心の傷は脳の傷だそうです

昨日のおやすみは、遅ればせながら大渡海岸で初泳ぎしてきました。夏休みだし、観光の方が増えているので混みあっているかなと思ったのですが、相変わらずのんびりして地元のつり少年のほかにちらほらと泳いでいる人がいる程度でした。近年の水温の上昇でサンゴが随分死んでしまったと聞いていてとても悲しいのですが、大渡は相変わらず美しかったです。

うみんちゅさんのお話を伺うと、たとえば水中に橋を一本立てるだけで海中の環境は激変するそうです。急に魚がいなくなったり、赤土が流入して汚染されてしまったり、私たちが想像する以上に地上って微妙なバランスの上に立っているんですよね。

さて、昨日ネットで拾った情報なのですが、「子どもの脳を傷つける親たち」という著書が話題のようです。

著者の「友田氏は脳科学の専門家で、親による不適切なかかわりで子どもの脳がどう変形するか長い間調べてきた」とのこと。

結果「言葉による虐待はどんな痕跡が残るのだろう。『心が傷つく』というが、身体のどの部位が傷つくのだろう。友田氏たちが見つけたのは、脳に痕跡が残るということである。」

読んでいなくて恐縮なのですが、脳の仕組みの部分について私は非常に納得です。対処については、対象が子供であるなら、書評にあるようにおとなや社会が手助けをすべきだと思います。でも(例えば私のように)その時期に救われずにおとなになった人にも、もっと本質的な救済があることがもっと広まるといいと思います。簡単な書評がありますのでよろしければそちらを。

潜在意識やヒプノセラピー、また瞑想についてもレイキヒーリングも、それがなぜ功を奏するかを研究すれば当然、脳の仕組みを考えざるを得ません。トラウマと言われるものを始め、「過去の記憶全般」が私たちにどのように影響を与えるのか、それを理解することは脳との関係を理解することとも言えます。

私は傷、というよりも「溝」というイメージを持っています。傷はそれだけで痛々しいのですが、意識や脳に刻まれているものに痛々しいというイメージはいらないのです。ただそれをあるがままに知って、理解すること。それができれば、神という無限の生命力の源を受け入れる準備ができます。

みなさんが「これが私の性格」だとか、「そのように育ってしまったから仕方ない」(でも本当はなんとかしたい)と思っている自分の特定の、心の反応やそこから来る態度が、脳に刻まれた溝のためなのだとしたら、或いは圧迫をうけ変形してしまった脳の領域のためだとしたなら、それはあなたの宿命ではなくて一つの傾向であり習慣でもあります。私たちはそれに取り組むことが可能だということです。

書評のなかに「脳は再生しないと考えられてきたが、近年、再生回復の可能性が見出されてきた。」とありますが、脳のことなんて人間はまだほとんど知らないのだと私は思います。それよりも、脳が実際になした人間の数多くの奇跡にも見える変化や進化こそが事実でしょう。実際に使われていない部分が多くを占めると言われている脳ですから。

私たちは、古い溝を使うことをやめて、新しい溝を掘りたいのです。たとえば信頼という溝を。たとえば平安という溝を。たとえば勇気という溝を。つながれていなかった神経細胞同士に手をつないでもらいたいのです。その新しい道を電気が流れ、信号を送り、そこで発した火花が世界というスクリーンに陰影を映し出します。その映画が、私たちの新しい世界です。これは脳の話です。そして、意識の、そしてそれが創る現実のお話です。

過去にショックを受けた溝を電気信号が走るとき、心は葛藤し、緊張と対立は私たちを疲弊させます。瞑想やヒーリングはこの電気信号の周波数に変化を与えます。変動した電気はその古い溝をなぞらずに別のルートを通るか、またはその溝への影響自体を変えていくのではないかと私は考察しています。おそらく未来のいつかには、そういったことが明確に語られるようになっていくことでしょう。

しかし本当に意味があるのは、語られることよりも体験することです。

生まれつき不幸でずっと不幸でいるために生まれてきた人はいません。人は言わば幸せになることを通して進化しています。意識は今すぐ変化できます。脳がすぐに再生されなくても、不思議ですが私たちの意識の領域にはそれ以上の意志が働くことがあります。肉体はゆっくりとついて来てくれればいいのです。

