完璧な今を生きる

みなさんこんにちは。
今日も、長年のおつきあいをいただいている方からいただいたご質問への返信を掲載させてください。

正直、上手に書けているとは思えませんし、もっと簡潔にわかりやすい書き方がたくさんあると思っていますが、今の自分なりに精いっぱい、ある意味必死(笑)に書かせていただきました。

いただいたご質問は、「どんな状態でも完璧」と言われる概念についてです。難しいですよね!

以下、私からのご返信です。気がついたところを少し加筆させていただいています。

「どんな状態でも完璧」という概念は、何を、どの視点(次元)から観るかによって全く意味が違います。

まずどこからみても完璧なのは神だけです。

「状態」というのは移り変わるものなので、そもそも完璧ではありません。例えば「正しさ」というものも、状況によって変わるのであれば本当の正しさではありません。つまり本当に正しいものというのは真理だけですよね。

生きるということは変化するということです。この世界での真実は変化するということだけだと思います。

変化とは今の状態から次の状態へ移るだけなので、本質的な変化というものは確かに、本当は無いとも言えます。

そういう意味では、私たちは神という永遠無限の真理の中で、ただ移り変わるかに見えるものを体験しているに過ぎません。

それはある言い方で言えば、そのままで完璧です。でもそのことを、どんな状態であろうとそのままでいい、というふうには言えませんよね。

「どのような状態も完璧」の意味の一つは、今その状態であることが今のあるがままであって、それ以上も以下もない、ということではないでしょうか。完璧にそれでしかないのです。そして変化というのは、今の完璧な状態から次の完璧へと移り変わるだけ、という意味です。

私が(以前にお話した)他者(セッションであればクライアントさん)の内に対して観る完全、というのは状態ではなく本質で、魂と内なる神のことです。この場合の完璧は、それ自体が本当の意味での全き愛です。全き愛とその人の「状態」との間の壁がどこにあって、その人が今どういう状態に「陥って」いるのかな、という観方をします。

魂と神に対して開いていない状態はすべて陥っている状態です。そしてすべての人は、みな等しくどこか陥っています。陥っていなければそれはすでに完全に神と一体ですよね。

私が相手の方に見る魂や神は、自分の中に観るのと同じ程度にしか見えません。ですから私は、自分の中に日々神を観ることを求めます。

ご質問に対しての端的な答えとしては、自分の中の神をみつけることがすなわち、世界の完全さと出会うことになります。神をみつけるには、深い瞑想が必然となります。それ自体が答えです。

セッションでは私は自分の分と、相手の方の分を両方、神にお願いします。

まずはその壁を互いがはっきりと観ることができますように、そしてそれが本当に必要なのか、必要がないものなのか、明らかに気づけるようお導きください、そして、不要なものであれば、それを手放せますように、さらにその壁や鎧の代わりにあなたが護ってくださいますように、というふうに。

陥ったところには必ず影である闇と無知があり、それを維持するための恐れがあります。私たちはそれらから、自由になる努力が必要です。それが、内に神を宿す私たちの必然であり使命だと思うからです。そうしなければ、愛を生きたことにはならないと思うからです。

その努力にあたって人が変化する時、今の状態を受け入れることができないままに次に移行しようとしても、その人の世界では、不完全さから次の不完全さへ移行するだけになってしまいます。物理次元を主体に観ているとみなそれをやっています。

意識(スピリット)が主体の世界での法則はこうです。

今があるがままの100%であることを認めると、次の、別の100%へ移行できるようになります。つまり、変化の中にいて、常に新しい完全な自己へと移行できるようになります。

その時に人は初めてあるがままに、今にいる、ということがわかるようになります。完璧な今にあって初めてこれまでのすべてが完全であったと悟るのです。

つまり、「どんな状態でも完璧」というのは、今という完全さに目覚めた瞬間の中にだけ存在することなのであり、この世、幻想世界での現象を示してはいない言葉だと思います。つまり、神をみつけたときにだけ在り得るのだと。

自己に取り組むワークというのは、今を完全に認めることに他なりません。その作業があって、私たちは次への変化を進むことができます。それらの工程は自分の枠の中にある自己意識だけでは不可能なのです。必ず、それ以上の意識、つまり超意識以上の、魂、神という意識が伴ってこそ可能になります。それで初めて、不完全から不完全への移行という幻想を退け、完全から完全への移行が可能になるのです。

魂の連帯に、今日も感謝いたします。
AZU拝

すべての道は神に通ず

私がこの世に生きて、悲しみや痛みや苦しみに圧倒されてはじめたのは
高校に入ってから。
そこから最大の苦しみと混乱は20代終わりころまで続いた。

20代後半になって何が変わったのかといえば
精神世界、スピリチュアルという概念に出会ったことだ。

以来自分と協力して自分を創造する作業が始まった。
私が簡単にワーク、と呼ぶのはこの作業のことだ。

それまでは何をしていたのかと言えば
生きることに翻弄されまくっていた。

生きることを具体的に言うなら
たとえば身体、感情、また
知らずに刷り込まれていた思い込みや癖、価値観、世界観など。
それは自分が気づいたらそうなっていたものであって
自分で精査し選び創造したものではなかった。

