スピリチュアルとお金の、新しい発見

たまーに、スピリチュアルのサイトやブログをのぞいてみると、お金のことが書かれているのが目につきます。
私はアバンダンティア・アバンダンス・レイのアチューメントをしていますので、セッションでクライアントさんとこのテーマでお話することがあります。
また、セッションの料金についてなど、クライアントさんからご質問を賜ることもあります。
「セラピストのための講座」では重要なテーマにもなります。

私の人生、まあさまざまなことで格闘しましたが、今でも思い出すとひやっとすることのひとつに、お金との付き合いがあります。
多くの人があまりオープンにすることなく密かに抱えている問題のひとつかもしれません。

「お金とはエネルギーである」とは、スピリチュアルの世界でも、もしかしたら一般的にも言われるようになっているのかもしれません。
お金が不足するときは、実際にエネルギーの収支がマイナスになっているというのは真実だと私は思っています。

お金との付き合い方を学ぶために、1円単位で毎日、収支をメモしていた時代もあります。
まったくどう生きていいかわからず真っ暗闇の時代でしたがこれは今でもいい経験だったと思っています。
エネルギーの出入りを体感的に覚えるのにとても役に立ちます。
また「エネルギー漏れ」のしっぽを掴むこともできます。

天使貯金というのもやっていました。
今でも人から尋ねられお伝えすることがあります。
これは、どんな形であっても手に入ったお金のうちの10%を必ずより分けてプールし、自分が心から使いたいことのために使うというものです。
一見なんということはないからくりですが、自分に与え受け取る訓練になり、手元に残ったお金の10倍、自分は稼ぐことができているという実感を重ねる訓練にもなります。
豊かさを体験しデモンストレーションします。そうやって豊かさを生み出すのです。

それからさらに、お金の滞りがあるときは意識エネルギー、つまり心の領域に無意識的な詰まりがあり、それを解消することでお金の流れを整えるという見方は今も常に点検の項目にしています。

こうやって、お金の流れを頭ではなく心とからだで捉える訓練を積みました。
とても現実的なやり方ですが、どれもスピリチュアルの本から学びました。
私にとってスピリチュアルの教えとは生活そのものです。在り方、生き方の実践なのです。
頭の中で考えて答えをみつけることでなにかを解決したり乗り越えたりするのではありません。
気づきによって変わり、新しい自分となって「喜びとともに」生きることが学びです。

さて、ここからが本題で、最近になって気づいたことです。
セッションでもお金についての話題が重なり、私生活では身内の間で感覚のずれのようなものが気になることが数回重なりました。
これは内なる自己からのお知らせだろうな、と思っていたところ、それが心の痛みとして出てきたのです。

まさかここへ来て、お金のことで感情の解放があるとは思いませんでしたが、同時に自分の中にある課題としてはきっと最後までお付き合いするだろうとも感じていました。
お金とは肉体を生かすもとになるエネルギーだからです。

そして出てきた気づきはこんなことでした。
「お金についての本当の問題とは、個々の体験によってその価値が異なることである」。

思い起こせば結婚した当初は家庭内でちょいちょいその壁に当たりましたが、手探りと話し合いで乗り超え、今では夫婦で摺り合わせがうまくいっていると感じています。
しかし今度は互いの実家やきょうだいが築いた各々の家庭同士で別々の価値基準が作られてきて、なーんとなくその間に壁ができてきます。

もちろんそれは当たり前のことであって、それ自体何の問題でもありません。

でもそのせいで、やはり現実的ないろいろな話はだんだんとしなくなるし、しても通じにくくなります。
いえ、そのせいで、と気づいたのは後のことで、まずはそのわずかな「通じにくさ」が違和感として私の中に積もっていたのだと思います。

私は多分少しずつ傷ついていたのだと思います。
まさかそれが、金銭感覚に通じているなんて夢にも思っていません。
特に深刻な金銭問題が勃発したわけでもなく、あるとすればそれはずっと長い間、潜在的に存在する人間関係の課題です。