他者から理解されるためには

「人生は難しい」と思いながらずっと生きてきましたが、その割に気がつくと、「心底納得したこと」や「確信したこと」は、時間や体験を経ながらいつか「やっぱり思った通りになった!」という結末を迎えることが多くなりました。

それらは達成されるとか、認められる、というようにではなく、「やがてみんな本当のことに気づくようになる」というように自然に訪れます。

私の信念は「誤解はいつか必ず解ける」であり、「あらゆる不和は誤解」です。

人間は誰もが多かれ少なかれ周囲との比較によって自分を理解しようとします。人間が社会的な生き物である所以です。しかしその対比の基準となる価値観はほぼ、その人の感覚的な慣習によって形作られています。

私たちは自分の色眼鏡で周囲を測った上に、その測った周囲との比較で自分を測ろうとするわけです。こんなおかしなことをしています。それが誤解でなく真実だと思うこと自体、ちょっとクレイジーですよね。

もし誰かがそのことに気づいて、まずその色眼鏡に着いた色を落とすことに専念し、透明になったところで周囲ではなく自分を見つめ、内部を理解し、そして改めて周囲を見回してみたらどうでしょう。いかに以前の自分がおかしな目線で物事を理解したつもりになっていたかわかります。

問い直され精査されない価値観は刷り込みにすぎません。その眼鏡に適わないものを裁き続けることを多くの人は正しいこと、と考えています。

すべて、誤解です。

また、自分は周囲から誤解を受けている、と感じている人も多いかもしれません。自分は理解されない、と。

いったん誤解を受けたと感じてしまうと、人間関係がうまくいかなくなりこじれます。誤解を解くために頭の中で、「あなたが思っているのは誤解です。私は本当はこうなんです」と説明を繰り返します。あなたは誤解しています!と。

しかしこの説明もなかなか理解してもらえません。

だってそうですよね。その説明って、「あなたは間違っています。私は正しいです。あなたが改めなさい」と相手にメッセージを送っているようなものです。そう言われて喜んで受け入れる人なんてそういないでしょう。

「誤解を解くためにできること」。それは、自分がもっと理解することなんです。相手にわからせよう、わかってもらおう、とがんばる暇があったら、自分にくっついている目隠しに気づくことから始めます。

「でもどうやって?!」その通り。目隠しが付いたままその目隠しを見ることはできませんよね。・・・ただし、自我・思考のちからには、です。

私たちにはすべての人に、より高次元の意識、つまり魂、そして内なる神の意識が備わっています。だから、そこに依頼して気づかせてもらうのです。

心を静め、そちらに寄り添い、「自分にくっついている目隠しを緩めて真実を悟らせてください」と願うこと。それが瞑想です。

誤解を解くために相手を変える必要はありません。私自身がより真実の自己に近づくことで、より全体性を理解することができれば、相手をも理解することになり、真の相互理解へと道は通じるのです。

これが今とこれからの、真のコミュニケーションの時代のやり方になるだろうと、心から確信しています。

唯一のワーク。


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私はよく、仕組みを理解することの大切さを口にします。例えば意識の仕組みを知り理解することで、無用な疑いや迷いを大幅に避けることができると思います。自分で考えて答えをみつけることも人間にはとても大事ですが、同時に考えてもしようのないことについて考え続けて消耗したり、破壊的な思考や行動に支配されたりするのにいのちを費やすのはとてももったいないことだと思います。

人間の感覚や思考というのは環境や心の状態、体調など(自己のエネルギー状態)に大きく左右されます。ですから自分ではまっとうに理論的な考えの上に判断しているつもりでもある時には右、ある時には左にというふうに重心は傾き、その傾いたところを起点に世界を眺めています。または目を凝らして世界を見つめているつもりでも、その目にフィルターが貼り付いたりしています。目にピッタリとフィットしているほど違和感なく見ることができるので、その目自体が狂っているというふうにはなかなか気づきません。

