心から惹かれるものが教えてくれる

『風の谷のナウシカ』みなさんご存知ですよね。

傷ついてボロボロの虫の子どもが風の谷に迷い込んできて谷が大騒ぎになっているとき(虫はすべてを腐敗させてしまう菌が生きる森で生きているからその菌を持ち込んでしまう)、ナウシカはその虫に

「だいじょうぶ、飛べるわ」と声をかけ、虫笛を鳴らし、メーヴェ(一人乗りの翼)で一緒に飛んで森まで誘導してあげるんです。

何度も繰り返し見ていますが、そこで自分の身体感覚としてあまりにボロボロの虫に声をかけようとするなら「かわいそうに、どうしてあげようもない」という気持ちが出てきそうになるんです。

でもナウシカには迷いがありません。
その子(虫)は飛んで森に帰るしか、幸せになる道がないからです。
その幸せが、風の谷にもそこに住む人間たちにも虫の世界の生き物にとっても、平和だからです。

私はナウシカのそういう意志に心を打たれます。がーーーーーん、というくらい。

そして、私はそういう人でありたいと心底から望んでいるんだな、と、とても思います。

自分の潜在意識(肉体感覚)は無理だと感じても、私の魂(ハイヤーセルフ)は、飛べるよ、それが幸せだよ、と私に告げるのです。
(ナウシカは多分、身体感覚で「だいじょうぶ」と感じているのだと思いますが…)

高次元て、具体的に言うと例えば、そういうことなんです。
そして、その意志に自分が従おうと決断するとき、神はその意志にちからを与えます。

大事なのは、自分の内側にある本当の意志に気づき、それを選ぶということです。

神さまから学んだこと

最近になって気づくのは、敏感な人ほど怒りを抱えている、ということです。私も自分の内面を見直すようになって、自分の中身が、というより、外界のほぼすべてに対して「怒りで防御」していたことに仰天しました。

そして自分が防御すればするほど、その攻撃は自分に向けられるというのが法則でした。攻撃を受けるからさらに防御する、この攻防のスパイラルは人間界での「普通の営み」だと思います。

私は、自分がそれでいいとは到底思えませんでした。自分の周りで明らかにそれをやっているおとなを見るにつけうんざりしていましたし、なんでわかんないんだろう、と、憤ってもいました。「よし、自分だけはそうはなるもんか。」

その決意は上々ですが、気がついてみると自分はいくら正しいことを言ったり行ったりしているつもりでも、人には伝わりませんでした。そして世界は傷つくことばかりでした。

自分を見直してみると、法則は単純でした。要は、今、この自分がどんな状態なのか、ということだけなのです。それが伝わるし返ってくる。これがまず、3次元の2元的法則です。

つまり、「自分が体験したいような自分でいればいい」が、答えです。

1,こうされたいなら、そういう人でいる。2,こうされたいなら、自分をそう扱う。3,こうされたいなら、他者にもそうする。
これが鏡の法則。

多くの人が知っている因果の法則はこの3番目だけだったりして、とにかく他人にはそうするんだけど、自分とか自分の身内、近い人にだとそうできない、という人もたくさんいます。私もまあ、そうでした。だから、そとづらがいい、とか、偽善者、などと家人から言われたり自分でもそういう罪悪感を持っている人もいます。

鏡の法則は、この意識世界、エネルギー世界を、もう少し精妙に表しています。

例えば、先の2番、こうされたいなら自分をそう扱う、というのは、外側に働きかけるのではなく、自分の中だけで完結する、思いの世界です。ものでは表現できません。私の中の再構築はこれから始まりました。

内面は嘘がつけませんので、自分が心から思ったり、そうなる、ことでしか、自分には伝わりません。いくら作り笑顔をがんばっても、心がついていけなければは微笑んでくれません。むしろ消沈してしまいます。

そうやって自分との本当の親密なおつきあいを始めてみると、自分がいかに恐がっていて、それゆえに怒ってもいて、理不尽さに発狂しそうで、叫びたくて、がっかりもしていて、消えてしまいたい気持ちでいっぱいだったかがはっきり見えました。あなたのそばにもしそんな状態の友人がいたらどうしますか?

