心のセラピーで体験する真実について

セッションへのお問い合わせで多いのが「どんなことをするんですか」というご質問です。HPにはたくさんのうんちくが述べられていますが、初めての方にとっては「で、そこへ行って何をするの?」というお気持ちは当然のことと思います。

私のセッションは基本的に対話形式です。使うのは言葉とエネルギーです。ヒーリングのセッションは対話よりもエネルギーが主体ですが、マッサージやその他の体への手技や道具などは用いません。リラックスしていただくためにリクライニングの椅子にもたれて足はオットマンの上にあげていただくのが通常ですが、手を触れるのは足の甲と、ごくまれに両肩だけです。

こうやって改めて書いてみるとますます不可思議な感じがしてきました。しかしカウンセリングというのは通常対話だけです。そして催眠療法も言葉だけです。それだけで内的な変化「気づき」を促進することができるのですが、そこにエネルギーヒーリングを取り入れてパワーアップしているようなイメージです。

私自身は芸術的な部分、感受性や感覚が強い部分と、非常に論理的で偏屈なところが混在した人間です。不思議は大好きだけど、すべての奥にある秩序や法則を知ることがもっと好きです。ですのでセッションも当然ながらみなさんが「不思議と思うことが不思議でなくなること」は一つの目的でもあります。スピリチュアルというとなんだか不思議そうなことをさも不思議そうに扱うことのようなイメージが持たれがちですが、本来まったく違います。不思議に見えるのは、奥に流れている原則がわからずに表面化している現象だけ見るからなのです。

どこまでいってもどうしても原則だけで割り切れないものだけが本物の神秘です。読んで字のごとく、神の秘法です。もちろん神の秘法にもその原則があるのですが、それを知るには時間と距離に縛られた私たちの頭には解釈ができません。しかし私たちはすでに時間と距離を超えた原則に影響を受け、支配されています。そうです。私たちは3次元世界だけに所属する生き物ではないのです。そもそもそうであるのにそれを理解せず、理解できる3次元の理論だけでものごとを解決しようとすることに無理があるのです。ですから私たちの世界はいつも「問題だらけ」なのです。

私たちが自分という存在の真実を思い出し、その次元に意識の波長を合わせると、私たちの本来のエネルギーが正常に作動し始めます。心も視野も広がり、心身が楽になり始めます。魂と肉体の関係の歪みが戻り、本来の生命力やパワーがあるがままに流れるのです。

そして、本来持っていて使うべくして与えられてきた方法での生き方が可能になります。人間が人間以外の動物の生き方をまねてもお手本にしてもどうしてもうまくいくはずがありません。彼らは本能を最大限に活用して生きますが、私たちは本能のままにいくら進もうとしても理性が邪魔をします。

そう言うと、理性よりも本能を信頼しようと考える人も出てきます。確かに本能が優位な人は、生存する能力に長けています。スピリチュアルな人と「この世での生きづらさ」は現代ではほぼイコールとさえ見られます。

理性というのは単に理論的なのとは違います。私たちの内にある魂の質は、理性の愛です。本能は「奪え」と言っても、理性の愛は「与えよ」と私たちに命ずるのです。私たちを葛藤させるのは元を辿ればこういった本質的な乖離でしょう。

この挑戦は人間の本質的な存在意義とテーマを表していると私は思います。

私たちの魂は人間の肉体に宿ってからこのかた、肉体に従うことを強いられています。肉体の制限に慣れ、肉体の法則を知り、肉体の特性を学ばなくてはなりません。その最初のトレーナーはお母さんです。自分の面倒のみかたはなるだけ手っ取り早くお母さんから盗まなくてはなりません。

ですから潜在意識という「習慣の領域」は人生の最初の3年でおおかたを吸収し基盤を完成させます。これがインナーチャイルドの正体です。

そして身に着けた習慣を生かしてこの世界、社会に適合することを一義として生長します。成人するころにはすっかり「肉体としての自分」こそが自己であると信じ切っています。そしてその自己をゆるぎないものとして確立し、それを生かして生き抜くこと、それがこの世での勝利であるとの価値観を疑いません。一般的には。

