人は高次元に進化してどうなるのか。


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スピリチュアルを学んでいる人の多くが、自己の怒りを持て余しているように感じます。この怒りさえなければ私はもっといい人間になれるのに、と。

しかし真実は、怒りは必要なのです。少なくてもあなたの中に今あるそれは、あることが真実です。真実であるということはそれは必要なのです。恒久的に、ではなく、現在の状態として。

このことは度々書いていますが、まだあまりご自身のこととして捉えている方が少ない感触を受けます。しかしそれにしても、多すぎる。あまりにこのテーマが眼前にやってくるのは、私が何かを見落としているからに違いありません。

ということで、固定観念をなるだけ取り払って、瞑想し、もっと別の視点から、もう少し広く高い視点からこのことが私に教えてくれていることについて問いなおしてみました。

そこで出てきた新たなテーマというのが『コミュニケーション』です。

『コミュニケーション』はスピリチュアルのセラピーには必ず含まれているテーマです。チャクラで言えば喉のチャクラと関係していると言われています。

私自身のテーマとしては、この部分は多分、あまり不自由を感じたことのない分野だったためか、それどころではなかったからか、これまであまり気にかけたことがありませんでした。

しかし私自身を含め、全体的な意識の進化を鑑みてみると、今とこれからのテーマはまさにコミュニケーションだというふうに見えます。これはもちろん私のフィルターごしに見た場合のことです。これまでは私自身がそこにいなかったから目に入らなかったわけです。

たとえば多くの優しい人たちが、自分の怒りを何とかして自分のお腹の中に納め、それを消却しようと必死に見えます。良からぬことはなんでも自分のせいにし、そして人知れず処分しなくてはならない爆弾を抱えて苦しんでいます。その上、そんな自分を愛せない、自分には何かが足りないのだ、と悩んでいます。これは一体、真実なのでしょうか。

こういう局面から学べることは確かにたくさんあります。まずは自分の心のクセ、習慣がそう思わせているということに気づくこと。それは幼少期に原型が作られ13歳以降はそれをなぞって投影している、もしくは過去世の生き様によって刷り込まれた原因から来る影響であるという仕組みを知り、それを変えたいのであれば潜在意識へのワークをすること。そのワークとは、瞑想という意識の深みへ自ら入り知覚するやり方であること。またその癒し手は自己意識の最も深い内なる真実の自己であるということ。

ある程度取り組みをすることで私たちは自分の取り扱い方がわかるし、それは自分を愛することであると同時に自分を役立てることに繋がるということ。

取り組みが始まると、古い内面のガラクタが一掃され、重苦しいベールが剥がれたように爽快になることもあります。だからといって人生における問題を避け続けられるわけではありません。

人生は片付けるべき問題ではなく、生きるべき神秘だという言葉があり、出会った時にはとても印象的でした。しかし時間を経てみて思うのは、人生には避けていい問題など無いということです。お釈迦さまもおっしゃる通り、人生には最低でも生老病死の四つの苦があるわけです。こんな苦にさらされることで私たちの魂は目覚めようとするのではないでしょうか。それらの苦をも上回る喜びを私たちは生きるなかでみつなくてはならない、と。

人生の目的というのはそういうものだと思います。よく寝食を忘れるほど好きなどと言いますが、それが外にある対象ではなく、それらのすばらしいものの全てを創ったもの、知っているもの、そしてそれに生かされているという真実こそが、私たちが本当にみつけるべきもの、愛するべきものだと今では私は思います。

そんななかで人生の問題と向き合うとき、私たちはただ荒れ野で風に晒される孤独な存在ではなく、圧倒的なその愛すべきものの愛の中に生かされる者です。

そういう者としてただ眼前のあるがままを生きるとき、自分のことばかりを気にしなくてもいいし、自分の中のちょっとした欠点に目くじらを立てなくてもよくなります。自分を赦すとはそういう眼差しを持つことのように思います。

話をコミュニケーションに戻しますと、そんな愛されている愛すべき自分が感じている怒りをちゃんと認め、それを誠実に相手に伝え、一緒に今起こっていることについて考えてもらうこと、そして一緒に解決策をみつけていくこと。どちらの落ち度も欠点も互いが赦すことができるとそういうやり方が成立します。もちろん互いへの敬意や思いやりや忍耐や、愛そのものを鍛える絶好の練習になります。

自分が完全な人や欠点のない人になることが目的ではなく、完全の中に生かされていることを感じながら生きることができるようになることが重要なのだと思うのです。高次元であるというのは後者に近いのではないでしょうか。