負の体験がもたらすもの

セッションをしていて「私は幼少期にそんな(良い)体験がないから」或いは「良い記憶が全然ない」ということをよく伺います。インナーチャイルドのワークを独学で学ばれた方はこの点に行き当たったとき壁を感じてしまうのではないでしょうか。

確かに幼少期に満たされる体験、成功体験、つまり肯定的な体験が多ければそれは人生を進むとき大いに助けてくれるでしょう。自分が愛されていると実感できる人は、誰かに愛されることに抵抗がありません。しかし、子どものころになんでも受け入れてもらえたからと言ってそれを愛だと受け取っているとも限りません。

また、ヒプノセラピーのセッションで驚かされることのひとつに、事前に伺っていたご本人の見解とはまったく違った事実が発覚するのはよくあることです。「あれ?いい思い出なんて何もないと思っていたのに」「愛されたことなんてないと思っていたのに」という結果になるのはとても自然なことです。

ですからいつもつい書いてしまうのですが、自分でワークすると自分の観念(思い込み)を覆すのは難しいものだと思うのです。逆にそれを強化してしまってそこから抜け出せなくなっている方も多いと感じています。

稀にですが、本当に救いの少ない幼少期を送られてきた方もいらっしゃいます。またいくつかの不幸な出来事によって本当に深い傷を負っている方ももちろんいます。あまりに傷が深いとき、自分で治ろうとするちからが弱まってしまうことがあります。ダメージのほうに意識が飲み込まれてしまっていて、その場合は回復にとても丁寧なプロセスを踏むことが重要になります。それは一進一退に見える根気と忍耐力と寛容さを求められる作業です。そんな時に絶対に必要なのは、無限の愛のちからです。つまりハイヤーセルフ、魂、内なる神の存在なしには癒せません。

さて、本当に愛情やそれに似た安心や解放、自由という感覚の幼少体験が極度に少ない人、潜在意識の基礎を築く13才以前に非常に偏っていると言わざるを得ない環境に身を置いた人には将来にわたって人生に困難が付きまとい、満足のいく生き方を選ぶことができないのでしょうか。

映画などにはよく、劣悪な環境から精神のちからで立ち直り美しい人生を創造した人の物語があります。それくらい、幼少期の環境によって受けた影響から自由になり新たな世界で生きることは難しいということなのでしょう。

しかし、私たちが今世の肉体の体験以上に多大に受け取る影響力があります。ひとつは自分の魂が過去に肉体を持った時の体験の記憶の数々であり、更にそれよりも深く私たちの意識の中心的な座に位置する、魂の記憶です。

前世の記憶って魂と違うんですか?と訊かれることは多いのですが、人間の肉体の記憶は潜在意識に、そしてその中でもエッセンスとも言える愛の記憶は魂に記憶されると考えられ、魂は超意識と言われる領域を指します。もちろん今世でも、魂はあらゆる体験のなかから愛のエッセンスを記録し続けています。たとえ今生で愛を知らないと表層では思っていても、実際はその記憶を内側に持っています。

私たちが感覚や思考で知っていることはわずかです。無意識の領域には私たちを罠にはめるような理不尽な自我はもちろんのこと、生きるために必要なあらゆる叡智が込められています。その両者があることを知れば後者を選ぶことはうんと容易になります。

自我は肉体の感覚器官に結びついており(潜在意識の領域)、私たちは感覚を鎮めないことには内側の叡智(魂や内なる神の領域)とのつながりを感じることはできません。瞑想はそのための手段です。

多くの人が自分を高めなければ内なる神とつながれないと信じているかもしれませんが、どちらかと言えば内なる神とつながれば自分が高まる、というほうが真実に近い気がします。善きものとつながるために、自我を黙らせる練習を積むのです。

とてもきついトラウマと救いの少ない環境で育った過去を持たれてる方と心から共感できた言葉をここに記しておきます。

「痛めつけられた過去を持つ人の特効薬は真理しかないのよ」

深くつけられた傷はどんなに補おうとしても痕跡を残す。その痕跡は私たちをより恐れやすく感じやすくより傷つきやすい在り方へ押しやる。その悪夢から私たちを目覚めさせるのは真理という真の現実だけだ。傷ついた人たちは愛の不在の傷の執念深さをよく知っている。それは愛以外のものによって補われることは決してない。

完全なる愛だけがその傷を完全なものに変える。

あなたが選ぶ現実

この世の法則と高次元の法則。
この違いってわかりますか?

