インナーチャイルドの真実

この世に生まれた赤ちゃんの最初の世界。
父と母という神の原型が、家庭という世界を築いていて、まずは自分の居場所と安全を確認する。

赤ちゃんによっては先にもう少し大きい住人がいることもある。
もっとたくさんいることもある。
沖縄へ来て驚いたのは、何人ものおとな(たとえば親戚のおじさんおばさん)が同じ王国に暮らしていたケースなどが意外と多いこと。

でも、大国の創造者であり自分のいのちを直接養う神はお母さん、そしてお父さんだ。

自分の居場所、それは「神々に歓迎されているかどうか」そして安全は「神々が友好的に平和を保っているかどうか」だ。
「歓迎されているかどうか」は「自分は愛されているかどうか」そして「友好的に平和かどうか」は「お父さんとお母さんは愛し合っているかどうか」と言い換えることができる。

赤ちゃんにとっての愛情確認は死活問題だ。

潜在意識(インナーチャイルド)の成り立ちと仕組み、作用の説明をこれまで何度繰り返してきただろう。何度も何度も繰り返し理解を求めているうちに自分の内側から真実がぽつぽつと浮かび上がってくるようになった。こういうのを降りてくるというのだろうけれど、降りてくるというような突発的で不安定な感覚ではない。

たとえばやかんのなかでいったんお湯が沸いたらそのあとは定期的にぼこぼこと水蒸気の泡が上がってくる。この泡を捉えるのだ。水である時の水蒸気は目に見えない。たとえ見えなくても空気中にそれは気体として上がってはいる。この水蒸気を見ようとするのがよくあるスピリチュアル風なやつで、見える人には見えるし見えない人にとってそれはオカルト的だ。

しかし瞑想を継続的に行って自己意識の浄化(既成概念の見直し)をして自分の波動を上げていくと水温が上がり、沸点がくる。そこから水蒸気を捉えるのは普通のことになる。見えるし聞こえるし、普通に実態があるのだ。

話を戻す。
前回の記事にも人間は弱いとかサバイバルに不利だと書いた。確かに知性はずば抜けているが、愛が伴わないと自滅すると。思いやりという裏打ちがない文明は、いづれ他者を倒すとか勝つとか、そんなことのために用いられるだろう。それが生き物の第一の本能だからだ。オオカミやライオンは自分の足と牙で適う相手を探すけれど、人間の知性はもっと多くに優る。知性の発達と愛の深化は、生き物としての人間にとっても不可分なのだろうと思う。

人間の潜在意識が3才くらいまでに最大の発達期を迎え、その後の変化はとても緩やか。13才ほどでその発達は収束してしまうとされる。私が面白いと思うのは、その発達期に人間という生き物が、肉体的には文字通りお母さんにおんぶにだっこだということだ。知性、意識ばかりが発達して肉体のほうは自立しない。そのアンバランスは人間という生体にとってそれが必要で重要だからなのだろうと思った。

人間の特質は圧倒的に知性だ。それと不可分なのが、情緒と言われるもの、感情、共感、そして愛なのだと思う。それなしに人間は生き残れない。知性は自立できない。破壊力はいつか自己を含む同種に向かい自滅するはずだ。賢者が長いこと警告し続けてきたのは寓話的な発想ではなく、人間の仕組み、原理そのものから解析した真実なのだと強く思う。 

人間は3才までに、お母さんにつきっきりの愛情を求める。目を離さないで、ずっと見ていてほしい。これはすべてのインナーチャイルドの根源的な欲求だと思う。そこには身の安全を図る「本能」と、愛情を求める「情緒」が入り混じっている。これが人間という生き物の原点なのだ。

心の問題と言われているものは、すべて愛情の不足だなどと言われる。その言葉を聞いて憤慨する人もいる。愛情不足をお母さんの努力不足、能力不足と混同すべきではない。愛というのは数字のように過不足を測れないものだ。だから私たちはそれについて一生かけて、いや、数千の輪廻を超えて学んでいるのだ。

愛はそもそも誰にも不足している。それがインナーチャイルドを探求してきた私の感想だ。完全な愛を知るまでそれは続く。完全な愛を神と呼ぶことができる。私たちの魂はそのための旅をしている。しかし新しく生まれてきた肉体のほうは知る由もない。そこでボタンの掛け違いが起こる。魂の求める愛を、肉体のほうはお母さんに求めるのだ。完全な愛を。

