自信って必要ですか?

自信という言葉は曲者だと思う。セッションでも「自信がない」「自信を持ちたい」とおっしゃるクライアントさんは多い。

私は自分に自信があるだろうか。自己評価が高いだろうか。肯定的だろうか。・・・答えはどっちもどっち、という感じしかしない。自信、という感覚に関してはほどんど実感がない。

子どものころを振り返ると、自分には根拠のない自信があった気がする。その自信は自分を強気にさせ、前向きにさせることもあれば傲慢さや無駄な優越感のもとになることもあった。

傲慢さ、優越感は結果として自分を追い詰め貶めるものだった。根拠のない自信というのは単なる幻想であり、思い込みのちからに過ぎないと思った。

自己意識の浄化とは、幻想を断ち斬り思い込みを手放すことだ。自分を変えることへの試みはそこへの取り組みに尽きる。

思い込みが解体されていくにつれ、自分の膨れ上がった幻想は等身大に戻っていった。人生のある地点まで、成長することはあたまでっかちになることだった。あたまでわかることと自己成長の違いがなかなかつかめなかった。そのことが私を追い詰めた。それは生きづらさそのものだった。

生きづらいから余計に慎重になる。つらいこと困難なことを察知して避けること対処することにどんどん力を注ぐようになる。そうやって賢くなっているつもりがますますあたまでっかちに拍車をかけていった。

そんなふうに人生を生きることは、自分を消費することだったと思う。死というゴールに向けて一日一日塗りつぶしていくような人生。それは緩慢な自殺のようだ。そんな中でいったい、幸せや愛というものをどうやって体験できるというのだろう。幸せは気まぐれにやってきては過ぎ去るもの、愛は運よく与えられるもの。消費する人生での人生観とはそんなものだった。

人は、自信があれば何かに立ち向うことができると思っているのかもしれない。私は今はっきりと、そうではないと思っている。私たちは、未知への信頼のもとにしか、ものごとに立ち向かうことなどできない。自信があろうがなかろうが関係がないのだ。自信というのは根拠のない思い込みか、もしくは過去のデータによる断定のどちらかな気がする。

でも、今ここにあるものに向き合うには、起こっていない未来に信頼を寄せるしかないのだ。そして信頼をもとに私たちが自分の意志で選び、体験し、その結果の如何にこだわらずにそこから学ぶことができたとき初めてそれが確信につながる。

その未知を信頼する根拠を私は、意識のエネルギーの仕組みのなかに学んだ。もし私たちが肉体だけの存在であるなら未知を信頼することなど永遠に不可能だ。一寸先はまさに闇でしかないからだ。けれど意識の世界には時間を超えた領域がある。それが神(宇宙意識・超意識)の法則の世界だ。

その法に身を委ねるとき私たちは、過去には不可能だった世界を超えて、奇跡的な進歩を遂げる。右の頬を打たれ左の頬を差し出したとき、求めた以上のものが与えられるという奇跡を体験する。

もしあなたが今、苦しみの中にいるのであれば、それは神があなたに奇跡を差し出したがっている証だ。神はとても近いところにいる。神はあなたに苦しんでいてもらいたいのではない。ただ、求めてもらいたいだけだ。その解決を、この世界にではなく、神に対して。未知に対する信頼とともに。その時神と人との関係が生まれる。

そこに私たちの成長がある。

楽しんで生きるには

1日1クリックで応援いただけます。1位をいただき、いつも応援ありがとうございます。

人間の歴史を調べていると、有史以来人は神との関わりの中で前進してきているのがわかります。誰もが本当は心のなかに神の気配を感じているのに、それを確信し、実感できる人はどれだけ存在したのでしょう。

大学で演劇を学んだ時
『演劇の歴史の起源は人類の歴史のそれと等しい。古来演劇は神に捧げられたところから始まる』と教わり感動したのを覚えています。

人間が人間だと自己を認識したと同時に、人は心を意識し、神を求め、その神に人間であることへの洞察を捧げ、神に認識されることを求めたのだと思います。

けれどその歴史はなぜか血塗られています。神から離れた人間は争い、また神に近づこうとして人は争います。

その結果を見て、神を求めることに幻滅する人もいます。けれど私は、人が幸せを求めて簡単に幸せを手に入れられないのと同じように、神を求めても簡単に見つけることができないことを示していると感じます。