似たものは似たものを引き寄せる。(類は友)
与えたものが返ってくる。(ブーメラン)
カルマの法則。(因果)

これらはざっくりこの世の法則。物理宇宙の法則。
昔の人は「いいことをすれば自分に還ってくる」と教えました。

しかしもう少し内面を観ていくと
実は、自分が自分に与えた「想い」
つまり意識のエネルギー法則が働いているとわかります。

自分が自分を攻撃すると、外から攻撃される。
自分を敬うと周囲から敬われる。
自分が自分を愛すれば、愛される。

この法則は、例えば周囲に一生懸命なにかをしてあげたり、
良かれと思ってがんばったりしていても
自分の心が「嫌われたくないから」とか
「そうしないと良くないことが起こるから」とか
「相手にわからせたいから」
など消極的であったりコントロールしたい想いのエネルギーが潜んでいれば
愛よりも恐れとしてそれが発せられ
結果恐れをもとにした現実が返ってくる、という結果が来ます。

がんばっているのにいい結果、つまり幸せに結びつかないのです。
がんばるほどに、もっとがんばらなくてはならない結果がついてきます。

これもいわば物理法則です。

高次元の法則とは、それを凌駕したうえで超越しています。

愛とは与えるもの、などと言います。
愛とは無限、愛に優る法則はない。

物理次元の法則に生きている人が
もし無限に与えていたら、枯渇し失ます。

しかし高次元の法則、
つまり神と愛、無限の創造の法則に生き始めるとどうでしょう。

私たちは神という無限の源泉から湧き溢れる愛という光の
通り道になることができます。

愛は無限に増殖します。
私たちの源は、愛です。
しかし私たちがその源とつながるという選択をしなければ
私たちはさしあたりこの世界の物理法則に生きています。

レイキヒーリングでは「私たちはエネルギーのパイプになる」と言います。
それをからだでしっかりと体験すると
私たちは自分が無限の源泉、つまり神の愛とつながっていると
心身でわかり始めます。
最初から最後まで、癒しの極意はそれです。

私たちにはただ、体験が足りないのです。
物理法則ではなく、愛の法則の中で生きるという体験が。

無限とつながるということがどういう生活をすることなのか。
頭ではなく、心から、からだの底から、体験することが。

肉体がある限り、人間は無限でいることはできません。
無条件の愛だけでいることはできません。
無条件の愛は神の特権です。
しかしそれを、からだをもって体験し実感すること、
今この瞬間それを知ることは、人間だけの特権です。
そこには必ず、圧倒的な夜明けのような感動があります。

私は無限の源泉の愛のパイプになる、という選択をしたその時だけ、
神の恩恵に与ることができます。

そして毎瞬のようにそれを選択することでしか
それを招き入れることはできません。

本当に毎瞬のように気づき、選択し、招き入れることがおそらく
完全な目覚めであり悟りです。
その時、本当に過去や未来、時間が無くなるのです。

そのようになるまでの間、
私たちは時間の中で生きます。
時間という訓練者が教えてくれます。
その限られた時間の中で
尊い選択ができるようになるように。

私と神はひとつであり、私は愛そのものです、という
真実へ還るまで。

愛するちから

「やりたいことがなんなのかわからない」という声をセッションでよく伺います。また、「なにかやらなければならないことがある気がするけれど、それがなんなのかわからない」という声もあります。

ひとつには、それを思考で解析しようとしているうちは、たとえ候補があがっても、行動に移すには至らないものです。思考は何かを行う原動力にはなり得ません。私たちを揺さぶる心の要求の声は普通、感情・感覚・本能を通して発動します。

そこで世では潜在意識を活用(活性)せよ、というふうに言われたりします。しかし、潜在意識というのはあくまで欲の世界です。しかもその欲とは、からだが学習したことをもとに設定されています。からだが習慣としている反射がほとんどを占めます。欲がなくなったら死ぬよ、なんて言う人もいますが、欲が最低限命を守ろうとする力はそうそう抑えられるものではありません。いざとなったら働いてくれます。そんなことより私たちの欲求が普段、本当はしあわせになるためにいらないものを欲しがってみたり、それが必要だと思わせるよう私たちを仕向けているところが問題です。本当はその欲求を吟味し、手なずけたり手放していくことが重要なのです。

