(犬の)おかあさんから学ぶ人間育て

SDIM7919犬と付き合っていると
人間を考えるうえで
勉強になることばかり。

おかあさん(野犬を引き取った我が家の保護犬の名前)の
子供2匹とも対比できるからなお興味深い。

子どもたちは屈託がなくて誰にでもなつっこいけど
おかあさんはものすごく人を選ぶ。

犬好きで絶対犬に好かれる、という
やさしーい人でも怖がって逃げる。
おかあさんを見てみなさん決まって
「いじわるされたはずねー」とおっしゃる。

うちで家族といる分には甘えん坊で
さわってさわってー、
かわいがってー、
でもがまんもします、と
聞き分けのいい良い子です。
でも定期的に性格が変わる、というか
ムラがあって
体調などを見分けにくいという問題がひとつと

圧倒的に社会性がなく
一番困るのは
ちょっとした変化やアクシデントで
すぐにパニックになってしまうこと。
そうなると自分の身の安全を守れない。
人間と同じで判断力が著しくなくなってしまう。

例えば狭い道で車が近づくと、怖がって
なぜか車のほうにふらふら近づいて行ってしまう、とか。
こういうのは見ているとなんとなく
子供のころの自分に身に覚えがある。

それで、やっぱりうちでは
しつけをこつこつとしている。

どんなにびっくりしたり興奮していても
オスワリ、フセ、できること。

「見て」というとぱっと注意を向けることができること、とか

散歩でものすごく
リードを引っ張ってしまうのが悩みの種だったが
これも、緊張と、怖がってパニックで
慌てているんだとだんだんわかってきた。

普通は、自分をリーダーだと勘違いしている、
などと説明されている現象で、
それもあったかもしれないけれど。

それで、観察していると、外界に反応して夢中で前に進もうとしていて
私の足音のリズムにあおられている感じもある。

夫のほうが歩幅が大きくゆっくりなので
そのほうが若干落ち着いているように見える。

そこで私は自分の足音よりも1.5倍くらいゆっくりのテンポで
いーちに、いーちに、と掛け声をかけるようにした。
足音がかき消されるくらいはっきりと声を出して。

もちろん最初は引っ張るたびに方向転換させて注意をひいて。

すると、なんと見事にゆっくり歩けるようになった。
焦って引っ張ったときでも、
掛け声でぱっと我に返ってゆっくり歩ける。

リードが理想的なカーブでたるんだまま
一緒に歩けるようになった。
すごい感動。

そうなってからは散歩中も何度も立ち止まって
私の目を見るようになった。
国道を渡るときは立ち止まって「クルマ、見て」というと
座って右、左、と見ている。

実際なにを見ているにしても、
突っ走ってしまわずいったん呼吸を置くことができることが
とても大事に思える。

こういう意思疎通はそれだけですごく嬉しいし
おかあさんも笑顔がすごく増えた。

多分犬側から見れば、
いろいろなことに気をとられて散漫になったり
警戒したりびくびくしなくてはならないタイミングが
すごく減ったのだと思う。

怖れに夢中になっているときは
何を言っても耳に入らない感じだったけれど、
ぱっと意識を呼び戻してあげることができると
平常心に戻るのがとても早くなり、穏やかが増す。

このあたりは人間にもすごく応用できるなと
散歩中によく考えている。

例えば小さい子供さんなど、
警戒モードや散漫モード、小さなパニックモードから
お母さんの合図でぱっと平常心に戻ってこられるようなら
すごくいいように思う。
なにより本人が生きやすいだろうと思う。

おそらく多くの人が、そういうモードからの戻って来方が
よくわかっていない。
というか、無意識なのだ。
自然に忘れる、というような習慣になっているのだ。
で、おとなになってもテレビをだらだら見たり
別の何かおいしいことで気をひいたりしなければ戻れない。

意識的に戻ってくる方法が瞑想なのだが
無意識なのであまり必要性もわかっていないことが多い気がする。

子供のしつけ、という問題を仕事がら常に意識している。

しつけという言葉からの連想は過去に置いておいて、
本人の平安、平常心のため、ということを中心に置いての
コミュニケーションと考えると、
人間が成長する上でものすごく大切で
幸せのために重要なことのように思えてならない。

しつけとは何か、という命題はネット上でもよく語られているが
人間には本能と霊性があるという大局から見れば
霊性を妨げないで発揮するために
いかに本能を軽やかに訓練してあげるかどうかが