魂を主体に世界を観ると、インナーチャイルドの抱える欠損こそが、人間が魂の任務を遂行するための仕掛けなのではと思う。お母さんの愛が至上であったらその人はそれを超えることを求めるだろうか。自分が渇望するものを、人にも与えようと努力するだろうか。

いづれにしても、インナーチャイルドの問題を扱うとき、魂つまり超意識以上の観点を持たない限り、必ず限界の壁に当たる。それが私の得た真実だ。潜在意識を補修すれば「人並み(か、それ以上)の生活できる」という世界観から抜け出せない。前回書いた通り、暗雲が晴れる快感のために不幸を体験するというループ以上の喜びが見えない。

そうなると、欠損を作り出したのはお母さんの過失であり、それを赦すには我慢するしかない。欠損を抱えながらこの世を生きるのは不利であり、自分が過失を起こさないためには「子供にしてはいけないことリスト」を遂行することが子育てに必須になる。自分への愛などあとまわしだ。

この分野はまだまだ発展中だ。暗雲を一度すり抜けたことでセラピーばんざい、という気分になりセラピストを目指し実際行っている人も多いと思う。その中にもちろん真実はある。ただ、それで全部だと思わないでほしい。

自分の人生には多くの体験が与えられた。そこから得たものを伝えることは一つの使命だと思う。しかし体験から本当に大事なことを言葉やかたちで伝えるという作業は本当に骨が折れるものだ。私は伝えきれない多くを意識の海に記録していく。誰かが瞑想によってそれをすくいだして活用してくれるだろう。私が与えてもらったように。

ひとりじゃない

「わたし、ずっとひとりぼっちだと思っていました。でも、ひとりじゃなかったんですね」

こんな言葉をヒプノセラピーやカウンセリングのセッション後にいただくことがよくある。それは、例えば両親との和解や対人での気づきがあったときに限られるのではなく、むしろ自分自身、深い自己意識、インナーチャイルドや自分の過去世の人生、またハイヤーセルフに触れたことによってもたらされる感慨であることが多い。

ひとりじゃなかった。

人生を生きていてそう感じる前と後では明らかに世界は違っている。どんなに他者と親密になったとしても、どんなに大勢とつながったとしても、そのことで「ひとりじゃないんだ」という平安を恒久的に持つことは不可能だ。私たちは出会っては別れ、得ては失う。得たものが大きければ喪失も大きい。これが地上世界の真実。

ひとりじゃなかった。

私にもかつてこの気づきがあった。それは黒から白へと切り替わるように起こるのではなく、巨大な歯車があるときから逆回転を始めるように訪れる。巨大な歯車とは、地球が私の世界を乗せて回っているのと似ている。逆転のために一瞬世界は静止しなくてはならない。それから慣習のちからに馴染んでいたあらゆる創造物は軋み、あるものはなぎ倒される。例えばエスカレーターがいきなり止まり逆走するようなおかしな感覚。それが地球レベルで起こるのだ。

ひとりじゃなかった。

その時、すべては変わる。たとえば光り。たとえば言葉。たとえば形。たとえば愛。
(ひとつひとつ想像してみてほしい。)

孤独の中に見える光と、ともにある者に見える光は。
孤独の中に語る言葉と、ともにある者が語る言葉は。
孤独の中に知る形と、ともにある者が知る形は。
孤独の中の愛と、ともにある者の愛は。

まったく別のもののように変わる。共有する範囲も、ベクトルもその意味も。
二つの世界はつながりを失い、さらなる孤独へと堕ちたかに見える。それが世界の静止と逆転だ。

ひとりじゃなかった。

これは瞑想における重要な通過点であり目的地でもある。内なる神は私たちを創造し導き育む。私たちの意識の根幹に座して私たちの生命に寄り添い続けている。私たちが今世のこの肉体を与えられるよりも遠く古からずっと。その存在を内に確かに感じることが、私たちを孤独という分離の幻想から目覚めさせる唯一の道だ。孤独である限り、私たちは戦わなくてはならない。自分を守れるのは自分自身。もしくはこの世で味方と言える少数の他者しかいない。私たちは安全を得るために戦い続ける。そしてその戦いに終わりはない。生とは死と死の合間のつかの間の、物語に過ぎない。