そんな時、仕組みを知っていることで自分を客観視することがしやすくなります。全体の地図が頭に入っていると、自分が傾いているな、とか、目的地に向かう道から反れているな、とか、急ぎすぎかもしれない、などというふうに見ることができます。

しかしこれらの客観視というものを、瞑想なしに行うとどうなるでしょう。こういった行為がただのあら探しや自己批判に繋がる事になります。自分を定規で測ってはみ出す部分を罰したり嫌になったり。こういうことをしていると人間は今ある喜び、今ある創造力、生命力から遠ざかって不幸という迷妄の中に落ち込んでしまいます。

瞑想ありでの客観視では、客観視の視点がぐっと広くて高い、見晴らしの良いところになります。瞑想なしでは自分の今いる場所を特定しようとする時、どこが間違っているか、どこが他者と違っているか、かっこ悪いか、周りについて行けていないか、どう思われているか、どこが好きでどこが嫌いか、人に嫌われていないか・・・というふうに、3Dの次元で自分を把握しようとします。でも瞑想のなかで自己を捉えるとその基準となるポイントは全く違ってきます。

ざっくりと言えば自分が軽くなります。瞑想のなかで自分を眺めると、自分はなにもちからを加えずとも立っていることができます。座っていることができます。すぐ隣に比較対象する何かがなくても、安心して自分を眺めていられます。比較対象するものさしに合わせたり、合わせようとしてちょっとひっぱったりちょっと背伸びしたり、そういう小細工もいりません。企画サイズと比較して自分はこういう人間です、と語る必要がありません。

多くの人が、自分はこういう人間と言うとき、好き嫌いや二極のものの一方(明るいと暗い、大雑把と几帳面、楽天的と悲観的など)や他者との比較によって表現しようとします。瞑想はそういった浮世の価値観を外し、神(霊的な理想)の世界にある自分を見せてくれます。誰かと自分の違いなどというものは比べても価値のないことであって、神と私との関係だけが重要だと感じるようになります。そして他者との関係はと言えば、神のもとにみな平等というふうに見えてきます。もしみな平等に見えないのだとすればそれは神の視点というものから自己があまりにかけ離れてしまっているからです。近づくためには瞑想です。

自分は今こういう理由でこういう状態なのだ、なるほど、というふうに理由をみつけようとする人はとても多いと思います。理由を知ろうとすることは、仕組みを理解したいことの現れなのだと思います。私もかつてはそういうことを調べまくりました。しかし、知って納得というのはその場ではすっきりするように思えるのですが、それを積み重ねてみても気がつくと幸せにはなっていない、ということが起こります。それが長いこと続くと、知っているのにできていない自分にばかり出会うことになり、結局は人生が重たく重たくなっていきます。進化と幸福の成就のためには原則があります。それは、自ら変わろうとするか、得ることではなく手放すことによって、です。

私たちの内には神の資質が眠っています。それは人間が身につけてきた覆いによって包み隠されています。私たちは一様に思い思いの服を来て、神の資質を覆っています。そしてもっと違う、もっと上等な服を探しまわっています。或いはもっと自分に合った自分だけのための服を。そしてなかなかその服を着ている自分自身というものに気づきません。

いったん服のなかみに気づいていしまうと、服を着ることに必死になる必要がなくなります。もちろん、引き続きそれを着てもいいですし、もっとシンプルなものに着替えても(それはなるべくなかみを遮らないためにという意味で)いいかと思います。慌てて裸にならなくてもいいし、裸でいなくてはならないわけではないとわかります。ただ、服のことが気になるときには即座にそのなかみのことを思い出すようにすべきでしょう。瞑想をたくさんするのはそういうわけです。

ソウルメイトは劇団員。


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百名ビーチのお散歩
百名ビーチのお散歩

よく「この世は舞台、人はみな役者」と例えられますが、演劇には舞台上のルールがあり、そして脚本という筋書きがあります。私は演劇に出会い、舞台上で演じている時に初めて「自由」ということを実感しました。ルールというのは例えば、切迫した感情をぶつけ合いながらも絶対に自分自身や他者を(肉体的にも精神的にも)傷つけず、信頼を築く、というようなこと。役者はそのようなルールがあるからこそ、全力でぶつかり合うことができます。また、脚本や設定があるということは、その結末や目的地が見えているということです。

