あなたが生きている世界とあなたが死んだ世界

未来を開くカギは私たち一人一人がその内側に握っている。

生きるということは、そのまま、希望だ。
希望が途絶えると私たちはただの動きまわる肉になってしまう。

外側の世界ばかりに意識が行くと
自分との関わりを忘れてしまう。
このうっかりにはどんな上級者も気をつけなければならない。

あなたが生きている世界と
あなたが死んだ世界。

それだけで世界は違っている、ということを
あなたはすぐに忘れてしまう。

あたかも世界はあなたの外側で作られ
あなたを取り巻き
あなたを翻弄している、と
あなたは世界を認識する。

本当は、
あなたが存在しているから、
今世界は、こう。

そう思って世界を眺めよう。

良くないことも良いことも、
すべてあなたが関係している。

どちらか一方ばかりが気にかかるときは
あなたの視界は傾いている。
あなたが立ち直ればいい。

あなたは世界のすべてと関わっている。
こんな世の中、作った覚えはない。
自分はこんなことは絶対にしない。
自分だけはこんな人間にはならない。
そう思ってがんばってても

こんな世の中にしちゃったのは
全部自分のせいなのね。
全部私が悪いのね。
と、自分にがっかりしていても

世界はこうあり続ける。

こんな世界、望んでいないはずなのに、と気づいたら
自分がなにに栄養を与え、自分の中のなにを育てているのか
見直してみよう。

無意識に自分の中に育てている思い。
必ずそれが世界として姿を見せている。

無意識の記憶。
それは幼少期や、過去世の体験の中にある。

記憶を思い出すのは、ストーリーを知ることとは違う。
それは、自分の中にあるエネルギーを知ることなのだ。
今そこに蓄積されていて、
波動を出し続けている、つまり生きて効力を発揮している記憶を見直す。

それはあなたに見つからないように
あなたの気持ちと同調しながら
あたかもあなたそものであるように
パワーを発揮する。

あなたは、そのパワーが作り出すものが自分なのだと思い込んでいる。

けれどそれは断じて違う。
それは本当のあなたではない。

人間はストーリーを重視する生き物だ。
私がこうで、あなたがこう言った。だから私はこう反応してこうなった。
だから、私がこうなっているのは、あなたのあれが原因、とストーリーはしゃべる。

それは思考の領域。
この領域で原因をいくら探して見つけたつもりになっても
絶対に世界は変わらない。

それは表層意識の、浅い納得しかくれない。
実際はパワーを持たない。

では何が私を構成し、世界を作る効力を持っているのか。
それが、エネルギー。

人間の三次元世界では、体感的記憶がそれを握る。
無意識的、体感的記憶が、今自動的に働いて
あなたの世界を作り続ける。

だから、あなたの中身を知ることなのだ。
すべてはそこから始まる。
創造は。世界は。人生は。

この真実に出会うまでは
たとえるなら、古いプログラミングを消化するための人生。
それはそれで、必要と言えばそう。
だけど、その人生は創造主とは切り離されている。
孤独で危険で不安で、悲劇的だ。

真実の中で生きることを選ぶと
私たちは宇宙の中枢とつながり
護られ、運ばれ、生かされる感謝の中で
生きるようになる。
次第にその世界の住人となる。

新しい世界はいつか、常識になる。
世界はこうなっていたんだね、
昔の人はこんなことを知らずによく生きたね、
わたしムリ~とみんなが言うようになる。

そのために私は痕跡を残そう。

私の体験の記憶の中に。
あなたの体験の記憶の中に。

真実を知ってください。
そして、体験して
それを生かして
人生を作ってください。

その選択が今、世界を作ります。

星の間

最近、なにかと気づきが大きくて自分でも驚いている。言語化したいのだが文章化へのハードルが高くてまだ消化中。

先日、『インターステラー』という映画を観た。なんというか、映画としてはつまらなくて何度となく失敗の文字がよぎったのだが、終盤の、5次元(ほんとは4次元なのかな)から3次元を見ているというところは真実味があってそれまでの忍耐が報われた気がした。それで少しリラックスすることができたのだが、見終わった瞬間から、映画をグイーンと遡って、そこに描かれている内容のどこが嘘なのか、というのが見えてきた。

描かれている世界は、瞑想していない人の発想なのだ、ということがまずわかった。そうすると、宇宙の、時間軸や密度の異なる空間にも、この肉体を持って移動することになる。(それはそうだ。行かないなら物語は始まらない。)この肉体と肉体感覚が軸になって、別の宇宙を体験することになっている。そうすると、描かれている世界はもしかしたら真実と似ているのかもしれないが、人間がかかわった時点で全部嘘になってしまう。

それでは肉体ありき(3次元)の発想を軸に異なる時空を当てはめた推測になってしまうからだ。

私たちが4次元、5次元というものを知ろうとするとき、私たちの意識の軸をそれ以上の次元に移行したところから見ないとそれらは見えない。
3次元意識想像力をいくら拡大しても、せいぜいそれは別の、隣の、或いは同時多発的な、ところにあるなにか、という風にしか理解できない。

だから、宇宙というものを理解しようとしたときにやはり物理的空間と星の存在を3次元的に並べて何とか理解しようとする。
そうすると必然、宇宙を実感として把握するのは困難になる。

おそらく、物理的肉体の私たちの体が、宇宙のある一線を越えて存在するのは不可能なのだろう、とそのとき私はものすごく実感を持って確信した。そしてそれがわかった、と感じたとき、笑いが出てしまった。はっきり言えば爆笑した。そんなことをしたことがないのでなんだこれは、と思いながらも、爆笑がおさまらなかった。

この世に安堵できなさを感じる人の多くが、何かしら別の真実を見つけたいと望んでいるように思う。私たちには無限と言える能力を持っている。使おうと思えばまだまだ開発可能なコンピューターを持っている。

限りなく遠くや微細なものを見る目を得たとしても、考える力を得たとしても、聴こえたとしても、目的を理解し、使いこなす力がなければそれらは危険物になる。見えてしまう人の苦しみはそこにある。それを解決するものがハート、つまり愛のセンターにある。

瞑想は最高次元からくる愛という根源に自ら意図的に波長を合わせ(チャネリングし)そうあるべく向かう(成る)行為だ。それに向かって進むということは、アクセス可能な自己意識の中心地点の波動を上げていくことに他ならない。つまりたとえるなら、4次元を4次元的視野から、5次元を5次元的視野から理解するのだ。

物理次元の技術を駆使しても、私たちはおそらく隣の銀河にすら存在できない。しかし、意識の探求を進めれば、宇宙を支配する存在とすら親密になることができる。通じあうことができるのだ。それ以上の安堵があるだろうか。

さらに高次の意識を自らのものにできたとき、その意識を宿す肉体は自由にこの宇宙に存在できるのかもしれないと思う。そのことをアセンションとして多くの人が期待したのだろう。

いやいや、地球人はまだ今しばらく無理だろうな。自分の感情に向きあうことすらままならずにいるのだから。その奥に無限が横たわっていると言われても恐れをなして、あるいはめんどくさがって、なかなかそれをしない。それくらい、この物理次元の刺激は強烈で、魅力的なのだと思う。

外側への反応=生きることだ、という概念が今のところ主流になっている。でも少なくても、自分とその周辺への具体的な愛こそが大事という概念にはシフト可能になってきていると思う。


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