ひとりじゃなかった。

ひとたび孤独という幻想から覚めたとき、私たちの生は変わる。生は永遠のもの。生は真実そのもの。その時ようやく、私に私という存在が見え始める。それまでの私という幻想が軋みなぎ倒され、本当の私が見えてくる。私は永遠なるものの一部であり、真実の一部であり、愛であり、私は授かったものであり、私は生かされている者だとわかる。

ひとりじゃなかった。

その気づきは私を変える。私という過去の誤った枠組みを打ち砕き、私は尊さの顕現であるとわかる。私は愛されし者であると。

その時そこに自分への感謝が生まれ、自分を愛するということの真意が、すべての尊き者への賛美だということがわかる。私はすべての尊きものとともにある者。

自分への感謝は即ち尊きすべての者へのそれであり、すべての尊き者への賛美は私への愛だとわかる。その時、私というものは消滅し、ただ、神とともにすべてがあるとわかる。

世界に私はいない。
世界には私というすべてと、神だけがある。

神に触れる

みなさんこんにちは。投稿久しぶりになりました。先週末は定休日にプラス2日のおやすみをいただき、夫婦と夫の母と3人で長野へ行ってまいりました。長野は私の父の故郷でもあり、夫の風間家の古いルーツでもあり、ご縁を感じています。

旅のテーマは諏訪大社と風間氏発祥である風間神社の巡礼でした。夫の往診先のおばあにおやすみをいただくときに理由をお話すると、おばあは「先生はえらいさー」と言って褒めてくださり「どここどでこういう仕事をしています、と、神さまにちゃんと言ったらいいさー」と教えてくださったそうです。

旅はのっけからおもしろいことだらけでしたが、話が長くなってしまいますのでまた今度ということにして、帰ってきて感じたことですが、やっぱり瞑想とこういった巡礼は別ものでした。どういうことかというと、旅の刺激で頭の中がわんわんしてしまい、落ち着くためにはどうしても瞑想が必要でした。神さまに触れ合いに聖地へ赴いたのですが、神さまを感じるには圧倒的に静けさが必要だということでしょう。数回瞑想するうちに内面は静まり、肉体の疲れもそれとともに癒えていきました。

巡礼というのはそれそのものが自分へのご褒美ですね。神とのつながりというのは普段の生活の中にあるものだとしみじみ思いました。

さて、人間にとっての神さまってなんなのでしょう。神さまが人間に望むことってなんでしょう。

いろいろな側面があり表現があると思いますが、どんな場合にも私は一番に「人間のしあわせ」だと思います。神さまは人間のしあわせだけを望んでいると思います。

人間とはとても複雑で高度な仕組みを持ちながら生きています(神に似せて創られたと言われるほど)ので、しあわせになることは一筋縄ではいきません。だから、神は私たち世界の背後に遍在し、私たちを常に内面(意識)から導きます。

私たちは人生ゲームの最中、どんなに必死になってもはっと我に返って「神さま、私のこのゲームはあなたのご意志にかなっていますか」と問いかけることが許されています。そしてそのルールを採用したとき神さまは必ず応えてくれることになっています。

私たちはついつい、ゲームをプレイしているのはわたしであって、その全責任は自分だしその成果も自分だけのもの、と勘違いしてしまいます。しかし、人生のゲームは常に神さまとのチームプレイです。そしてこの物質界に出現してくる以前の水面下で、ほとんどすべての段取りや設定を、私たちの自由意志が非常に尊重されるかたちで整えてもらっています。

私たちが自分という存在をよく見てよく感じてよく知り、そしてその本質に沿った選択ができたとき、神のちからは最大限に私たちと一体化できます。なぜなら私たちの本質と神の特性がひとつだからです。

「自分のしあわせってなんだろう」
このことをどうぞ追い求めてください。その問いとその追及こそが、神が私たちに歩んでほしい道です。そして何度も本質から逸れながらもあきらめずに求めれば、おのずとその答えに出会うことができます。

「しあわせ」についての様々な誤解がこの世にはあります。インナーチャイルドを探求することの目的もここにあります。過去世を探求することの目的もここにあります。ハイヤーセルフを探求することも、チャネリングをすることも、宇宙と真理の探究をすることも、すべてここにあります。