「やりたいこと」とみなさんが表現されるものの中味はそんな欲ではなくて、心底意義を実感できるような、人生や自分そのものを愛さずにはいられないくなるような、本当の満足のことを指しているのではないでしょうか。しあわせ、というのはその中身を手に入れいることに他なりません。

すべての人に可能で、そしてそれが最も地上で価値あるものだと神さまが人間に保証してくれているもの、それが、愛することです。「愛です」と言ってしまうと多くの人は、愛を手に入れるとか、愛されることを連想するかもしれません。しかし、愛を求めていても愛しているとは限りません。

愛することを始めるのに必要な準備は、それぞれに完璧なかたちで魂と内なる神から与えられています。その愛は内側で準備され、発動命令が下るのを待っています。

しかしそれを始めない限りは、そのレッスンを始めることはできません。自転車についていくら考えたとしても、自転車に乗ってみないと上達はしません。愛することも同じです。愛について知っているつもりでも、愛してみないことには問題点にすら気づけません。

現代では愛する前に問題点に気づきたいと考えている人も多く見受けられます。しかしそこでいう問題点とは他者の体験であって、自分のものではありませんから、いくら吟味しても自身に役立てることは難しいのです。わかったつもりでもいざ自分のこととなるとうまくいきませんから、余計にイライラしたり否定的になってしまう弊害も起こります。

愛に向かうための問題とは本当はそれ自体喜びです。向き合うほどに、愛が育つわけですからね。

すべての人は、生まれながらに愛を求める強いちからに動かされ、まず親からそれを受け取ります。そして同時に親を愛します。しかしその愛は、本能や刷り込み的な学習によって裏打ちされた、条件付けによる愛です。欲しい、という気持ちと表裏一体なのです。

ですから思春期に異性に抱く愛情もそれに似て、欲しいの裏返しの感情です。どうりで相手を思うと苦しかったり怖かったりしますよね。幼少期に愛情の欠乏感(寂しさ)を強く持つと、思春期的な愛情欲求が長く続いてしまうものです。求めては失望することを繰り返し、それを超えることができません。欠乏状態では信頼関係を育てることが困難なのです。

トラウマ(心的外傷)というと暴力を連想しますが、多くは共感力の強さ、優しさから傷つく人がほとんどです。他者にフォーカスすることに慣れすぎ、自己の欲求を抑え込んだ体験が寂しさ、欠乏につながって、インナーチャイルドが不満、不安を抱えたままになっていることが愛することを妨げています。ですから人一倍愛を求めていながら、恐れによって愛を遠ざけているのです。愛せていないのです。

一方で、強い欲求なしには人間はなかなか愛のレッスンに取り掛かれないのかもしれません。愛は受容や忍耐や理解や、自分の慣れ親しんだ世界観までもを差し出すことを私たちに求めます。そうすることで他でもない、自分自身が内なるスペースを広げ、養い、成長し、新しいものに生まれ変わるというしあわせを享受することが可能になります。

つまりは愛を学ぶことが即ちしあわせなのです。手放すとは、愛するもののためにスペースを明け渡すことです。愛は古い価値観を捨てるにふさわしい理由です。

その過程で、私たちは幾重にもがんじがらめに巻き付けられた恐れに出会うことでしょう。この恐れに直面させ、そのまやかしに気づかせてくれるのもまた、愛のちからです。

ではどうやって愛すればいいのでしょう? 未知を体験するにはそれを想定してやってみることです。最大限の想像力で、あなたが最上だとイメージできる限りの愛と見当をつけて。そうしてみるとき、魂のちからが発動します。悠久の時間を超えて、神の愛とともに歩んできた魂の記憶があなたの意志のちからに触発されて、魂が廻り始めます。あなたとともに。

するとあなたは気づきます。なんだ、なにも大げさなことじゃなかった。どこへ行く必要も、持ち物を変える必要もなかった。私はひとりじゃなかった。すべてはここにあったんだ、って。

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AZU拝