたしからわたしへ


1日1クリックの応援いつもありがとうございます。

今悲しみの中にある人は、祝福を受け取る時が近づいています。
今痛みを感じる事の出来る人は、癒やす力を授かります。
今苦しみを引き受ける人は、救われ救うことができるでしょう。
今喜びの中にある人は、感謝を知り、謙虚さを学ぶでしょう。

今あるものを充分に感じてみましょう。
そうすると、奇跡が起こります。

奇跡とは愛というのパワーが起こす化学変化。
それは人知を超え、物理の法則を超え、目に見えない。
しかし私たちはそれを感じるちからを持つ。

神は無条件に癒やし、神は無条件に愛します。
あなたが無条件に愛することは不可能です。
あなたがこの世の幻想に本当に気づきそれを受け入れるまでは。
しかし神の無条件の癒やしを受け取り、神の無条件の愛に満たされることを選ぶことはできます。
(それは祈りによってなされる。)
今ここですぐにでも。

癒され満たされたとき、あなたは初めて、あなたがこの世の光であることを知るでしょう。
神と同質の光の保持者であるということを。

それを知れば、あなたは誰かに傷つけられることはあり得ないということがわかります。
あなたを傷つけるのはあなた自身。
あなたが幻想に力を貸した時、それは起こる。

私たちは幻想を信じ幻想に加担しちからを与える。
それは神から分離しており
神に相反する勢力があるという妄想を生み出す。

あなたが自己を尊ぶ行為を始めると
あなたは幻想から徐々に目覚める。
その目覚めは想像よりもずっと優しい。

ただ、ひたすらに傷ついている自己を癒しなさい。
癒されるとその自己は重力から解き放たれ、時空を超えて空へ昇り、
あなたへ感謝と愛を注ぎ続ける存在になる。

あなたはもはや幻想に脅かされない。
無限の大いなるベッドに横たわる真実とひとつになる。

人は高次元に進化してどうなるのか。


1日1クリックの応援、いつも本当にありがとうございます。

スピリチュアルを学んでいる人の多くが、自己の怒りを持て余しているように感じます。この怒りさえなければ私はもっといい人間になれるのに、と。

しかし真実は、怒りは必要なのです。少なくてもあなたの中に今あるそれは、あることが真実です。真実であるということはそれは必要なのです。恒久的に、ではなく、現在の状態として。

このことは度々書いていますが、まだあまりご自身のこととして捉えている方が少ない感触を受けます。しかしそれにしても、多すぎる。あまりにこのテーマが眼前にやってくるのは、私が何かを見落としているからに違いありません。

ということで、固定観念をなるだけ取り払って、瞑想し、もっと別の視点から、もう少し広く高い視点からこのことが私に教えてくれていることについて問いなおしてみました。

そこで出てきた新たなテーマというのが『コミュニケーション』です。

『コミュニケーション』はスピリチュアルのセラピーには必ず含まれているテーマです。チャクラで言えば喉のチャクラと関係していると言われています。

私自身のテーマとしては、この部分は多分、あまり不自由を感じたことのない分野だったためか、それどころではなかったからか、これまであまり気にかけたことがありませんでした。

しかし私自身を含め、全体的な意識の進化を鑑みてみると、今とこれからのテーマはまさにコミュニケーションだというふうに見えます。これはもちろん私のフィルターごしに見た場合のことです。これまでは私自身がそこにいなかったから目に入らなかったわけです。

たとえば多くの優しい人たちが、自分の怒りを何とかして自分のお腹の中に納め、それを消却しようと必死に見えます。良からぬことはなんでも自分のせいにし、そして人知れず処分しなくてはならない爆弾を抱えて苦しんでいます。その上、そんな自分を愛せない、自分には何かが足りないのだ、と悩んでいます。これは一体、真実なのでしょうか。

こういう局面から学べることは確かにたくさんあります。まずは自分の心のクセ、習慣がそう思わせているということに気づくこと。それは幼少期に原型が作られ13歳以降はそれをなぞって投影している、もしくは過去世の生き様によって刷り込まれた原因から来る影響であるという仕組みを知り、それを変えたいのであれば潜在意識へのワークをすること。そのワークとは、瞑想という意識の深みへ自ら入り知覚するやり方であること。またその癒し手は自己意識の最も深い内なる真実の自己であるということ。

ある程度取り組みをすることで私たちは自分の取り扱い方がわかるし、それは自分を愛することであると同時に自分を役立てることに繋がるということ。

取り組みが始まると、古い内面のガラクタが一掃され、重苦しいベールが剥がれたように爽快になることもあります。だからといって人生における問題を避け続けられるわけではありません。

人生は片付けるべき問題ではなく、生きるべき神秘だという言葉があり、出会った時にはとても印象的でした。しかし時間を経てみて思うのは、人生には避けていい問題など無いということです。お釈迦さまもおっしゃる通り、人生には最低でも生老病死の四つの苦があるわけです。こんな苦にさらされることで私たちの魂は目覚めようとするのではないでしょうか。それらの苦をも上回る喜びを私たちは生きるなかでみつなくてはならない、と。

人生の目的というのはそういうものだと思います。よく寝食を忘れるほど好きなどと言いますが、それが外にある対象ではなく、それらのすばらしいものの全てを創ったもの、知っているもの、そしてそれに生かされているという真実こそが、私たちが本当にみつけるべきもの、愛するべきものだと今では私は思います。

そんななかで人生の問題と向き合うとき、私たちはただ荒れ野で風に晒される孤独な存在ではなく、圧倒的なその愛すべきものの愛の中に生かされる者です。

そういう者としてただ眼前のあるがままを生きるとき、自分のことばかりを気にしなくてもいいし、自分の中のちょっとした欠点に目くじらを立てなくてもよくなります。自分を赦すとはそういう眼差しを持つことのように思います。

話をコミュニケーションに戻しますと、そんな愛されている愛すべき自分が感じている怒りをちゃんと認め、それを誠実に相手に伝え、一緒に今起こっていることについて考えてもらうこと、そして一緒に解決策をみつけていくこと。どちらの落ち度も欠点も互いが赦すことができるとそういうやり方が成立します。もちろん互いへの敬意や思いやりや忍耐や、愛そのものを鍛える絶好の練習になります。

自分が完全な人や欠点のない人になることが目的ではなく、完全の中に生かされていることを感じながら生きることができるようになることが重要なのだと思うのです。高次元であるというのは後者に近いのではないでしょうか。