この世を幸せに生きるカギになるようにも思える。

おとなになって、自分を育てなおした自分をかえりみても
ものすごく実感する。

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今月のおかあさん~本能と愛~

去る9月4日に、我が家のおかあさん(犬です)は避妊手術を受けました。

私も夫も、人生で手術の経験がなく、できればなるだけメスを入れない人生を歩めたらと望んでいました。ですからおかあさんにだって同じ思いです。

うちの子になって一か月を過ぎたあたりからおかあさんに生理がきました。犬の場合は生理が来ると発情前期となります。そして発情期に入ると、オス犬を引き付けるフェロモンを出します。

勉強してみると、オスのわんこには発情期というのはないのだそうです。要はメスの発情に触発されてオスは発情するわけです。

おかあさんが発情期に入ると、驚くべきことにうちの周りにオスのわんこが四六時中徘徊するようになりました。朝おかあさんのところに行くと知らないおっさんやイケメンとばったり顔を合わせるなんてことが頻繁に起こり、夜中におかあさんの声がして窓から外を見ると、おかあさんとそっくりな後ろ姿がひょこひょこ歩いており、最初はおかあさんが脱走したかと思って外に飛び出したりしました。

以前のブログをお読みいただいた方にはお分かりのことですが、わが家の並び3軒はおかあさんとおかあさんの娘が二匹養われていて、それから坂を降りたところのご近所さんのところにもピカピカな血統の匂いがする女のわんちゃんがいます。そしてなんとなく、一斉にみんな発情期みたいなのです。

それでご近所わんちゃん世帯は今、でーじやっさーなのであります。わがおかあさんはすでに出産を経験しており、この子たち含めて具志堅の奇跡の里親連合に引き取られ一安心したと思いきや、翌月からはこの騒ぎです。

我が家では会議に会議を重ねた結果、おかあさんに手術を受けてもらうという苦渋の決断をしました。

前の晩からご飯を抜いて、手術後病院に一泊して帰ってきました。きゃんきゃんするかなとか、暴れたり嫌がったりするかなとか、いろいろとシミレーションしましたが、結果としておかあさんは起こったことは受け入れるタイプの犬でした。おそれをぐっと噛みしめて固まったままじっと耐える子なのです。夫に迎えに行ってもらうと、おかあさんは久方ぶりにしっぽを持ち上げたそうです。大好きなはずのご飯もまったく口にしなかったそうです。麻酔でふらふらになり、車に飛び乗れずにずっこけて、呆然としながら帰ってきました。

帰ってきたおかあさんは、10歳老けた、という感じでした。野犬だったときとも比べ物になりませんでした。私はそのやつれ方が、父が病気の時とダブって見えました。顔の筋力の落ち方や表情、動きなど微細なところが、向精神薬や麻酔によるものというふうに見えました。これはまったくの私の個人的な感触による感想で、おそらくほとんど理解されないのでは、と思うのですが。

翌日から定休日の二日間、私たちはべったりとおかあさんに付き添うことにしました。ガレージの車をどけておかあさんのエリアにしきものを敷いて、おかあさんと添い寝したりごはんやおやつを食べたりヒーリングをしたり、おかあさんが眠ってしまうと瞑想したり読書をしたりして過ごしました。

二日間のうちにおかあさんは精神的ショックからだんだんと目覚めてくるように見えました。

その後おかあさんは少し赤ちゃん返りをしたようにやんちゃになってよく吠えたりしました。それからようやく最近になって落ち着いてきた様子です。

さて、手術前はあれほどモテモテだったおかあさん周辺は静かになり、あれほどお気に入りだったイケメン君と道端で会ってもお互い知らんぷりしています。私と夫はその様子に唖然としました。

おかあさんとイケメンとの恋愛沙汰を見ていていろいろと思うところがありました。一度、夫が往診から戻ると二匹が交尾中ということがありました。するとおかあさんは元気よく夫にしっぽを振って駆け寄ろうとしました。イケメン君はびっくりしておかあさんに引きずられながらおたおたしていたようです。

夫はまずおかあさんのからだを心配して、(変な話なのですが、交尾中びっくりしたりすると大変なことになったりするらしいのです)冷静に二匹を落ち着かせ、いったん家に戻ってきてから、そのあと非常にショックを受けていました。なんだか、本能と愛情が識別できないおかあさんが哀れになってしまって、と言っていました。