私はその友人にするように、自分に対して接し始めました。私はそれまで、自分のそばにいる元気のない人のために一生懸命になることは大の得意でした。でも、それができる自分だからこそ、自分は元気満タンだと思っていました。そして、元気満タンでなくても、同じように正しいことをしなくてはならないと自然に思っていました。なんで自分にはそんなに厳しかったのでしょう。

自分は正しいということに、安全さや安堵感を見いだしていたのだと思います。傷つくことから逃れたかったのだと。自分が傷ついていたからこそ、傷ついている人を放っておけないし助けたかった。でも助かりたいのは自分だったのです。

危なっかしい人をかたっぱしから正して、或いは助けてまわる人はおおむね自分の状態に気づいていません。自分からなにが発せられているか。悲痛な叫びとともに痛みが発せられていても、行いはいつも正しいので、周囲はなかなか手を差し伸べられないのです。

いったんこのことに気づいた私は、とても寛容になることができました。まずはどこまでも自分に寄り添い、そして励ました。できないことではなく、できたこと、大きな目標ではなく、より小さな目標をかかげ、クリアを積み重ねました。

理想的なお母さんのように自分自身に対してふるまいました。どうしていいかわからない時は、神様に尋ねました。そして、もし神様だったらなんて言うだろう、どうするだろう、ということだけ考えました。

それまでの自分は理想が高くて困っていました。自分も許せないし、世界に対して批判的でした。しかし神様を理想と考えると、この問題は消えてしまいました。それまでの高い理想は、自分や周囲の人間に求めてしまっていたから窮屈だったのです。理想の神様はあまりに完璧なので、人間のほど遠さがはっきりとわかりました。神様から比べてみると、人間の個々の差なんてほんと~~~~~うにちっぽけでした。みんな、ほんと~~~~うに未熟なんだし、そんなのと比べていきがっても自分を責めても仕方ないんだ、とつくづく思いました。

その個々の違い、というのは、潜在意識の体験の記憶の差です。神様は超意識の中にいます。問題なのは、みんなと大差ない、ちっぽけな自分のほうであり、自分が気を配らなくてはならないのは、そのちっぽけな自分と、なによりあまりに大きな神様のこと、だというふうに。

そしてさらに、自分と神様との関係に意識を向けていくと、なにしろ自分の変化は早まりました。当たりまえです。目標設定が高いばかりでなく、その神様ご自身こそが、私たちを成長させてくれる源だからです。そしてさらにさらに、周囲との関係はどんどん改善されました。これが究極の鏡の法則。自分をこうしたい、こうしてほしいというのはごく些末な欲望かもしれませんが、理想を神様と設定してしまえば、周囲に反映されるのは神様、ということになります。そしてそこに紛れ込んでいる自己意識の破片をみつけるのはとてもたやすいのです。

私は私を取り囲む人々の、その外側ではなく内側、つまり神様に近いほう=ハイヤーセルフを観ることが得意になりました。そうすると、とてもじゃないけど解決できそうにない、と思うような出来事も、一瞬でこんがらがった糸がほどけることが起こります。

私は誤解されることをそれほど恐れなくなりました。だって、それは、自分が(神様とつながって)わかっていれば、そのうちほどけてしまうことだし、なにより自分が神様にしがみついて離れなければいいのだとわかったからです。

怒っている人を見て、「恐い」「いやだな」と感じるのは、生き物として当たり前の反応です。でも自分の怒りがどんななだったか、そしてその解消の道をたどった人には、それがもはや脅威だとは感じません。その奥にある共通の痛みや苦しみへの共感、そしてさらにその奥にある絶対的な意識である「愛」を同時に感じることさえできます。

そうなるためには、自分を分析して批判的であるよりは、私が神様だったらどうする?という優しい目線で自分に接することをお勧めします。

私なりに神様の特徴をあげさせていただくなら、

神様は、とても謙虚に私たちに寄り添います。
出すぎたり上からだったり裁いたり罰を与えたり怒ったりはしません。

そして求めれば求めるほど応え、迎えるほど喜び、ほとんどは隠れていて私たちの好きにさせてくれます。

でも本当は、私たちがいつでも、神の道に沿って選ぶことを望んでおられ、
どんなに裏切られても知らん顔されても背かれても、
ただいま、ごめんなさい、と言われれば即座にすべてゆるし、
優しさだけで包んでくれる。

