愛とはなにかという気づき

今日のセッション中に私の口から出てきた言葉を記します。私にとっても新鮮で、驚きと「ほんとにそうう?」という問いかけが同時に出てくる不思議おもしろい体験でした。

愛とはなんでしょうか。愛に似たもの、あるいは愛からもたらされたものを私たちは数多く体験し知っています。けれども愛とはなんだろう、という問いに答える本当の言葉に私たちはなかなか出会うことはありません。

今日、また神について楽しい話に夢中になりながら私は、魂がまったき光である神に向かって突き進んでいくビジョンを観ていました。私たちの誰もの内に在り、そのすべての魂が向かうふるさとの光。みなもとの光。

私たちは人間という肉体を乗りこなすべく夢中で肉体と一体化するうちに、肉体こそが自分だと錯覚します。そして肉体の法則を学び肉体の世界観を身に付けます。その限界と有限性という孤独の淵に立ち、やがて本当の自分を思い出し始め、ふるさとの光を求め始めます。

なんとかこの世界、この社会で乗りこなそうと必死で握りしめていた自己意識という操縦桿を、「手放す」という選択があることを知ります。

しかしそれを手放すためには心の中に、ひとひらの信頼というものが必要になるのです。確信はなくとも、理解はできなくても、道理がわからなくても、その握りしめた指をほどき掌を広げ捧げる対象が。そうです。私たちはそのまったき光に向けてその掌を広げ捧げるのです。

その信頼という原動力によって、魂が私たちを導き始めます。光に向かってただうなりを上げながら猛然と神の懐へと還ろうとするのです。

「それが、愛なんだと思う。」

魂が神に向かって動くちから、それが愛。

言ってしまってから「それほんとう?」と何度も反芻したけれど、なるほど、それかもしれない。

分離したと見せかけて本当はひとつだった、というところへ戻っていく、その動き。その動きそのもの。

そもそも完全であるものの一部が、完全という全体へと戻っていくちから。

ひとつになるちから。

それが愛なのかもしれない。多分そうだ。

私たちを癒し修復するちからとはそれしかない。分離という幻想の傷を、他者という加害者と、被害者という自己。あるいはその逆。あなたがそうするからわたしがこうなった、というストーリー。別の誰かという存在に脅かされる自分。恐れは防御を生み、攻撃を仕掛ける。攻防する心は常に他者を断罪し続け、結果自己を苦しめる。他者に罪があるということは自分にも罪があると訴え続けることになるからだ。

それらすべての陰影を消し去るものは、まったき光、つまり相反する対極を持たないものだけだ。光の中に影は、闇は存在することができない。そして防御のないところに影を作り出すことはできない。自己意識というのは防御が作り出した陰影でしかない。その陰影を見て私たちは更に恐れている。自分が作った幻影のおばけを見て。

また愛に身を委ねるとき、肉体であろうとする自己意識は非常にそれを恐れる。恐れは愛を妨げるが、愛そのものをも恐れる。自己意識が自分を失うことを恐れるのだ。愛という光りの中に自分が溶けていくのを。

人が愛を求めるのは、孤独から逃れたいからだけかもしれない。そこに崇高な理由はいらない。しかし愛を求める心はいやおうなく私たちを光に、神に向かわせる。

神はすべてに遍在するが内側に神をみつけない限り人は神をみつけることはできない。外側というものそのもが自己の創った幻影であるから。存在しないもののなかに神は存在しない。神は真実であるがゆえに、外側という幻想から私たちを目覚めさせる。神は実際には一つしかない。その一つをみつけたときに、すべてはその一つの中にあったとわかる。

内と外という隔たりを作っていたのも自分だが、内を見ない限り外に世界があるという錯覚から自由になることができない。ゆえに自己は世界から分離し続ける。

私は自分を始め、傷ついた人びとを通して神をみた。傷が痛々しいほど、神が、愛が、真理が、それをみごとに癒すところを目の当たりにすることによって。夢の中で、これは夢なんだと叫ぶことで夢から覚めるように。傷ついて、怒って、悲しみにくれてたまま、私たちは神をみつけられる。夢の中でそれが夢だと気づくことができるように。私たちはなにひとつ否定する必要も拒絶する必要もない。ただ、今あるところに、今いるところに、今置かれているところに、今与えられているところに、神をみつけられるよう求めればいい。

そう求めることが愛なのだ。そう求めさせる引力が、愛なんだと思う。

あなたが選ぶ現実

この世の法則と高次元の法則。
この違いってわかりますか?