それで、実際の人生の中でそのようなルールや目的地を見つけられれば、或いはそれらがあるかのように生きられれば、もっと幸せになれるのでは、と考えました。

ただ、私が言いたいのは、人生のストーリーや未来に起こることを予知することがそうだというのではありません。スピリチュアルというと最近は占いとよく一緒に扱われますが、出来事を予測することと仕組みを知ることは違います。ルールや目的地というのは言い換えれば仕組みのことです。

私たちは意識を使って世界を創り、認知し、人生を生きています。しかしながら私たちはこの意識というもの自体をよく知りません。仕組みを知らないまま使っているので誤解と混乱に満ちています。誤解と混乱があると、苦が生じます。私たちが幸せになるためにはこの苦から自由にならなくてはなりません。

過去世についての説明をするとき私は、魂を役者、肉体を役柄に例えます。

ソウルメイトは同じ劇団の劇団員です。何度も一緒に演じている気心の知れた、信頼できる役者同士です。

同じ劇団で何度も違う演目の公演を繰り返しています。これが転生です。

一つの魂は数千という役柄を演じてきています。魂はベテラン役者で、人間を演じることには慣れているのですが、毎回役に没頭するので、その役柄の人生観や価値観、性質も意識に刷り込まれています。これが潜在意識の記憶です。時には自分が役者で演じているのだということを忘れ、舞台のルールを忘れて、本気で相手役を憎んだり殺したりしてしまうこともあります。そして、今の演目で今の役柄を演じて相手役と絡んでいるときにふと、前回の役柄の時の記憶や癖が頭をよぎり、動作やセリフに表れてしまいます。これが過去世の影響です。

そうすると、相手役は戸惑いながらもつい、そのアクションにつられてリアクションをとってしまいます。自分も前回の役柄の気持ちで反応してしまうのです。今回は仲のいい親子を演じているはずなのに、前回の敵対していた兵士の時の記憶が出てしまうのです。一触即発なピリピリとした空気が互いの間に流れます。そんなつもりはないのに、そのピリピリムードに乗っかってしまいます。前回演じた時のリアルな感触が肉体感覚に刷り込まれているのでそれを演じるのはお手の物なのです。

こんなことが起こると、今回の演目はぶち壊しです。そして頭では軌道修正しなくてはと思っているのに、顔を見るとつい慣れ親しんだ方のリアクションが優位になって、互いに悪循環が起こります。

こんな感じで、私たちは数千回と繰り返された過去の役柄の反応の蓄積を持ちながら今回の新しい演目に取り組んでいます。これは演技の引き出しが多いようで良いことのように見えますが、実は無駄も多いのです。そこであまりにも過去の役柄の影響を受けすぎているならそれを意図的に解放することができるということです。それにはイメトレが効きます。イメトレというと軽いですが、これが瞑想、或いは催眠療法です。

瞑想は、いろいろな役柄のイメージでいっぱいになった意識をいったんからっぽに近づけて、魂だけの存在だった自分を思い出そうとする試みです。着込んだ衣装を外し、自分に染み付いているセリフや感情や自己イメージに気づいて、それを返上します。そして自分は役の人間である以前に、役者であり、どのような役にも愛を持って演じているだけだということを思い出すのです。

そうすると、演目のストーリーに巻き込まれずに、演じていることへの喜びと感謝が戻ってきます。役者は悲劇をも感謝と喜びと使命感を持って演じます。その根底にあるのは愛です。

ヒプノセラピーで退行催眠を体験すると、このような意識の仕組みに実際に触れることができます。そうすると、自分はこんな性格、こんな人格、こんな人、という自己認識は単に感覚的な記憶であること、また感情は物質のように扱うことができるエネルギーだということもだんだんわかってきます。

多くの人が、自分という存在を誤解することで苦しんでいます。その苦から自由になるには本当の自分を知ることであり、自分に対する自分の誤解を解くことなのです。

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