感情として悲しみが出てきたあと、私はなるほどこれかと深く納得しました。
多くの人が、親族や親戚の間でお金の問題でいやな思いをすることが絶えないわけを。
何かを争ったりするわけでもないのになんとなくいやな雰囲気になってしまうのを傍から何度となく目にしてきた、そのわけを。

例えば一万円というお金について、多くの人がそのエネルギーにまつわる体験と実感を持っています。
同じ世帯に育ったきょうだいなど、幼少期に共有することは山ほどあります。
お年玉やお誕生日とクリスマスのプレゼント、進学の費用やお祝い、買ってもらう服や嗜好品。いつもきょうだいで互いに見比べたりして育ちます。
でも暮らす世帯が違えば同じ一万円が全然違うものを意味するようになります。

余談ですが「北の国から」というテレビドラマで主人公の純くん(吉岡秀隆)が北海道から東京へ巣立つとき、お父さん(田中邦衛)が少ない収入からピン札の一万円2枚を、純くんを乗せてくれた長距離トラックの運転手(確か古尾谷雅人)に渡すというシーンがあります。
純くんは反抗期まっただなかでお父さんを疎んじていて感謝なんてありません。自分のことで精いっぱいなのです。
その時トラックの古尾谷さんが純くんにお金を見せてこんなことを言います。

「俺はこの金受け取れねえ。見てみろ、ピン札の端っこに、泥の付いた指で数えた指紋の跡がある。お前のおやじがどうやって用意した金か俺にはわかる。だから俺には受け取れねえ。この金はお前が記念に持ってろ。一生大事に持ってろ。」(すごく昔に見た記憶なので正確ではありません。あしからず)

純くんはそのピン札に付いた泥の指紋を見て、それまで堰き止めていた思いが噴出します。純くんは、あまりにいろいろな思いを抱え、それを感じないようにしていたのです。
その一万円は、ただの一万円ではないですし、その一万円の重みは多分ずっと、良くも悪くも純くんの心に刻み込まれるのです。
「北の国から’87初恋」

(さらに余談です。純くんである吉岡秀隆さんの演技は大好きなのですが、私はこのシーンでの純くんの感情の噴出は本物じゃないなと感じてました。当時は実際に吉岡くんの反抗期であり、それがドラマのクライマックスと同時に昇華されるに至らなかったのだと思っています。昇華しないならしないなりの噴出でよかったのに、どうも昇華を目指してしまったところに嘘ができてしまったのではないでしょうか。)

そんなような一万円の悲しみの記憶が私にもあります。

人によっては一万円を見て、楽しい使い道や自分のためのものとしか思い浮かばない人もいます。
人によっては一万円を見て、これがあればこんな思いをしなくても済むのに、あの人が助かるのに、何日間生き延びられるのに(これ私です)、と切実に思い浮べる人もいます。
直結した感情もイメージもまちまちです。
なのに私たちはどの一万円も同じ価値のふりをしてやり取りしなければならないのです。

そして、多く持っている人をなんとなく尊敬しなければならないような思いにとらわれたり、多く持たないことをなんとなく恥じたりしています。
持たないことに非があるような、能力が足りないような、努力や忍耐が欠けているような、不全的な意識です。

また多くを持っていない人に限ってもっと持っていない人を助けなくてはならないと感じています。
持たないことの心細さを身をもって知っているからです。

結局のところ、それほどたいした貧富の差でもないのに、この感覚のちょっとした温度差でなんだか心がすり減るようなことが起こるのだということを私は発見しました。

自分にとって切実に必要なものを一方で軽く、あるいはちょっと乱暴に扱われたりしたら、それは間接的には傷つけられるのと同じです。

同じようなことを仕事に置き換えて感じることもあります。
本当にいろいろなものをなげうってひとつのことに取組む人もいれば、同じ領域に遊び半分で片手間に踏み込む人もいる。
人生をかけて仕事をする人も、軽いのりでこなす人もいる。
養うために稼ぐ人も、遊ぶために稼ぐ人もいます。
お金が必要な人も、それに伴う権威や自己肯定感が必要な人もいます。
同じ仕事をしていても。

本当のことを言えば、お金によって本当の満足を得ることは決してありません。
お金は道具でしかなく、いくら稼げたり稼げるだけの社会的認知を得ても、自分を満たすのは結局自分の意識だけです。