私たちが少しでも心に感じる意志を持てば、
どこまでも広がる自由さを思い出させてくれ、
愛そのものを示してくれる。

私たちの不義なんで一瞬で忘れてしまう。

なかったことのように消し去ってしまう。

あたかも永遠に、神の家族であったように、
一瞬たりとも神から離れたことなんてなかったかのように、
どうやって迷子になったかも、どうやって帰ってきたのかも、なにも問題にせず、
ただ、ひとつであった、という永遠の安らぎの中に迎え入れてくれる。

人間との大きな違いはそのあたりだと私は思います。

人間はディテールにこだわり、どのように、なぜ、にこだわるから。
それは一つの知恵なのだけれど、
それにこだわっていると、神のやり方には沿えない。

神は良いも悪いも帳消しにして、ただ愛のところへ戻してくれる。
正しいことを良いとがんばりすぎた人には到底納得いかない。
そして、自分が怒り、すり減ってしまい、迷子になる。

良きも悪しきも、神への帰り道を探している。
本当は、すべての人のおうちは同じだし、目的も一緒です。

神様は私にそう教えます。

ハイヤーセルフからの学び

みなさんこんばんは。沖縄は急に冷え込みました。つい先日まで夏とさほど変わらない服装でいけていた気がするのですが、今日は冬仕様でも寒いと感じました。とは言え、10月に東京に行った時ほどの仕様ですが・・今日は暖房を入れながら書いております。

先日お伝えしました勉強会ですが、ありがたいことにご応募いただきただいま残席1名様となっております。引き続きあと数日募集させていただきます。締め切りの際にまたご連絡いたします。いつもながら、いらしてくださる方がたのエネルギーが内容を導いてくださいます。とても楽しみに、準備させていただいております。ありがとうございます。

ヒプノセラピストとして東京で仕事を始めてから15年以上の月日が経ちました。沖縄へ来て、ヒーラー、カウンセラーとしての自分を育ててくださったのは、いらしてくださった皆さんのお力と、内なる神の導きに尽きます。自分のため、本当の自分として生きるために始めた人間と心の探求は、真理の探究へと私を導いてくれました。

ヒプノセラピーでは、ハイヤーセルフという概念をワークに組み入れていますが、それが本当はなんなのか、始めた当初ははっきりと見えていませんでした。ただ、ワークするとそれは起こる、という感覚でした。

ハイヤーセルフとはより高次元の自己意識と言い、私たちの通常の視野よりもより広く高い見地として存在すると考えられます。瞑想によって波動が高まり魂と同調したときの意識状態と見ていいのでしょう。チャネラーと言われる方々は「私のハイヤーセルフはこう言ってる」とか「あなたのハイヤーセルフはこう言ってる」などと表現されます。

当初は私自身もいつかそんな風になるのかしらという思いで、いつもハイヤーセルフにどうすればもっとあなたの声や言葉が聴きとれるようになるのか問いかけました。

ある日、「あなたは自分の言葉でそれを語りなさい」と言われた気がしました。それがどういうことなのか瞑想しますと、それはどうやら、メッセージを自分のものとして伝え、責任をとるように促されているようでした。

それまでハイヤーセルフは自分の人格とは別のなにか、というふうに捉えていましたが、当時チャネリングセッションを受けていて度々その言葉に疑問や違和感、もっと言えば傷つきを感じることもありました。「私が言ってるんじゃないの、ハイヤーセルフ(あるいはガイド)が言ってるの。私意味わからないし」という言葉とともにメッセージやアドバイスが伝えられることがよくありましたが、言葉の表面通りに受け取ると非常に無理があることもしばしばでした。

私は違和感を感じると、そのメッセージをどう解釈すべきで何を選択すべきなのか、非常に考えました。例えば、結婚したばかりの頃、私は結婚にとても幸せを感じていましたが「ハイヤーセルフは離婚を勧めている」と言われたことがあります。私は耳を疑いましたし、それはきっと何か別のことを意味する比喩か何かだろうと最初は思いました。