しかし、その生きざまと理性の愛はことごとくぶつかることでしょう。無視しても無視しても、その火種が消えることはありません。私たちは愛によってしか本当の関わりはできませんし、つながること、コミュニケーションができません。

いかに自分を愛からそらしてごまかしたところで、それが突き付ける人間の存在としての学びから逃れることはできないのです。

私は今では思います。奪うというゲームはなんとお気楽なものか、と。与えるという本質を生きないで、本当に生きたと言えるのか、と。

多くの人がまだまだ本能をこそ本質だと勘違いしているのだと思います。皮肉なことに、ゲームが洗練されるにつれて、それは顕著になっていくようです。みんなが本能を満たすことに必死です。もっと、本能を刺激してくれ、でないと生きている感じがしないんだ。

しかし、それがあなたの渇きを満たすことは永遠にないでしょう。本当に渇いているのはあなたの中に在る、神だからです。神は、あなたの愛がその本分を発揮することを渇望しています。神の分身であるあなたの魂がその本質に目覚め、神とひとつになるべく始動することを。

あなたがそのことに目覚め、それ以外のことをまずは脇にどけていいという選択をしたとき、あなたの渇きは真の満足を知るでしょう。それは言葉にすれば本当に些細なことかもしれません。かたちにすれば見えないほど小さな事かもしれません。結果として。けれどもあなたの内側の世界は宇宙の前進のらせんが逆転し始めたほどの衝撃なはずです。これはやってみた人だけがわかることです。

私たちは条件やかたちを何一つ変えずとも、絶望から希望の状態に移行することができます。自分で作った牢獄から自分で出るように、自分で作ったルールを自分で変更するように。しかしどの場合も、まず自分がどんな牢獄に閉じ込められれ、どんなルールに縛られているのかを見る必要があるのです。それがどれだけ無意味で滑稽で不要なものかを思い知ればそれを手放すことは本当に容易です。

しかし暗黙のルールの多くは自分の世界に慣れ親しんであたかも自然にそこにあるかのように見えるものです。

私たちが自分を縛っている本能や感覚的な習慣という眠りから、本質である理性の愛に目覚めると、波動が上がります。次元が上昇するのです。理性の愛は、私たちの頭が知っている正しいことなどとは全く違っています。そこは能動的で発展的で喜びに満ちた創造性が支配する世界です。

その時、私たちを縛っていた鎖はもはやその重たい次元での姿を保っていることはできません。それが、問題が問題でなくなる時です。その時心は解き放たれます。一度放たれた心は狭い檻にもはや戻ることができなくなります。果てしない本質への無限の旅が、喜びとともに始まるのです。

負の体験がもたらすもの

セッションをしていて「私は幼少期にそんな(良い)体験がないから」或いは「良い記憶が全然ない」ということをよく伺います。インナーチャイルドのワークを独学で学ばれた方はこの点に行き当たったとき壁を感じてしまうのではないでしょうか。

確かに幼少期に満たされる体験、成功体験、つまり肯定的な体験が多ければそれは人生を進むとき大いに助けてくれるでしょう。自分が愛されていると実感できる人は、誰かに愛されることに抵抗がありません。しかし、子どものころになんでも受け入れてもらえたからと言ってそれを愛だと受け取っているとも限りません。

また、ヒプノセラピーのセッションで驚かされることのひとつに、事前に伺っていたご本人の見解とはまったく違った事実が発覚するのはよくあることです。「あれ?いい思い出なんて何もないと思っていたのに」「愛されたことなんてないと思っていたのに」という結果になるのはとても自然なことです。

ですからいつもつい書いてしまうのですが、自分でワークすると自分の観念(思い込み)を覆すのは難しいものだと思うのです。逆にそれを強化してしまってそこから抜け出せなくなっている方も多いと感じています。

稀にですが、本当に救いの少ない幼少期を送られてきた方もいらっしゃいます。またいくつかの不幸な出来事によって本当に深い傷を負っている方ももちろんいます。あまりに傷が深いとき、自分で治ろうとするちからが弱まってしまうことがあります。ダメージのほうに意識が飲み込まれてしまっていて、その場合は回復にとても丁寧なプロセスを踏むことが重要になります。それは一進一退に見える根気と忍耐力と寛容さを求められる作業です。そんな時に絶対に必要なのは、無限の愛のちからです。つまりハイヤーセルフ、魂、内なる神の存在なしには癒せません。