夫の言っていることはよくわかりました。おかあさんは私たちにはもちろんですが、野犬時代にごはんをくれた人間さんたちにも非常に心を開いていて、誰のことも忘れないで再会するとしっかり愛情表現します。人間に対しては人間が愛情と感じるような態度で表現するのですが、犬同士のセックスには愛情はないのかもしれません。

私は本能と愛の境界線をはっきりと見た気がしました。人間の中にも同じような領域と境界線があります。人間がもう少しはっきりとこの領域と境界線を認識することができたら、どれだけ人間同士の誤解や憎しみを解くことができるだろうと、改めてつくづく思うのです。

さて、今日の話です。おかあさんにばんごはんをあげてしばし団らんしていると、暗闇から猛然と近づいてくる足音がしました。シロです。シロがまた首輪抜けして脱走してきました。脱走するとうちに飛んできて、それはすごい声であいたかったーあいたかったーを連呼します。かわいいです。首輪がないのでどうやっておうちに送っていこうかなと思いつつ、なんとなくお散歩のふりしておうちに誘導していくと、なんと、かのイケメンがやぶの中から顔を出しました。暗闇でよく見ると、シロのリードが後ろ足にしっかりとからまって動けなくなっています。そうです。イケメンは今ではシロちゃんとクマちゃんともできているのです。そういう節操も犬にはどうやらありません。

娘たちかわいさから、イケメン君をなんとなくいけ好かない野犬扱いしていましたが(おかあさんもシロもクマも野犬だったくせに。)その様子はとても痛々しく、何とか紐をほどいてあげようとしました。けれど紐は何重にも巻き付きねじれたあげく、かた結びになっていてうまくいきません。イケメンが暴れるので思わず「おすわり!」というと、イケメンはとっさに言うことを聞きます。やっぱりイケメンは飼い犬だったようです。

夫の応援を呼びにいったん家に帰るとイケメンは大きな声で助けてと叫んでいます。やぶ蚊とハブを恐れながらも必死にイケメンを救出しました。暴れないようにおすわりさせ、頭を撫でてあげると、甘えてきます。なんと、これがまたかわいいのです。

しかし救出の最中も、もう少しというところでシロがじゃれてくるのでイケメンもついノッて暴れてしまいます。これが本能なわけですね。夫が「このバカ本能」と言いながら必死にイケメンの足の紐をほどいているのです。もうなんだか笑えてきます。まったく人間のてんやわんやをよそにカップルは本能を謳歌していました。

イケメンは外国のおうちでよく飼われているような、ひょろっとして耳が少しだけ折れている、毛が短くて手足の長い、そして目が大きいイケメンです。シロとおんなじような眉毛をしています。野犬とは思えないきれいな毛並みをしています。

ああ、どなたかこのイケメンを保護してくださる方いないかなー。かわいい子が増えると気がかりが増えます。

おかあさんコーヒー


おかあさんです


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直観と直感、ハートと本能

父が亡くなって1年が経ちました。震災前と後で世界が変わったように、父の他界の前と後では微妙にその世界が変わったと感じています。

この肉体はかりそめのものであり物理次元は幻想とはいえ、意識と肉体の別れというのは、いえだからこそ、地殻変動なみの大きな衝撃をもたらすものなのだと実体験いたしました。たかが肉だけのことなのならこれほどのことはなかったはずです。

ヨガナンダ先生も『あるヨギの自叙伝』で、まことにそのように語っておられることは、救いと確信を与えてくれます。

改めて、魂の乗り物であるこの肉体がある意味というものを実感しています。

生きているだけで尊い、ということの意味は、深遠すぎて一言で語れません。しかし私はそれを思います。

みなさんがどう考えようとなにをしていようと、それ以前にみなさんは存在しています。意識として。

その意識がどうあるのかで世界は彩られています。

潜在意識である肉体の記憶が洗い流され解体されていくと、その奥に肉体と時間を超越して記憶されている魂の体験である「愛」が目覚めます。私たちが肉体を持つ理由はただひとつ、これを実体験し、表現し、育て、成長することだけです。

父と私は関係のなかでこれに成功しました。その体験は奇跡そのものでしたしその経験があってこそ、今の喪失感があります。愛する者がこの世を去るのは、生きているものにとってはかけがえのないものを手放すことになるのです。

もちろん、魂の次元では失うことはないのですよ。でも「だから、平気、感情は動かない」ということと高次元であることは違います。

スピリチュアルを学ぶ人の中に、この、感情を無視してしまう人が多いことによく驚かされます。感情でいやな思いをしているので、感情にはなるべく触れないようにしている、という感じです。これは、トラウマによる体験の回避と言えます。