似たものは似たものを引き寄せる。(類は友)
与えたものが返ってくる。(ブーメラン)
カルマの法則。(因果)

これらはざっくりこの世の法則。物理宇宙の法則。
昔の人は「いいことをすれば自分に還ってくる」と教えました。

しかしもう少し内面を観ていくと
実は、自分が自分に与えた「想い」
つまり意識のエネルギー法則が働いているとわかります。

自分が自分を攻撃すると、外から攻撃される。
自分を敬うと周囲から敬われる。
自分が自分を愛すれば、愛される。

この法則は、例えば周囲に一生懸命なにかをしてあげたり、
良かれと思ってがんばったりしていても
自分の心が「嫌われたくないから」とか
「そうしないと良くないことが起こるから」とか
「相手にわからせたいから」
など消極的であったりコントロールしたい想いのエネルギーが潜んでいれば
愛よりも恐れとしてそれが発せられ
結果恐れをもとにした現実が返ってくる、という結果が来ます。

がんばっているのにいい結果、つまり幸せに結びつかないのです。
がんばるほどに、もっとがんばらなくてはならない結果がついてきます。

これもいわば物理法則です。

高次元の法則とは、それを凌駕したうえで超越しています。

愛とは与えるもの、などと言います。
愛とは無限、愛に優る法則はない。

物理次元の法則に生きている人が
もし無限に与えていたら、枯渇し失ます。

しかし高次元の法則、
つまり神と愛、無限の創造の法則に生き始めるとどうでしょう。

私たちは神という無限の源泉から湧き溢れる愛という光の
通り道になることができます。

愛は無限に増殖します。
私たちの源は、愛です。
しかし私たちがその源とつながるという選択をしなければ
私たちはさしあたりこの世界の物理法則に生きています。

レイキヒーリングでは「私たちはエネルギーのパイプになる」と言います。
それをからだでしっかりと体験すると
私たちは自分が無限の源泉、つまり神の愛とつながっていると
心身でわかり始めます。
最初から最後まで、癒しの極意はそれです。

私たちにはただ、体験が足りないのです。
物理法則ではなく、愛の法則の中で生きるという体験が。

無限とつながるということがどういう生活をすることなのか。
頭ではなく、心から、からだの底から、体験することが。

肉体がある限り、人間は無限でいることはできません。
無条件の愛だけでいることはできません。
無条件の愛は神の特権です。
しかしそれを、からだをもって体験し実感すること、
今この瞬間それを知ることは、人間だけの特権です。
そこには必ず、圧倒的な夜明けのような感動があります。

私は無限の源泉の愛のパイプになる、という選択をしたその時だけ、
神の恩恵に与ることができます。

そして毎瞬のようにそれを選択することでしか
それを招き入れることはできません。

本当に毎瞬のように気づき、選択し、招き入れることがおそらく
完全な目覚めであり悟りです。
その時、本当に過去や未来、時間が無くなるのです。

そのようになるまでの間、
私たちは時間の中で生きます。
時間という訓練者が教えてくれます。
その限られた時間の中で
尊い選択ができるようになるように。

私と神はひとつであり、私は愛そのものです、という
真実へ還るまで。

私腹、至福考

12-09-26_002

沖縄南部は強風域に突入しました。とたんに空は嵐もようとなりました。

私たち人間は、個々の魂のカルマを乗り越え消化していくとだんだんと内なる光の存在が感じられるようになります。自らの光を遮るような在り方から、共にある在り方になることは幸せです。不調だったところにことごとくエネルギーが流れて調和し、周辺の景色は変わります。自身の内なる光の放射によって、そう見えるようになるのです。特に家族というカルマ的な繋がりの強い関係に光が流れる体験は、神からご褒美をいただいているような幸せを味わうことができます。

そこで私たちは、ただそれを味わい感謝を体験するだけでいいのですが、出てくるのはその感覚に対する執着です。この状態を維持したい、という欲求と、また失って元に戻ってしまったらいやだな、という恐れが顔を出します。古い課題はクリアしてきたわけですが、新たなステージに上がるとそこにはまた新たな課題が顔を出すわけです。

その葛藤はエネルギーを膠着させて、私たちを肉体感覚の意識のほうへ引き戻そうとします。それによって私たちはまんまと、なりたくなかった状態、つまり元に戻っちゃった感覚を体験します。けれどもそれは本当は戻っちゃったわけではなく、新しい状態に慣れるための新たな練習課題と言えます。私たちの肉体意識はこんなに調子のいい、或いは平安な状態に慣れていないので、幸せすぎてこわい、というふうに心が感知するわけです。そして肉体は再び警戒警報を発令します。そこには本当は敵はいません。心から古いパータンから抜けきれていないだけです。

心と身体が新しい自己(意識)に慣れるためには時間と体験が必要になります。この神の計らいは実に見事です。神はここで、緩やかな時空を私たちに与えます。心や肉体感覚で対処しない環境を与えてくれるのです。急がない、思考で組み立てない、できる限り自己の中心にいる時間を増やし、起こった最低限のことに、この状態のまま対処していく、というのがここでのレッスンになります。