また、もう子供の魂がそこまで来ていて、間もなく身ごもると言われたことも複数回ありました。

前者は自分で考え選ぶことができることで、後者は努力はできても決められないことでした。

前者に関して私は、きっと私自身が自分でも気づいていない重要な何かが隠れているのではないかと考えました。それでいろいろと内観をしたりして意識を変えてみました。それでそのメッセージが取り下げられればきっと、そのカルマは変えられたことになるのではと考えたのです。しかしそのメッセージは執拗に私に届きました。何度その人に会っても同じことを言われました。そもそも私は結婚に関しては不安も疑問も感じておらず、質問すらもしていませんでした。でも繰り返しそう勧められました。私は困惑したあげく、とうとう主人に打ち明け相談したのです。

主人は当時、スピリチュアルに関してはまったくなにも知らず、私の仕事もヴォーカリストがメインだと思っていました。しかし彼は静かにその話を聞いてから、「それは、大変な思いをしたね。よくそれをうのみにしなかったね」というふうに私に言いました。うのみにしないことには慣れていましたが、私がここでしなくてはならないのは、もっと深く、互いの認識と理解を深め、共有し、二人の目標を持ってそれに向かって共に努力をすることのように思うと話しました。主人は同意してくれました。私はそれまでにしてきたスピリチュアルの学びを全面的に主人と分かち合うことにし、成就しました。

それで今があります。

結果として、その時のハイヤーセルフのメッセージは私にとってとても役に立ちました。しかし周囲では言葉を額面通りに受け取り選ぶ人もとても多くいました。それも間違いではないのかもしれません。しかし、自分がそれを「恐れから」、そうしなければ良くないことがあるとか、またそうしたほうが人生が優位に運ぶとか、そういった発想から選んでいたのならそれは成長ではなく破壊をもたらしたと思っています。

もう一つ、子供が授かるかどうかというようなメッセージは、結果として二者択一、どちらに賭けてもフィフティーフィフティーで当たるか外れるかです。不思議なことに、「子供はできないよ」というメッセージを伝えてきた人は一人もいませんでした。自分自身で瞑想しないわけではありませんでしたが、正直望みが強すぎて真実はよくわかりませんでした。後から思ったのですが、子供が来てるよ、と私に教えてくださった方々は、私のその強い希望の想念のエネルギーを現実のものとして感知なさったのではないかと思います。

実際私は毎月のように想像妊娠と思しき症状を見せ、主人からも「今度こそいる」と思われていました。私自身が間違いなく自分のからだを昨日までとは違うと感じていました。私がそれだけ明晰に知覚しているのですからそれはエネルギーとして存在したのでしょう。しかしこの世の事実として私には子供はありません。

話を少し戻します。もし私が私のハイヤーセルフから命じられた通り、「自分の言葉」としてメッセージを伝えるとすればどうでしょう。私には自分が社会人として発言した言葉に責任がありますし、少なくても自分にまったく意味不明なことをそのまま、或いはうのみにした誤解をそのまま伝えることはできません。少なくても自分が内容をある程度理解し、良識と良心、相手の身になってどう感じるかなどの人として当然の配慮の上で言葉を発しなくてはなりません。

私はそれに従いました。結果としてその選択は私を人として成長させてくれたと感じています。

ハイヤーセルフ・ワークのセッションでは、クライアントさんがハイヤーセルフのメッセージをチャネル(リーディング)されますが、私自身がそれを理解し噛み砕くには私は真理を学ばなければなりません。

これは過去世やインナーチャイルドワークにしても言えることですが、その内容や仕組みを真に理解し、より高い見地からそのメッセージを観るには、真理、つまり神と愛を中心に置かなくては間違いが起きます。神不在の探求は時にオカルトになり、時には心の傷の上塗りをし、時に愛ではなく恐れに、光りではなく闇に、人を追いやってしまうからです。