さて、本当に愛情やそれに似た安心や解放、自由という感覚の幼少体験が極度に少ない人、潜在意識の基礎を築く13才以前に非常に偏っていると言わざるを得ない環境に身を置いた人には将来にわたって人生に困難が付きまとい、満足のいく生き方を選ぶことができないのでしょうか。

映画などにはよく、劣悪な環境から精神のちからで立ち直り美しい人生を創造した人の物語があります。それくらい、幼少期の環境によって受けた影響から自由になり新たな世界で生きることは難しいということなのでしょう。

しかし、私たちが今世の肉体の体験以上に多大に受け取る影響力があります。ひとつは自分の魂が過去に肉体を持った時の体験の記憶の数々であり、更にそれよりも深く私たちの意識の中心的な座に位置する、魂の記憶です。

前世の記憶って魂と違うんですか?と訊かれることは多いのですが、人間の肉体の記憶は潜在意識に、そしてその中でもエッセンスとも言える愛の記憶は魂に記憶されると考えられ、魂は超意識と言われる領域を指します。もちろん今世でも、魂はあらゆる体験のなかから愛のエッセンスを記録し続けています。たとえ今生で愛を知らないと表層では思っていても、実際はその記憶を内側に持っています。

私たちが感覚や思考で知っていることはわずかです。無意識の領域には私たちを罠にはめるような理不尽な自我はもちろんのこと、生きるために必要なあらゆる叡智が込められています。その両者があることを知れば後者を選ぶことはうんと容易になります。

自我は肉体の感覚器官に結びついており(潜在意識の領域)、私たちは感覚を鎮めないことには内側の叡智(魂や内なる神の領域)とのつながりを感じることはできません。瞑想はそのための手段です。

多くの人が自分を高めなければ内なる神とつながれないと信じているかもしれませんが、どちらかと言えば内なる神とつながれば自分が高まる、というほうが真実に近い気がします。善きものとつながるために、自我を黙らせる練習を積むのです。

とてもきついトラウマと救いの少ない環境で育った過去を持たれてる方と心から共感できた言葉をここに記しておきます。

「痛めつけられた過去を持つ人の特効薬は真理しかないのよ」

深くつけられた傷はどんなに補おうとしても痕跡を残す。その痕跡は私たちをより恐れやすく感じやすくより傷つきやすい在り方へ押しやる。その悪夢から私たちを目覚めさせるのは真理という真の現実だけだ。傷ついた人たちは愛の不在の傷の執念深さをよく知っている。それは愛以外のものによって補われることは決してない。

完全なる愛だけがその傷を完全なものに変える。

矛盾を解く

私はセッションやメールでのやり取りでよく「ご質問ください」と申し上げます。質問をいただくことで、その方が何を理解しているのか、また何を(理解)したいのかがよくわかります。

ハイヤーセルフや魂、また内なる神(普遍の霊=スピリット)との対話についてのお話でも、「問いかけをしてください」と申し上げます。そうするとハートの中に、感覚の中に、周囲の現象のなかに、応えが還ってきます。というより、神はすべてを与えているのですが、私たちにはそれが全体的過ぎて認識しきれないので、問いかけることで意識にフォーカスがなされ認識しやすくなるのです。メッセージが来るというのはそういう感じです。

ですから、「神への対話では、質問上手になってください」とよくお話します。

私自身が神について、また心や摂理についてすべてをお話するのは困難を極めますが、ご質問というフォーカスを与えていただけると、それが真理の一部分に光を当てていただけることになるので、言葉にするのが容易になります。きっとどんな知識に対しても言えることです。

ご自身の中の何が問題なのか、ということに多くの方は行きついていません。もし行きついていればそれは自ずと解決に向かうはずなのです。問題には常に誤解とそこから来る混乱があります。神はなんでも応えてくれるのですが、混乱のなかで、つい大事なことを神に求め忘れているのです。

対話というのは、目的を共有することによって、混乱を整然とさせるちからがあります。その目的地を何に設定するかがとても大切です。私にとってそれは神であり愛であり幸福です。そこから私自身が逸れなければ、神のほうから私たちを迎えに歩み寄ってくれます。