この状態が長く続くとどうなるかというと、ハートが無感覚になり、一番感じたいもの~高次元の愛~が感じられなくなります。すべては思考に判断させるようになるのですが、結果的には潜在意識の浄化もストップしてしまうので(癒すのは心でありハートとその奥にある内なる神とその愛だからです。)結局は肉体意識と思考が戦い、それに振り回されることになるのです。

私たちが癒されるということは、体験を回避しなくて済むようになることでもあります。あるがままというのはハートが開いていることですが、ハートは逃げたり隠れたりすることなく、堂々と向き合って、選択し、体験し、感じて、対処します。

ついでに、なんでもかんでも拒まないということと回避しないことの違いも感じてみてください。拒絶と選択の違い、流されると受け入れるの違い、従うと委ねるの違いと言えばわかりやすいでしょうか。後者には直観と内なる信頼が不可欠なのです。

私たちが自由であったり幸せであったりあるがままであったり今にいたりするには、たくさんの罠があります。自分の意識で仕掛けた潜在意識の罠です。それを解除しないうちは、その罠をよけるために本能や思考を一生懸命使わなくてはなりません。多くの人が本質的導きである直観と、本能の働きである直感を混同していますが、両者は似て非なる、というか、次元の違うものです。罠を解除していけば直感ではなく直観が取り戻され、自由、幸せ、あるがまま、今にいることが自然なことになっていくのです。

ややこしいと感じる方、すみません。その場合はぜひセッションを受けにいらしてください。じかにお会いすると、理解していただくのがとても容易になります。


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潜在意識と戦争。

辺野古埋め立ての要請が行われました。17年を経て今だそうです。

私は、人間の進化の証として、愛と、平和の象徴として、この世界から戦争が消滅するというビジョンを持っています。これは、今の私たち人類にとって共有し得るビジョンではないでしょうか。ただ、これまでやってきた悪習をやめるだけのことなのですから。

愛と平和の社会というとよく、お金のいらない世界だとか、共同体を作るとか、今と全く違うシステムに変わるというビジョンが提案されています。『スライブ』という映画では、エネルギーのシステムが変われば共存ができる、という提案がされています。私もスライブは素晴らしいと思います。

だけど、その前に、です。新しいものを生み出すには、或いは受け入れるには、古いものを手放さなくてはなりません。長い間人間を支配してきたサバイバルという本能の権化が戦争という人間のからだに巣食っているおできです。

過去にはこのサバイバルが人間が生き抜くために必須だった時代もあると思います。しかし今ではそれは中身のない儀式のように形骸化され、それを一部の人間によってビジネスとして利用され続けています。重要なのは、利用する側は地球上のごく一握りの人たちで、利用されているのが大多数であるということです。そしてこともあろうに、利用されている人は、自らの意識の中でそれを選んでいるというとことです。利用されている人は自由意志でこう言います。「戦争は人間の本能だよ。」「戦争はなくならないよ。」「戦争があるのはしかたないことだよ。」

これらの信念というのは、ほとんどまったくもって、問い直しがなされていない、ごく幼い、人間として未熟な段階で身につけている信念だと言うことができます。「だってみんなけんかするじゃん。」「男同士ってのは競い合う性なんだよ。」「食べ物が足りなきゃ取り合うだろ。」これは、人間の特性と言うよりは、もっと知性の低い動物の特性です。主語を「猿とは」に置き換えてみてください。・・・当てはまりますよね。

しかし猿とて、優しく育てられれば思いやりや共感という心すら育ちます。

古くは人間も猿に近かったのかもしれません。その頃の記憶が潜在意識に刻まれていて、あたかも「生き抜くためとなればそのように振る舞わなければならない」と無意識に思わされているのかもしれません。おそらくそうです。

意識の世界を探求し実践している私が言わなくてはならないこと。それは「潜在意識などというものは人間の本性ではない」ということです。多くの人が誤解しているのです。本能というのは、と置き換えてもいいかもしれません。もう一度言います。「本能などというものは人間の本性ではありません。それは単に「習慣」です。」刷り込みであり、思い込みです。そしてその刷り込みがあって、確かに身を守ることができます。火を見たら、その中に飛び込んではいけない、というのが動物の本能です。虫にはそこまでの記憶の貯蔵領域がないので火を見たらつい飛び込んでしまうのです。それより少し進化して、動物はそうしないのです。敵と思えるものが近づいたら攻撃か防御をする、というのも動物のサバイバル能力です。しかし動物は食べるため、そしてそのための縄張り意識以上に富を得ようとはしません。