なにを求めて行動するかはそれぞれの自由ですが、でもそこには意識下のエネルギーのやり取りが本当はあるのです。
そして個々のやり取りの温度差を埋め、摩擦を調停するものが、想像力と思いやりという愛なのです。

ですから私が感じたすり減り感は、お金に対する認識の温度差と摩擦によるものが表層にありますが、深層では愛の不足感による傷つきだったというわけです。
かみ砕けば、お金の扱いに愛の欠如感が結びついていたということに無意識だったということです。

お金が持っている本当の問題に気づいた私の、痛みや貯まっていた感情はほぼすっかり解放されたようです。
明晰な理解とともに光がもたらされた思いです。

どんな問題も、私たちがネガティブな感覚に引け目を感じ踏み込めない状態というものが解決を遅らせます。
踏み込めないことが問題です。
自分の思い込みを手放し感情を解放し痛みを癒せば、私たちは問題から目を背けずに済みます。
踏み込めばそこに光りがもたらされます。光は闇をも明らかに照らします。

お金はエネルギーであると同時にコミュニケーションのツールである、と、今回私は気づきました。
しかし人類がこのツールを健全に愛とともに使いこなすようになるのはまったくもってこれからだな、と感じました。

自分への信頼、自分が感じることへの信頼があって初めて、別の価値観を肯定的に捉えることができます。
これは差別問題などにも通じます。
本来ばらばらである価値観を受け入れることができてこそ使いこなせるツールなのでしょう。

愛と平和への気づきの道は至る所にあります。

神さまから学んだこと

最近になって気づくのは、敏感な人ほど怒りを抱えている、ということです。私も自分の内面を見直すようになって、自分の中身が、というより、外界のほぼすべてに対して「怒りで防御」していたことに仰天しました。

そして自分が防御すればするほど、その攻撃は自分に向けられるというのが法則でした。攻撃を受けるからさらに防御する、この攻防のスパイラルは人間界での「普通の営み」だと思います。

私は、自分がそれでいいとは到底思えませんでした。自分の周りで明らかにそれをやっているおとなを見るにつけうんざりしていましたし、なんでわかんないんだろう、と、憤ってもいました。「よし、自分だけはそうはなるもんか。」

その決意は上々ですが、気がついてみると自分はいくら正しいことを言ったり行ったりしているつもりでも、人には伝わりませんでした。そして世界は傷つくことばかりでした。

自分を見直してみると、法則は単純でした。要は、今、この自分がどんな状態なのか、ということだけなのです。それが伝わるし返ってくる。これがまず、3次元の2元的法則です。

つまり、「自分が体験したいような自分でいればいい」が、答えです。

1,こうされたいなら、そういう人でいる。2,こうされたいなら、自分をそう扱う。3,こうされたいなら、他者にもそうする。
これが鏡の法則。

多くの人が知っている因果の法則はこの3番目だけだったりして、とにかく他人にはそうするんだけど、自分とか自分の身内、近い人にだとそうできない、という人もたくさんいます。私もまあ、そうでした。だから、そとづらがいい、とか、偽善者、などと家人から言われたり自分でもそういう罪悪感を持っている人もいます。

鏡の法則は、この意識世界、エネルギー世界を、もう少し精妙に表しています。

例えば、先の2番、こうされたいなら自分をそう扱う、というのは、外側に働きかけるのではなく、自分の中だけで完結する、思いの世界です。ものでは表現できません。私の中の再構築はこれから始まりました。

内面は嘘がつけませんので、自分が心から思ったり、そうなる、ことでしか、自分には伝わりません。いくら作り笑顔をがんばっても、心がついていけなければは微笑んでくれません。むしろ消沈してしまいます。

そうやって自分との本当の親密なおつきあいを始めてみると、自分がいかに恐がっていて、それゆえに怒ってもいて、理不尽さに発狂しそうで、叫びたくて、がっかりもしていて、消えてしまいたい気持ちでいっぱいだったかがはっきり見えました。あなたのそばにもしそんな状態の友人がいたらどうしますか?