親から引きついだもの、
DNAや親の価値観、家庭や社会環境、
社会や国家や歴史の影響、
のちになって発見した過去世やカルマと言われるものまで全部、
気がついたら私の中に属していたものだった。

それらは私にとって非常に重たい鎧だった。
いや当時はそれが鎧だとすら思わなかった。
それが私そのものであり、人格だと思っていた。

自分を変えるというのはほぼ無理なことに思えた。
努力の方法すらわからない。
自分をがんじがらめに縛るしかない。

だから人生はなんだか自分という存在への
罰か呪いのように思えた。

女性には生理がある。
毎月やってきては、感情を乱し、体調を崩し、不安感をあおって
神経質にして去っていく。
毎月、会いたくない自分に会う。
それだけで自分を好きになれなくなる人は多いのではないかと思う。
命を育むための機能なんだとわかっていても
生産性を上げるための社会システムと体のシステムは
すり合っていなかったりする。

あかちゃんを育み産む瞬間は
生命のシステムに感謝するかもしれないが
子育てに入った瞬間から社会のシステムが押し寄せてくるだろう。

自分は周囲に足並みをそろえてついていくだけで精いっぱいで
自分の人生の主人公どころかからだの主人にすらなれない。

私は人生にほとほと疲れ果てていた。
人間であるということに。

人間であるとはなんなのだろう。

その問いは子供のころから自分の中に在った。

人生に疲れ、諦める前に、
その問いの答えをみつけなくてはならない。
私の魂は、そちら側に私を
ぎりぎりのラインで導いてくれたと思う。

人生を悠々と楽しみ成功している間は
楽しいことに夢中で内側に目を向けられないだろうし
疲れ切って心を閉じ切ってしまったら光を取り込めない。

まさに絶妙だった。

私は自分との関係を取り戻し、
やがて内なる真の自己を見つけた、と思う。

そしてそれとともに生きることを
日々実践している。

パートナーとそれを分かち合い、
それを人と分かち合うことを生業としている。
とてもシンプルで気に入っているし
与えられたものすべてに感謝している。

けれど私が見つけたスピリチュアルな生き方は
スピリチュアルの世界でもあまり一般的ではないようだ。

どうしてなんだろうと常々考えている。

ヨガをして、自然が好きで、
エコでナチュラルでオーガニックでヘルシーで環境に優しく
ポジティブで愛にあふれていて笑顔でピースフルで
仲間がいっぱいいて、イベントやお祭りに集まって楽しそう。

私のような仕事をしていると、
当然そういうところに属していると思われることも多い。

私はほとんど家にいて、家族とクライアントさんと
ご近所の犬と飼い主さんくらいしかかかわらない。
社会との接点はインターネットだし、
頭の中は難しいことが大体を占めている。
瞑想こそが癒しだし、仕事が喜びでもある。

瞑想は家のリビングかセッション部屋かベッドでする。
ハタヨガは最小限の自分の好きなアーサナしかしない。
畳1.5畳ほどのスペースで事足りる。

主婦業をまじめにやっていると
あっという間に一日が終わる。
1人出かけるとしたら徒歩圏内の犬の散歩だけ。

おうちの中の日用品は自分なりのこだわりがあるけど
質素なものばかり。

聖地を巡るのは好きだけど
そこになにかをを求めてはいない。

いや求めていないと言ってしまうのはおかしいけど
お墓にその人がいないのと同じで
神もそこにはいない。

いやいなくはないけれど
会いに行くのはそこではない。
祈るのも瞑想するのもそこではない。
挨拶はもちろんするけれど。

スピリチュアルふうのイベントに違和感を感じることが多い。

本当に普段から神と一緒に生きていて
それを分かち合うためにやっている人と
かたちでそれふうのことをやっている人の違いを感じる。

前者は、神はその人全体に溶け込んでいる。
後者は、神を外にいると思っている。
自分には神が降りてくる、神的な何かが見える、
などと言っている人も
神は普段は外にいて、自分のなかにはいない。
人に見せるためか、自分の得になることのために
神を降ろしている。
神だとその人が信じているなにかの想念を、降ろしている。