癒しとは、必ず人を全き光に導くものです。癒しとは、分離ではなく統合に、恐れではなく平安に、真のしあわせに導くものです。それは容易で平坦な道ではありません。時に厳しさや、変化とそれに伴う恐れに人の心を晒します。癒す人とは、自らの体験に基づき、その道の伴走をさせていただく者だと私は思います。癒す人は、何度も何度もその厳しい道のりを繰り返し往復することで、自らの足場を築かせてもらいます。癒す人はそのように癒されます。

癒しは神の領域であり、真の癒し手は神と愛しかありません。私たちは伴走を繰り返しながら、神の愛を目の当たりにし、その光にあやかります。いつしかその光がゆるぎないほんものとして宿ってくれることを夢見て。

洗脳と奴隷と瞑想

沖縄に来てから特に、私はものすごく恵まれてきたんだということを
ここのところ再認識させられています。

ヒーリングスペースを開いて、魂で共感できる人たちとたくさん出会って
私の世界は愛に満ちています。

しかし来てくださる方々はと言えば
こんなお話が通じるのはここだけ、とおっしゃる方が大半です。

私は常々思っています。
自分のセラピーは確かにスピリットの原理、
真理に基づいたスピリチュアルなワークなのですが
いわゆるスピリチュアルが好き、な人だけのものではありません。

なにも知識がない方、
そもそもなんとなくそういうジャンルが好きでない方、
にも適しています。

私自身が、スピリチュアルが好き、な人ではなく
ただ、本当のことが知りたい、そして
なんとか本当の幸せというものをみつけたい、という
探求者から出発しているからだと思います。

本当の幸せ、というと多くの人は
「幸せのかたちは人それぞれ」とか
「それは個々の感じ方の問題」と言います。
それはしかし表層的な満足、
つまり欲求を満たすレベルの話のことです。

私の言う、本当の幸せというのは
「自分の幸せは他の全部のきょうだいしまいの幸せ」です。
そうでない幸せには絶対に裏側があり、終わりがあります。
それは無限で拡大し続けます。
宇宙と神と愛と同じように。

それをかたちにするのは簡単なことではありません。
気づいた人がたった今から取り組まなくては
それを味わい共有するところまでたどり着けないかもしれません。

神をみつける探求は何より先に、早くに始めなさいと
多くの覚者たちが助言しているのは
きっとそういうわけだと私は思うのです。

そもそも真理というものは普遍的であるものです。

普遍的、ということは、
俯瞰する、抽象化してみるということにも似ています。

ひとつの事柄にズームして寄っていくと
その事柄はその人特有の問題であり、
その物語はその人特有のものになります。

そしてそれをぐーっと俯瞰していくと
その事柄は人であるすべてが共有し
その物語はすべての人のものになり得ます。

そのカメラをグーッと高いところに、
例えば
天とか宇宙とか神の意識とか呼ばれるところに置いて
どうなるか観じてみようと試みるなら
それが瞑想になります。

それは、頭で考えてみるだけでは到底届かない視線です。
考える、ではなく感じる、
また与え受け取るという在り方で臨む必要があります。

与え受け取る、ということは、自分の中だけではなく
主体と客体、観察者と非観察者、神と私、など
対話しやりとりする相手を自己の中に想定すること、です。

そうしないと、人間の頭は私という限定された思考から
抜け出すことが難しいのです。

自分、とか、経験値、そこから来る感情や価値観などを
いったんわきにどけておいて
なるだけまっさらになって、
まっさらなスクリーンに浮かび上がってくる何かに
そっと寄り添い耳を澄ますような
そんな行為が瞑想かと思います。