人ひとりの想念にも、社会的な通念にも、そして世界の在り方のの中にも、しあわせについての誤解が満ちています。私たちはその誤解の存在に気づき、そしてその誤解に慣らされてしまった自己の洗脳を解き、そして本質という光りであり愛であるものに出会い感じること。魂は私たちにそれを求めています。神とその愛は私たちにそれを求めています。

私が人生を通して体験した神はそれです。

無いものねだり

だいぶ以前に、ネット上で「ありがとうの反対はなんでしょう?」というのが話題になっていました。
憎しみ?とか怒り、とか、無関心?という返答もありましたが、その設問の答えは「あたりまえ」でした。

なるほどうまいこと言うね、と思っていましたが、言葉の通りだなとつくづく思います。
反対語がどうのというより、ありがとうは「在り難き」ことが与えられたことへの感謝なのですね。

もらって当たり前、持っていて当たり前と思っていたら、在り難き幸せは湧いてきません。

また他者への感謝は意識していても、自分自身に対して、例えば自分が無意識にできていること、となるとほとんどの人は敬意を払いません。
無意識だからそうなるのは当然ですが。

今の世の中、やろうと思えば多くのことが体験できます。
学校へ行って習ったり資格を取ったりもやればできる。
やらないからできない。
そうなってくると、まるでそういうことをしないことが怠けているような気までしてくる。

やってます!という派手なエネルギーにみんながあおられているような気がしてきます。
自分への付加価値をたくさんのっけていかないと満足がいかない。
そうでないと生きていけない、とまで思い込む。
たくさんのっかっている肩書が自分の価値だ。
はっきりそう思わなくても、なんとなく空気の中にそういうものがあって、知らず知らずに同意している。

私も過去はそういう性質でした。
スケジュール表が埋まってないと落ち着かない。
とりあえずやった、という手ごたえがほしい、という感覚に追われていました。
常に焦って人生を生きていたし、やってもやっても満足というものもありませんでした。

そして、自分ができていることはみんなできてあたりまえ。
だからそれ以上のことをしなければ、と感じていました。
当然、できている自分への敬意も、天から与えられた資質への感謝も足りていませんでした。

思い起こせば母はそういう観念を強く持っていた人だと思います。
客観的に見れば彼女はとてもユニークで突出したところをたくさん持った人なのに
「容姿は十人並み、才能がない、結婚なんてだれでもできる」が口癖でした。
娘の私はなんとなくそれを刷り込まれて、十人並みにはるかに劣る自分の容姿を始めいろいろなものに劣等感ばかり。
あげく誰にでもできると教えられたはずの結婚が、望んでも望んでもできないということを母に証明するかのように苦労しました。

結婚は確かに籍を入れればできるのです。
問題なのは、結婚を通して幸せになるかどうか。
結婚しようがしまいが、自分を幸せにする努力こそが大事です。
それを置き去りにして社会や誰かから認められるための努力ばかりに気をとられていました。

認めてもらうための付加価値と、幸せになるためにみつける自分の本当の価値とでは、天と地のように違います。

どっちもほしい、と思う人も多いかもしれませんが、両方いっぺんに追いかけるのは実際にはほとんど不可能かもしれません。
付加価値がいっぱい乗っていれば自分の中身をみつけるのにそれだけ目くらましが多く、また本当の自分の価値を優先しようとしても付加価値を手放すのがこわいのです。
人間は失うことをとても恐れる生き物だから。

幸せになること。
それを求めること。
真剣にですよ。
そうすると、人は大切なことに自然目が向くようになります。
それは心です。

幸せになるのにはたくさんのものをバランスよく持っていなければならないと多くの人が思っているようです。
それで、あれこれ手に入れるために、幸せになることを真剣に求めることを後回しにしてしまいます。

でも本当に足りないものも、本当にみつけなければならないものも、人生にはわずかです。
それ以上に莫大なたくさんを、私たちはすでに、持っています。

ちょっと足りないわずかなもののために努力し、すでに持っている莫大なものにたくさん感謝できたら、人生はとても豊かです。

気づきはそういう豊かさを与えてくれます。
瞑想はだから、人を幸せにするのです。