神、というとやはり宗教を連想される方が多くおられると思います。私はクリスチャンの大学に通い、礼拝という授業がありました。牧師であり教授である先生が講話をされます。前島誠先生の講話は断然素敵で楽しく人気がありました。

なかでも一番印象的だったのは、「信仰は神が創り、宗教は人間が作った」「神は完全だが人間は不完全」です。当時とても納得しました。

今では私は、「神はひとつ」ということにとても合点がいっています。昔は、「宗教の数だけ神がいるのか」とか、日本神道に至っては「八百万の神」などと言われ、どうお付き合いしていいのかさっぱりわかりませんでした。

神はひとつ、ということを理解すると、世界はシンプルです。真理はシンプル、と言われますが、「神はひとつ」が真理だからでしょう。

多くの人が対立しているかに見えるこの世界は、実はかりそめの姿です。対立することで世界は物質化され、ぶつかり合うことで磨かれます。そうすると世界は分離して見えます。分離、と簡単に言いますが、分離する、対立する、ということは、それらの方向性は別々を指し、目的地も違うということになります。

世界の戦争は宗教戦争だ、思想の違いだという刷り込みがあります。それが真実なら、神がたくさんいて、神同士で主義主張が違うということになります。本当にそうであれば、人間が平和を選択するなんて不可能です。神が望んでいないわけですからね。

それで、「人間は本質的に争う生き物なのだ」などという論調さえ生まれてきます。しかしそれは人間の中の本能的な自己意識の特性のひとつに過ぎず、普遍的な本質だとは言えません。

神はひとつであるというのは、いろいろな個性を削ってひとつにするという意味ではもちろんありません。神がひとつであるなら、私たちの目的も目的地もひとつです。神がひとつであるなら、私たちの様々な側面の違いというのは大して重要ではない、大事なのは共通の部分だ、ということです。その部分にこそ、神の特性が潜んでいます。

もし私の神とあなたの神が、別々の方向を指し示すのであれば、私たちは対立します。しかし、本当はこうです。神は同じですが、私たちの自己意識のフィルターを通すために違った色や形に見え、同じ言葉は違った解釈に取られるのです。

スピリチュアルの情報の中に、あたかも対立する勢力があるかのようなお話がありますが、それは神の話ではない、と私は思います。ご先祖とか歴史にはもちろん対立があり勢力があります。支配力のある勢力を神々とみなす傾向が私たちにあるのは、私たち人間の性質のためなのだと私は思います。本能的に自分がそうありたいのです。

神とは対立しないものです。なぜならひとつだから。私たち肉体を持った人間がそれを理解しながらに生きるのはとても高度なことです。しかし、わたしたちはその可能性を秘めています。なぜなら神を宿す似姿だから。だから私たちは本能以上に深く、愛を求めるのです。

地球と人間は対立するでしょうか。表面上、それはあるように見えるかもしれません。肉体的な生命としてそれを見れば。人間こそが害虫だという見方をする人もいます。しかしそれは本質でしょうか。

植物も、また野生動物も、愛が媒体となることでその生命が輝くところを私はことごとく目にします。本能より愛がまさり、他者への思いやりや優しさ、また美しさなどという美徳が輝くのです。人間は自ら意識的に与えることのできる生き物です。そのエネルギーが実は命の奥に遍在する神の意志を宇宙に循環させます。

愛と奉仕の人間と、支配的で利己的な人間の対立を光と闇になぞらえて説明する情報を見かけるのですが、この立場なんて、一瞬で変わります。そもそも愛や神と対立できるものなんて宇宙に存在するのでしょうか。もしあるのであれば、やはり神はひとつではないし、ワンネスなんて存在しません。

支配的で利己的というのは、単に肉体にしばられた想念です。そしてそれは、不滅の真理ではないから、いずれは解体され霧消するのです。

不滅の真理だけが永遠に存在します。私たちはその刹那、真理と幻想の狭間を垣間見ています。魂が一瞬の夢を見せてくれ、その夢の間に多くを学ぶのです。と、同時にそれは遊びです。神の壮大な、そして小さな戯れです。