自然の中に神を見るのはすばらしい。
でも神に会うために自然の中に行く必要はない。

どんなに美しい景色も
あなたの中にある美しい光や
神の愛の現れである人の優しさや正しさや
人を思う心にはかなわない。

言葉の中、思いの中にある神の愛は
自然をもより活かし、輝かせる。

あなたには、すべての人には、私には、
そのちからがある。
命あるものにより真実の命を与えるちからが。

人間が神の似姿に創られたということを
多くの人は認めたくないのだと思う。
面倒だし、現実に直面するから。

自己の中に神をみつけるには
自分の足元をみつめなくてはならないから。
自分が今していることをみつめ
そこから変えていかなくてはならないから。
天を仰いでいるだけではみつからないから。

そういう現実を避けて
気持ちのいいことだけをして
楽なことだけを見て生きることが
あたかもできるかのように
スピリチュアルの一部の思想は誘惑する。

でもそれは、カルマを刈り取らずに
自分の子供たちや来世に丸投げするのと同じだ。
問題をより複雑に混乱させ膨らませて。

私たちは今ここで、今あるものをなるだけまるごと受け入れて
よく見て考えて、きちんと消化しなくてはならない。
物事の良い面とその裏側をまるごと全体として眺めなければならない。
そしてそこから真実を理解する。
それによってしか、愛を学ぶことはできない。
それだけが、分離から統合へと変容する道だから。

あまりに壮大で地道な作業だけど、
内なる真の自己、神とともにその作業をすれば
あなたは楽に平安に、喜びの中でそれに取り組むことができ
そこから生み出される恩恵と学びを最高のかたちで享受できますよ、
それが本当のスピリチュアルだと私は思う。

すべての人が、本当のあなたへと導かれますように。

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引き寄せの奥の奥

空港のラウンジにて、普段触れることのない雑誌を手に取る。
普段読むことのない、堂本兄弟のどっちかの
(丸い感じのほう)のコーナーに
なぜか目が行く。

記憶にある限り、なんとなくふてぶてしい感じの人かなと思っていたけど
彼は奈良に帰るときだけが、本当の自分になれるときだと言う。

そのときだけは、心が静かに穏やかになり、
鎧が脱げるときなのだそうだ。

神社仏閣巡りもお好きなようで
宮司さんとお話なんかしていて

「神道は信じるものではなく、感じるものなんですよ」

なんていう言葉に感銘を受けるとのこと。

私も感銘を受ける。
言霊を引き寄せたな~と、感謝が沸くので神に伝える。

神道に限らず、神は信じるものはなく感じるものだと思う。
信じるとすれば、感じるから信じるのであって、
もし感じずに信じるだけなら盲信になってしまう。

もし感じたことのないものに祈るとすれば
その交流は一方通行になる。

ヨガナンダジは、
「ただ週に一回教会に行って祈るだけでは不充分です。」
とおっしゃる。

いつも神に話しかけるのは素晴らしい。
神の声が聞こえたらそれも素晴らしい。

でも本当はいつも心に神を感じられたら
それが最高だと思う。

それは、神は遠いどこか、別のどこかにいるのではなく
私とともにあるのだ、ということだから。

神の愛を求める人は、神を感じられないときに心が沈む。

暗闇のとき、悪いことばかり気になるとき、からだの調子が悪いとき、
貧乏なとき、退屈なとき、

私たちは神から迷子になる。
神に見捨てられた気分になる。
罪悪感。

自分が良くない波長にいるから引き寄せている、と
抜け出すことに必死になる。焦りが起こる。

確かに波長は引き寄せ合う。
でも、この宇宙で最も強い磁力は神の愛。
(引き寄せを学んで神と愛を学ばないなら
私たちは牢獄にいるのと同じだ)

たとえ私たちが小さな過ちをおかしても
それをも包み込む大きな愛がある。

小さな過ちから抜け出そうと必死になっている間にも
私たちは本当は包まれている。
もっと大きな、強い波動に。

私たちがそれを本当に信じることができるようになるには
たくさんの、愛の体験が必要だ。

傷ついた犬が、安堵に身をゆだねるようになるには
たくさんの、愛の体験が必要だ。

彼は愛を何度も拒絶するだろう。
でも、与え続けられることで
いつか信じるようになる。

拒絶に拒絶で応えるうちは、
私たちは滞り、光りに向かうことができない。

怒っても、泣いても、うちひしがれてもがっかりしても、
その向こうに受容と理解を求めていれば
それは来る。
神の愛の波動に後押しされながら。

泣いてもいい、怒ってもいい、
拒絶と絶望よりずっといい。
無関心よりずっとずっといい。

魂が振動し躍動すると
エゴの殻は混乱と恐怖におののく。
私たちはより一層目を凝らし、心を澄ませて、
真実を探す。それでいい。

不安でもいい。
怖れてもいい。
しかしその声に従うな。

何度もその荒波に飲まれながら
私たちは浮上する。
何度でも、何度でも。

神の愛という最も強い磁力が
私たちを浮上させ、
悪い夢から私たちを呼び覚ます。
何度でも、何度でも。

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