私はその友人にするように、自分に対して接し始めました。私はそれまで、自分のそばにいる元気のない人のために一生懸命になることは大の得意でした。でも、それができる自分だからこそ、自分は元気満タンだと思っていました。そして、元気満タンでなくても、同じように正しいことをしなくてはならないと自然に思っていました。なんで自分にはそんなに厳しかったのでしょう。

自分は正しいということに、安全さや安堵感を見いだしていたのだと思います。傷つくことから逃れたかったのだと。自分が傷ついていたからこそ、傷ついている人を放っておけないし助けたかった。でも助かりたいのは自分だったのです。

危なっかしい人をかたっぱしから正して、或いは助けてまわる人はおおむね自分の状態に気づいていません。自分からなにが発せられているか。悲痛な叫びとともに痛みが発せられていても、行いはいつも正しいので、周囲はなかなか手を差し伸べられないのです。

いったんこのことに気づいた私は、とても寛容になることができました。まずはどこまでも自分に寄り添い、そして励ました。できないことではなく、できたこと、大きな目標ではなく、より小さな目標をかかげ、クリアを積み重ねました。

理想的なお母さんのように自分自身に対してふるまいました。どうしていいかわからない時は、神様に尋ねました。そして、もし神様だったらなんて言うだろう、どうするだろう、ということだけ考えました。

それまでの自分は理想が高くて困っていました。自分も許せないし、世界に対して批判的でした。しかし神様を理想と考えると、この問題は消えてしまいました。それまでの高い理想は、自分や周囲の人間に求めてしまっていたから窮屈だったのです。理想の神様はあまりに完璧なので、人間のほど遠さがはっきりとわかりました。神様から比べてみると、人間の個々の差なんてほんと~~~~~うにちっぽけでした。みんな、ほんと~~~~うに未熟なんだし、そんなのと比べていきがっても自分を責めても仕方ないんだ、とつくづく思いました。

その個々の違い、というのは、潜在意識の体験の記憶の差です。神様は超意識の中にいます。問題なのは、みんなと大差ない、ちっぽけな自分のほうであり、自分が気を配らなくてはならないのは、そのちっぽけな自分と、なによりあまりに大きな神様のこと、だというふうに。

そしてさらに、自分と神様との関係に意識を向けていくと、なにしろ自分の変化は早まりました。当たりまえです。目標設定が高いばかりでなく、その神様ご自身こそが、私たちを成長させてくれる源だからです。そしてさらにさらに、周囲との関係はどんどん改善されました。これが究極の鏡の法則。自分をこうしたい、こうしてほしいというのはごく些末な欲望かもしれませんが、理想を神様と設定してしまえば、周囲に反映されるのは神様、ということになります。そしてそこに紛れ込んでいる自己意識の破片をみつけるのはとてもたやすいのです。

私は私を取り囲む人々の、その外側ではなく内側、つまり神様に近いほう=ハイヤーセルフを観ることが得意になりました。そうすると、とてもじゃないけど解決できそうにない、と思うような出来事も、一瞬でこんがらがった糸がほどけることが起こります。

私は誤解されることをそれほど恐れなくなりました。だって、それは、自分が(神様とつながって)わかっていれば、そのうちほどけてしまうことだし、なにより自分が神様にしがみついて離れなければいいのだとわかったからです。

怒っている人を見て、「恐い」「いやだな」と感じるのは、生き物として当たり前の反応です。でも自分の怒りがどんななだったか、そしてその解消の道をたどった人には、それがもはや脅威だとは感じません。その奥にある共通の痛みや苦しみへの共感、そしてさらにその奥にある絶対的な意識である「愛」を同時に感じることさえできます。

そうなるためには、自分を分析して批判的であるよりは、私が神様だったらどうする?という優しい目線で自分に接することをお勧めします。

私なりに神様の特徴をあげさせていただくなら、

神様は、とても謙虚に私たちに寄り添います。
出すぎたり上からだったり裁いたり罰を与えたり怒ったりはしません。

そして求めれば求めるほど応え、迎えるほど喜び、ほとんどは隠れていて私たちの好きにさせてくれます。

でも本当は、私たちがいつでも、神の道に沿って選ぶことを望んでおられ、
どんなに裏切られても知らん顔されても背かれても、
ただいま、ごめんなさい、と言われれば即座にすべてゆるし、
優しさだけで包んでくれる。