どのような状態からも、愛は一瞬で目覚めさせてくれます。時に正しさが通用しなくても愛は通用します。私たちはその法の保持者であり行使する者です。

魂の見せる夢は多くを学ばせる一方で、この至上の法を時々忘れ去らせてしまいます。あまりに夢のストーリーに没頭しすぎるとそうなるのです。思い出すためには肉体から少し離れて魂であることに浸る(瞑想する)のです。

悠久のなかで、私たちはすべてとひとつであり一体です。ですから目的も行先ももちろん一緒です。だからこそ、神は在ります。

そもそもひとつで一体のものにわざわざ問いかけるなんておかしなことのようですが、そうすることで分離の夢から本体へ、つながりを戻すことが容易になるのです。

完全無欠

『絶対に不可能なものを求めて生きていこう。例えば完全無欠、オールマイティー・・・』

というような書き出しで始まる文章は私のものではなく、狛江2中で同級生だった、私の人生に間違いなく多大な影響を与えてくれた友人の、卒業文集の作文。

このフレーズを私は忘れたことがない。最近になってますます頻繁に脳裏をよぎるようになった。

それは私が神を求め、内なる神と頻繁に問答するようになってから加速している。神への問いかけへの答えはいつも私にそう言わしめる。そうだ、つまりは不可能なものを求めて生きることなのだ、と。

私たちは神に多くを望むかまたはまったく期待しないかのどちらかだが、神は私たちにたったひとつを望む。
それは、私たちが、神へと近づくことだ。

しかしどうすれば近づいたことになるのかはほどんどの人にとって未知である。

かの作文の主とはある時を境に交流がなくなり、私は行方を知らない。けれどことあるごとに私は彼女に感謝をつぶやく。大概はそうだが、その最中にある時、私たちはそれにどれほどの価値や意味があるのかを知らない。どんなにか貴重な出会いや体験なのか、ほとんどわかっていない。

自分や人生というものに注意深く向き合い続けて止まない人だけが、その恩恵にある時気づく。
「ああ、あれは分岐点だったな」とか「よくあんなことできたよな」とか、「そのときは当たり前にしか思っていなかったけど、あれは恵まれていたな」とか。感謝なんて本当に感じるのは渦中を過ぎて静まったずっと後のことばかりだ。

自分の人生を振り返ってみて良かったと思えることはほどんどこんなことばかりで綴られている気がする。ほとんどなんにもわかちゃいなかったし、自分でわかってて選べてなんかいない。ではいったい、どうやって生きることが最善だというのだろう。まさに渦中にある時、なにを基準にものごとと向き合い選べばいいというのだろう。

そこでかのフレーズが浮かぶのだ。そうだ、私は、絶対に不可能なものを、精いっぱいに求めて生きているのだ。例えば完全、例えば神、例えばオールマイティー。中学3年生だった彼女が私の知らないなにを見据えて書いたのかわからない。でも私は今それこそが自分が求めていたものだったのだとわかる。

私はこんなふうに恵まれて、導かれて生きてきた。神の使者はあらゆるところの配備されていた。でも渦中には、ただがむしゃらに藁をもつかむ思いで無様にばたばたと暴れ散らかして生きてきただけだ。

渦中にありながら楽しむことができる、苦難の時を感謝のなかで過ごす、苦痛を平静に受け入れる、良き事悪しき事すべての体験から学ぶ。そんなことを可能にしてくれるのは恐らく神だけだ。だから私は神を求める。神からの贈り物を、ではなく、神そのものを。神に少しでもにじり寄ることを。

どんな状態のなかにも神をみつけることを望む。どのような状態の中にも神をみつけることができるのなら、それ以外になにを望めばいいのだろう。

楽しむために神が必要なのでも、笑顔でいるために神が必要なのでもない。楽しくない時も、笑顔でない時も、神を忘れないことが必要なのだ。神の不在が消えたとき、苦は存在できなくなる。苦から逃げも隠れもしないことが苦の消滅への一番の近道なのだと思う。

私は絶対に神のようにはなれない。だから私はそれを永遠に望む。しかしその不条理のなかにも、神が存在し私たちを導く。その一瞬一瞬の中におそらく私たちは真理をみつける。