いったいこのあとどうなるんだろう、どこまでこのようなことが続くんだろう、と、多くの人が考えると思いますが、この頃には古いカルマや自己意識の枠を外した体験があるので、本質の流れ、つまり魂の導きを信頼してついていくことにも多くの人は馴染んできています。ですからその流れに従っていくことは、小刻みにつまづくことは起こっても(実際何度もつまづくことでしょう)恐れをなして後へ引き下がることはもうないでしょう。以前より今のほうがずっといい、ということを知っているからです。

私たちは至近距離に迫っていた個の課題、家族の課題に恩赦を与えられ、神の優しい導きを体験し、もうひとりではなく、その大いなるものとともに歩む人生のことがわかってきます。同時に、以前の視点から見ていた、或いは想定していたことと事実とは随分違うな、と、多くの人が気づきます。過去の視点から覗く未来は一直線上に延長線を引いていく世界ですが、実際は、自分はどこにも移動していないし移動する必要もなかった、ただ、見通す感覚が変わり、見え方が変わり、感触が変わり、佇まいがかわり、捉え方が変わった。つまり自分が変わっただけなのだということがわかります。ですが、このことは同時に世界を変えたことになるのです。

新しい世界では私は何よりも、自分のことばかり考えなくなります。私って、私って、という心の声はすっかりきかれなくなります。これはどういうことかというと、私が私自身にうんとフィットしている感じです。本質と個がフィットして、一体感があるので、私って、という分離感がなくなっていくのです。私に対する意識は高まり、私を尊いものとして扱えるようになり、愛するようになります。自己意識が設けた枠がはずされ、よりあるがままでいることが可能になるのです。自由で、楽で、平安、という表現が合っているかもしれません。

古い視野では、解放された自分は望むような自分になることを達成している、というイメージかもしれません。しかしそのイメージは小さな枠の中にいる自分が今の不満を晴らすための願望が込められていますので、達成自体も人生においてはあまり意味のあるものではないと言えます。(小さな自己が)望む自分になるのではなく、本当の(真の)自分(我)になるのです。本当の自分がもしつまらなく退屈だったらどうしよう、そうではなく、私は私よりもっと素敵なものになりたい、と枠の中の小さな私は思います。その事自体が、自分をわかっていない証拠です。枠の中に入っているので本当の自分なんてまったく見えていないというわけなのです。ですから、その枠をはずして、想像もできなかったような本当の素晴らしい自分に出会えばいいのではないでしょうか。

その方法というのが瞑想です。そこで多くの人が、おっと、その瞑想とやらを習得しないと本当の自分にすらなれないというのか、いんちき臭い、と思うでしょう(小さい枠の中の私は以前そのように言いました)。もっと自然に生きてこそ、あるがままに近づくんじゃないの、と。でも、ただこの日常を一生懸命生きるだけで、自然に生きることにはならないのです。私たちがそもそも、幻想という煙にまかれて生きているのだという前提を私たちは知りません。生まれ落ちた瞬間からそうだから気づきません。これが、あの映画のマトリックスのからくりです。そこから出るにはわずかな違和感をスルーしないで嗅ぎとって、嘘を拒まなくてはなりません。嘘を拒むには、真実に慣れることが一番です。瞑想は私たちのうちにある真実に意図的に意識を向け、そこにいることです。ヨガナンダさんふうに言えば、内なる神に、愛を捧げに行くことです。その神をみつけることが人生の目的だとヨガナンダジはおっしゃいます。

彼はみつける、とおっしゃっていますが、実際はただみつけるだけではなく神とできる限り片時も離れずに一緒にいること、そのための技法がヨガだと師はおっしゃいます。

ところで、個のカルマをすっかり解放してしまうと、そこには空のスペースが生まれます。それで小さい枠の中にいる人はその自由を使って好き三昧に生きたい、などと願望するものです。ですが、実際に空になると、見通す世界は無限に広がり、世界中のカルマが透けて見えるようになるそうです。そして、導くことはもちろんですが、そのカルマを自身に引き受けることができるようになると。つまりカルマを解脱した人は私腹を肥やして贅沢をすることができるようになるわけでも、仕事でスペシャルに成功し、願望達成を自己実現だなとと言うこともなく、(それもカルマ。いいカルマと言われますが人生の目的ではありません)そういう外面的なことには影響を受けなくなり、世界中の人々のカルマを引き受けてあげられるようになる、ということです。ですから、成功しているふうなことをことさらに目標にする人や、それを幸せだと言って売り物にするような人の言うことには私は用心します。至福な人は神と一緒に仕事をし、生活をし、周囲を幸せにする人だと私は思っています。