人間はそれ以上に考える、そして想像し、創造するという能力を与えられました。この能力は無限のものです。それをどこまでもいかしていいという自由が与えられています。でも肝心なのは「何のために」それを使うか、です。

今人間が立っている岐路があります。私たちが神に似た性質、「創造と無限」の能力をどこへ持って行くのか、という問いへの応えです。それについて考えなければ私たちは選びようがありません。漠然とした感覚意識である本能のままにいたのでは、動物として生きるしかありません。いったん問い直しさえすれば答えは難しくありません。神の性質をどこへ向けて持っていくのか、それは、神のところへ持っていくのが自然です。

では、人間が神を目指して生きるというのはどういうことか。これも、神について考えたことがなければ「わからない」でしょう。でもいったん考え始めれば、答えはあります。わからないと思っている人は、考えるのを、或いは追求することをやめてしまうからわからないのです。でもやり続ければ誰でもわかります。なぜならその答えを持っているのが人間だからです。

私は日々、自分の意識と向き合う決意をしてやってきてくださる方々と向き合っています。そして一緒に探求することでいつも必ず奇跡に立ち会います。奇跡というのは、人間が持っている限界だろうと予測できる壁を突破することです。しかし、やればできるのです。やり方やコツは、やってみた人にしかわかりません。だから、やってみた私と一緒なら短時間で突破できます。そして私はその奇跡をいつも自分の胸に刻みながら、人間という存在のものすごさを目の当たりにさせられ続けます。人間って本当にすごい、すばらしい、と毎日思わされます。こんなにすごい生き物が寄り集まって、その能力をわざわざ動物のまね事に使うなんて絶対にあり得ないとことだと思います。動物が低級だというのではなく、動物はベストを尽くしてそのやり方なのです。人間がベストを尽くしたら、違う現実、違う道、違う可能性が、無限に約束されているというのに。つまり地球の生き物すべてはベストを尽くしているのに人間だけが怠けることを覚えてそこに甘んじている可能性があるということです。

さて、言いたいことは山ほどあります。人間が戦争をやめたら、世界は今のままではいられません。殺しあうことではなく、また、騙したり騙されたり、利用したり利用されたりすることをやめて助け合う次元に人間はアセンションします。(アセンションって現実なんですよ。誤解しないでください。)習慣の奴隷になることをやめてみる。ただ、やめるということが重要です。だって本当にそれだけでいいのです。世界を大きく変えるには、新しいことをやらなければと悩む必要はなくて、ただ、もういらないものを断捨離(あえてこの言葉で言いますが)するだけでいいのです。

「私は戦争を選ぶことをやめます。そのために、利用されることをやめます。戦争を容認することを、動物の本能のせいにすることをやめます。戦争を容認したり養護することをやめます。そのやり方が人間らしいやり方だなどという考えを受け入れることをやめます。」ただ本気でやめると「イマジン」してみてくだい。

実際戦争が終われば次には具体的な変化が来ます。まずはエネルギーが大きく余るようになるでしょう。不足だから戦争が起こったのではありません。戦争が不足を引き起こしていたのです。貧困がなくなるでしょう。貧困は戦争が引き起こしてきました。過剰な富や支配権を本気で欲しがっているのなんて、まして手に入れてきた人なんて、本当にごくごく一部です。多くは自分と家族や身近な人の幸せを願っています。その願いが満たされることで私たちはその幸せをもっと広げたい、多くの人がそれを味わう人生を送ってほしい、と願うことができるようになります。地球上のすべてがそうあってほしい、という祈りは地球と宇宙の神々の望みと一致し即座に叶えられるでしょう。

それでも人間は欲望を追いかけるものだよ、平和になれば欲望がまた出てくるさ、と思う人もいるでしょう。その、あなたは、どうなんでしょう。本当は、人間って所詮こうなんだよ、というのは自分を正当化するための言い訳です。自分から出てきて止まない欲望を恐れているから、人間の本能のせいにしたいのです。欲望は出てきます。でもその時あなた自身、私自身が、なにを優先するか、どちらに価値があるか、と、選ぶだけなのです。恐れにからめとられて全体を貶めるか、それとも自分にとって本当に価値がある方を選ぶか、だけです。

さて、戦争が身近でないかりそめの平和の中にいた日本人は、戦争を宗教のせいだと思っている人も多いでしょう。このことについては次回書きます。

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