私たちが少しでも心に感じる意志を持てば、
どこまでも広がる自由さを思い出させてくれ、
愛そのものを示してくれる。

私たちの不義なんで一瞬で忘れてしまう。

なかったことのように消し去ってしまう。

あたかも永遠に、神の家族であったように、
一瞬たりとも神から離れたことなんてなかったかのように、
どうやって迷子になったかも、どうやって帰ってきたのかも、なにも問題にせず、
ただ、ひとつであった、という永遠の安らぎの中に迎え入れてくれる。

人間との大きな違いはそのあたりだと私は思います。

人間はディテールにこだわり、どのように、なぜ、にこだわるから。
それは一つの知恵なのだけれど、
それにこだわっていると、神のやり方には沿えない。

神は良いも悪いも帳消しにして、ただ愛のところへ戻してくれる。
正しいことを良いとがんばりすぎた人には到底納得いかない。
そして、自分が怒り、すり減ってしまい、迷子になる。

良きも悪しきも、神への帰り道を探している。
本当は、すべての人のおうちは同じだし、目的も一緒です。

神様は私にそう教えます。

矛盾を解く

私はセッションやメールでのやり取りでよく「ご質問ください」と申し上げます。質問をいただくことで、その方が何を理解しているのか、また何を(理解)したいのかがよくわかります。

ハイヤーセルフや魂、また内なる神(普遍の霊=スピリット)との対話についてのお話でも、「問いかけをしてください」と申し上げます。そうするとハートの中に、感覚の中に、周囲の現象のなかに、応えが還ってきます。というより、神はすべてを与えているのですが、私たちにはそれが全体的過ぎて認識しきれないので、問いかけることで意識にフォーカスがなされ認識しやすくなるのです。メッセージが来るというのはそういう感じです。

ですから、「神への対話では、質問上手になってください」とよくお話します。

私自身が神について、また心や摂理についてすべてをお話するのは困難を極めますが、ご質問というフォーカスを与えていただけると、それが真理の一部分に光を当てていただけることになるので、言葉にするのが容易になります。きっとどんな知識に対しても言えることです。

ご自身の中の何が問題なのか、ということに多くの方は行きついていません。もし行きついていればそれは自ずと解決に向かうはずなのです。問題には常に誤解とそこから来る混乱があります。神はなんでも応えてくれるのですが、混乱のなかで、つい大事なことを神に求め忘れているのです。

対話というのは、目的を共有することによって、混乱を整然とさせるちからがあります。その目的地を何に設定するかがとても大切です。私にとってそれは神であり愛であり幸福です。そこから私自身が逸れなければ、神のほうから私たちを迎えに歩み寄ってくれます。

神、というとやはり宗教を連想される方が多くおられると思います。私はクリスチャンの大学に通い、礼拝という授業がありました。牧師であり教授である先生が講話をされます。前島誠先生の講話は断然素敵で楽しく人気がありました。

なかでも一番印象的だったのは、「信仰は神が創り、宗教は人間が作った」「神は完全だが人間は不完全」です。当時とても納得しました。

今では私は、「神はひとつ」ということにとても合点がいっています。昔は、「宗教の数だけ神がいるのか」とか、日本神道に至っては「八百万の神」などと言われ、どうお付き合いしていいのかさっぱりわかりませんでした。

神はひとつ、ということを理解すると、世界はシンプルです。真理はシンプル、と言われますが、「神はひとつ」が真理だからでしょう。

多くの人が対立しているかに見えるこの世界は、実はかりそめの姿です。対立することで世界は物質化され、ぶつかり合うことで磨かれます。そうすると世界は分離して見えます。分離、と簡単に言いますが、分離する、対立する、ということは、それらの方向性は別々を指し、目的地も違うということになります。

世界の戦争は宗教戦争だ、思想の違いだという刷り込みがあります。それが真実なら、神がたくさんいて、神同士で主義主張が違うということになります。本当にそうであれば、人間が平和を選択するなんて不可能です。神が望んでいないわけですからね。