そんな姿勢で私たちが内面と向き合うとき
高次元の自己意識≒魂は
私たちにその姿の片鱗を垣間見せてくれます。

魂は神の愛に満ち溢れ
私たちをそこへ向かえるよう
そっと招いてくれます。

望む人すべてに、
またはっきりそれを望んでいることにすら気づかない人にさえ
その導きはもたらされます。

私たちが少しでも心でそのサインを発したとき
魂と神はそれを見逃しません。

そんな方々が日々、
私のところへ何かを分かち合いに来てくださってきました。

そのことをここしばらく、じっくりと味わうことができ
そこからまたたくさんの気づきがありました。

俯瞰した世界観を、今度は丁寧に地に降ろすのが
愛を行うことです。

日常の一コマ一コマが
単なるかたちだけの、過ぎ去る場面になるのか
その背後にある光に照らされた、永遠の場面として輝くのか
それは私たちの意識にかかっています。

一概に言えないことですが、
スピリチュアルが好き、という人に多く見られるのが
この作業が嫌い、好きになれない、またはどうやっていいかわからない
という傾向です。

愛について私は知っている、でも、世界には愛がなさすぎる、と感じていて
人間が好きでないのです。

もしすべての人の内側に在る、神を
誰か1人の中に観ることさえできれば
きっと人間全体に対する印象も変わるはずです。

人間みんながだめだからと言って
愛する人もろとも葬ってしまうなんてことは
私たちにはできません。
もし誰かを愛したことさえあるのであれば。

私がこの人を素晴らしい、愛しいと思うのと同じように
誰かが誰かをそう感じるから世界は続いています。

誰かの問題は、私の問題。
誰かの愛は、私の愛。

私のところにいらしてくださる方の中に
社会問題に目覚めておられる方が多いことは
うすうす気づいていました。

みんなが敏感で優しいからだろう、という風に理解していたのですが
それだけではないことに最近思い当たりました。

おそらく皆さんが普遍性、俯瞰するという視線、
つまり瞑想に目覚めていらっしゃるからだろう、と。

すると逆に、
社会問題の通じなさの壁があまりに厚いことに対して感じてきた
困惑や悲しさの謎も最近になって解けました。

敏感で優しいから、が理由なら、もっともっと多くの人に
自然に通じるはずなのです。
私の悲しさの原因はそこにありました。
優しいのに通じ合えないのです。
これが私にとって昨今一番大きな壁でした。

それから、沖縄へ来てみて
沖縄と本土(あえて本土と言いますが)の認識の温度差の理由もわかりました。

あえてこの言葉で言いますが
本土はあまりに洗脳されています。

ネット上ではよく、沖縄の新聞は極左という風に言われます。
私から見ると、それは個に寄り添った人道的な視点です。

この、左とか右という観念も、洗脳の一部だと最近気づきました。

あたかも、それはバランスよく真ん中から別れ
そしてあなたはあっちに偏っている、というような観念です。

あたかも「あなたもわたしもどっちを選ぶのも自由よ」というような
見せかけられ方でそれは示されています。

私は左を選んだ覚えはありません。
もし右が国家主義だというなら
私は皇室にも反対ではないし
今の天皇陛下とそのご発言など大好きだし
日本という国にも親しみと愛を感じます。
世界の中で愛され尊敬される国でありたいと
心底願って努力しているし
なにより、仲間が一番たくさん暮らしている国は日本です。
でも、勝手になにものかにコントロールされて
私は反国家主義者のほうに、追いやられているようです。
それはなぜなのか。

この社会には権力と被権力という構造しかありません。
その構造は、私たちの精神をも支配と被支配に分かちます。
それらは不可分です。
精神の支配なしに、権力は支配できません。

そしてその対比はものすごく偏った比率です。

前回の記事に書いたような
「対立の根底にある平等さや
議論の基盤にある誠実さ」は
そこにはありません。

瞑想は私たちから、そういった目隠しを外してくれます。
そもそも、魂だった、という視点まで
私たちを連れて帰ってくれます。

そこへ帰ってみると
この世でいつの間にか着せられた衣の滑稽さに気づきます。

それは、親や周囲から浴びせられた否定的な感情や言葉であり
また社会から与えられた役割を演じるための装束です。

それらの欺瞞や嘘から離れ、真実であることの喜びが思い出されます。

瞑想すると、そこに帰ることができます。
百万の議論より明確に素早く
いろいろな問題を解決し
最も優しい方法で
あらゆる対立を和解に導いてくれます。

あなたも洗脳による奴隷をやめてみませんか。
311で目覚めた人は多いと思います。
でも災害と多大な犠牲からではなく
友愛から、それを始めることもできます。

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こつこつがんばっています。