神を、その後ろ姿の片鱗でも見つけることができればきっと、神を巡る争いなどに興味を持つことすらできなくなるだろうと私は思います。

もし本当に神に愛されていることを感じることができたらきっとその人は、他の人ともそれを分かち合いたいと思うでしょう。他の人が愛されることについて、また神の愛し方についてとかやく言う必要はなくなってしまうでしょう。

私は、人間というのは存在そのものが奇跡だと、つくづく思います。奇跡というのは、神のわざのことです。この自然やすべてのいきとしいけるものもそうです。でも人間は記憶し、再現するだけでなく、未知のものを創りだそうとする意欲や知ろうとする欲求、自己を認識するちから、そしてそういった知恵をも超越した叡智をも内包し、それを分かち合い、共感する能力を持っています。本当に、神の似姿に作られていると思うのです。そういった特性の統合のゆえに、愛を知りうる存在であるのです。

人間が地球上で学ばなくてはならない最も崇高なものは、愛です。ですから人間が自己という存在を認識すると同時に神をも意識したのです。神なしに愛を学ぶことはできません。それは宗教上の教えをする神ではなく、すべての人の心の内側の深いところから、常に私たちに音を発し、光を放ち、その存在を示し続けているもののことです。

多くの人がそれを感じたいと願っています。それを感じるために私たちはこの世にやってきます。そしてまず、お母さんからその道標を受け取ろうとします。愛を知るための土台となる、自分を育む愛情を全力で体感しようとするのです。

そのお母さんがどうであろうと、そこに私たちを育んでくれたことが彼女の愛です。ですが、子どもが必ずしもそれを上手に受け取ることはできません。そのボタンの掛け違いから、実は私たちは、より真実の、より大きな愛を求める旅を始めるのだと思うのです。

掛け違いが大幅にずれている人もそうでない人もいるでしょう。でもいずれにせよ、お母さんの愛が完璧でないからこそ、私たちはもっと大きな愛を見つけようと求めることができます。自分の家族を新たに作って、自分ならこうする、という実践をすることもできますし、社会を通して与える練習をしながら神の愛を見つけることもできます。こうして無条件の愛について少しずつ知っていくのです。

この冒険の旅には幾つもの挫折の罠があります。お母さんからしっかりと受け取れなかったことが傷となり、後の体験を積むことを恐れさせることもあります。家族からしっかり受け取れたつもりでも、パートナーとの間でつまずくこともあります。与える立場になったとき、受け取ったときのようにうまく与えることができないこともあります。がんばりすぎて、考えすぎて、感じることを忘れてしまうこともあります。愛はいつでも、頭で理解するだけでは内側に溶け込むことはできません。愛と一体になるために、私たちは心で感じなければなりません。それには心を安心によって開いておく必要があり、その内側には受け取るスペースを空けておく必要があります。でも一生懸命になりすぎると、このスペースは荷物で埋まってしまうのです。

こんなふうに私たちは幾重もの罠にかかり失敗するのです。しかし、心とからだは、失敗を恐れすぎている限り学ぶことができません。

失敗を恐れていると、私たちは体験そのものを楽しむことができません。よく『楽しんでね』と、スピリチュアルの信奉者は言います。それは、楽しいことだけ選んで体験することでも、失敗しないことでも、楽しいげな気分ばかりを感じることでもありません。楽しむ、というのは、真実である、ということです。正直で、自分と一体である、ということです。

そうであるとき、私たちは、苦しみも痛みをも、人生として受け入れ、楽しむことができるようになるのです。それが人生における最大のギフトです。

人生を楽しむには、言い方を換えれば味わい切るには、どうしても神と、その愛が必要です。安心によって心にスペースを空けておくために。

舞台美術、音響、登場人物、そして脚本。あなたは知らなくても、それらを神が、あなたのためだけに、あなたに最も合うように、選んで準備してくれているとしたらどうでしょう。神が、個別に、あなたを格別に愛し、その愛ゆえに、あなたには内緒ですべてを準備してくれているとしたら。本当はそうなっています。

内なる神を見つけるというのは、その神からの愛の贈り物を信頼して生きることなのです。