それで、「人間は本質的に争う生き物なのだ」などという論調さえ生まれてきます。しかしそれは人間の中の本能的な自己意識の特性のひとつに過ぎず、普遍的な本質だとは言えません。

神はひとつであるというのは、いろいろな個性を削ってひとつにするという意味ではもちろんありません。神がひとつであるなら、私たちの目的も目的地もひとつです。神がひとつであるなら、私たちの様々な側面の違いというのは大して重要ではない、大事なのは共通の部分だ、ということです。その部分にこそ、神の特性が潜んでいます。

もし私の神とあなたの神が、別々の方向を指し示すのであれば、私たちは対立します。しかし、本当はこうです。神は同じですが、私たちの自己意識のフィルターを通すために違った色や形に見え、同じ言葉は違った解釈に取られるのです。

スピリチュアルの情報の中に、あたかも対立する勢力があるかのようなお話がありますが、それは神の話ではない、と私は思います。ご先祖とか歴史にはもちろん対立があり勢力があります。支配力のある勢力を神々とみなす傾向が私たちにあるのは、私たち人間の性質のためなのだと私は思います。本能的に自分がそうありたいのです。

神とは対立しないものです。なぜならひとつだから。私たち肉体を持った人間がそれを理解しながらに生きるのはとても高度なことです。しかし、わたしたちはその可能性を秘めています。なぜなら神を宿す似姿だから。だから私たちは本能以上に深く、愛を求めるのです。

地球と人間は対立するでしょうか。表面上、それはあるように見えるかもしれません。肉体的な生命としてそれを見れば。人間こそが害虫だという見方をする人もいます。しかしそれは本質でしょうか。

植物も、また野生動物も、愛が媒体となることでその生命が輝くところを私はことごとく目にします。本能より愛がまさり、他者への思いやりや優しさ、また美しさなどという美徳が輝くのです。人間は自ら意識的に与えることのできる生き物です。そのエネルギーが実は命の奥に遍在する神の意志を宇宙に循環させます。

愛と奉仕の人間と、支配的で利己的な人間の対立を光と闇になぞらえて説明する情報を見かけるのですが、この立場なんて、一瞬で変わります。そもそも愛や神と対立できるものなんて宇宙に存在するのでしょうか。もしあるのであれば、やはり神はひとつではないし、ワンネスなんて存在しません。

支配的で利己的というのは、単に肉体にしばられた想念です。そしてそれは、不滅の真理ではないから、いずれは解体され霧消するのです。

不滅の真理だけが永遠に存在します。私たちはその刹那、真理と幻想の狭間を垣間見ています。魂が一瞬の夢を見せてくれ、その夢の間に多くを学ぶのです。と、同時にそれは遊びです。神の壮大な、そして小さな戯れです。

どのような状態からも、愛は一瞬で目覚めさせてくれます。時に正しさが通用しなくても愛は通用します。私たちはその法の保持者であり行使する者です。

魂の見せる夢は多くを学ばせる一方で、この至上の法を時々忘れ去らせてしまいます。あまりに夢のストーリーに没頭しすぎるとそうなるのです。思い出すためには肉体から少し離れて魂であることに浸る(瞑想する)のです。

悠久のなかで、私たちはすべてとひとつであり一体です。ですから目的も行先ももちろん一緒です。だからこそ、神は在ります。

そもそもひとつで一体のものにわざわざ問いかけるなんておかしなことのようですが、そうすることで分離の夢から本体へ、つながりを戻すことが容易になるのです。

豊かさは、愛することから

理想や意志を持つ人ほど、自分のコントロールができるようにならない限り葛藤が大きいものだと思います。思慮ある多くの人が自分を簡単に愛せないのはそこにあるような気がします。

トラウマがあるとかないとか、インナーチャイルドの状態に関わらず。(インナーチャイルドは自分史のすべてですから、見直しをするまでの自分の多くはそこから成り立っているのはもちろんのことですが。)

理想と意志に感情とからだがついてこないイライラ、これは放っておけば一生つきまとう人間のジレンマでしょう。放っておいたなら、その人にどんなに崇高な思いがあっても、心の中が平安に満たされることはないでしょう。むしろ自己のなかの分裂は時とともに深まっていくことと思います。

崇高な意思とうらはらに心の中ではいつも不平不満が渦巻いている。いつも他者かもしくは自分を攻撃している。もしくは諦めや我慢とともに固まり閉ざされている。

この状態をチャクラで見ると、スピリチュアルに目覚めている方には往々にしてあることですが、下3つのチャクラが閉じているとか弱い、というふうに出ていることが多いです。「地に足がついていないんです」などと自覚なさっている方も多いけれど、言葉のイメージのように単にふわふわしているということだけではなく、

例えば自分の在り方を常に周りとの兼ね合いで測ってしまうというようなことや、どこにいても求められる以上にがんばってしまう、さらに求められないと居心地が悪い、つまり役割がはっきりしないと楽に居ることができない、人のことは許せるけど自分にはもっともっともっと多くを求めてしまうとか、だけど周囲からの理解は欲しい、賛美とは言わずとも少なからず認めてもらいたい、或いは許可がほしい・・・など様々な意識として現れます。まさに葛藤です。

これは30代のころの考察ですが、年を取って寛容になっていく人と偏狭になっていく人がいることに気づきました。更に掘り下げれば寛容に見えて諦めが強く閉ざしている人もいるかもしれません。本当の意味での寛容は、赦せることでしか生まれないのでしょう。

霊的成長、などというと仰々しいですが、私は単純にどっちに向かうかの二択だな、とその頃思いました。私は思春期から体調も精神状態も不調で不安定だったため、20代後半から自分を立て直し始めましたが、「次の山場は更年期だ。そこは自分の取り扱いマスターになって苦しまずに乗り切るぞ」と心に誓ったものです。そして自分との付き合いに対して本当に様々な実験を施してきました。

人間の肉体的な健康や寿命はおそらくホルモンに牛耳られていると私は今では勝手に確信しております。例えば女性ホルモンが一生の間に分泌される量って、ティースプーン1杯だと昔何かで読んで驚愕しました。総量でそれだけのものが、心身にどれだけの影響を持つか、というより女性のからだの一生をコントロールするのです。すごいと思いました。

この微細な采配は、心の在り方、自分の扱い方、つまり自分への心のエネルギーの向け方でまったく違うものになると、私は仮設を立て検証し、ほとんど納得に至っております。

また、自分が自分の思うようにならない、という体験は、子供の頃の些細にみえる兆候(例えば、宿題を後回しにしてしまう、毎日こつこつ予習復習ができない、忘れ物をしてしまう、テストでケアレスミスを必ずする、マラソン大会などが非常にプレッシャーである、ノートを最後まで使いきれない、-途中で飽きてしまって-)から始まり、思春期の体重のコントロール不能からはあっという間に不眠、便秘、摂食障害、鬱へとつながりました。

これらは自分への不信感、無価値観、自分自身との関係の溝の最初の兆候だったように思います。この後大人になるとこれらが仕事や自己表現、ひいては経済面、人間関係、恋愛、家族関係など生活と人生そのものへと大きく波紋を広げるようになりました。

これらは成長の過程で誰もが超えるハードルです。人によっては躓きもなく何気なく乗り越えていけるテーマかもしれません。ですが私の場合、どれもが気になり神経質さが増し、傷つきがひどくなり、愛を見失い、人生そのものへの絶望へとつながりました。

そこから回復する際、インナーチャイルドの状態が、すべての人生に非常に重大に関わっていることもわかりました。

世界を愛すること、他者を慈しむこと、自分を愛することは同じです。どこから始めてもいいのかもしれません。しかし、どれか一つだけ、あるいはどれかができないでいる間は、本当はどれもできていないのと同じなのだろうと私は思います。どれかが気になったときには全体を見直してみることが、人生を豊かに生きる一番の近道と言えるでしょう。

欠けていることへの気づきは、より全体性へと統合されるチャンスを与えられていること。それが魂の導きであり、自身の真実の道なのだと感じています。豊かさへの道は、得ることではなく、不全性をみつけ、思い込みを手放すことによって必ず開けます。どんなときでも。