健康のもと。


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みなさんこんにちは。

先日のことです。「メンタルの問題の原因は食べ物ですか?」と聞かれて、一瞬考えました。食べ物は確かに心にも大きな影響力を持っています。何につけ、生きることへの不調和を感じるのは身体になにかしらの異変や不具合を感じる時だと思います。人間の幸福と健康に多大な貢献をした偉大なチャネラーであるエドガー・ケイシーは「人間のからだは食べ物と日々の思いでできている」と言いました。そして「食べ物には2種類しかない。身体にエネルギーを与えるものと、毒するもののどちらかだ」とも言っています。これには深く共感します。口に入れる時、これがそのどちらなのだろうと意識し選ぶことはとても大切だと思います。

しかし、人間は肉体であると同時に意識という存在でもあります。エネルギーというレベルで言うならまず意識という微細なエネルギーがあり、それが結晶化したのが肉体である、というイメージです。まず意識のエネルギーありきです。冒頭の質問に私は「おもに、家族関係」と答えました。もっと明確に言うなら、あらゆる不調和の本当の原因はどんなレベルであれ、どんなシチュエーションであれ「愛の欠如」だけです。

口に入れるもの、食べ物にあまりに意識を向けすぎると、私たちは自分を「肉体という存在だ」というふうにみなしていがちになるかもしれません。身体の健康は本当にありがたいものですがそれ自体が贈り物とも言えます。その贈り物に対して世話をするのは大事なことです。世の中には食べ物にむとんちゃくな人も恐らくたくさんいるので、それが健康状態や心の状態に深く関係していることに気づき選択することはとても重要です。

しかしもっと言えば、私たちは栄養素によって生かされているのではなく、食べ物の生命力をいただいています。自然界の中にいる乳酸菌や麹菌や枯草菌などの菌類、また、細胞の中のミトコンドリアのような微細な生物は意志を持つかのように連携しながら働いています。彼らの生命力は私たちの生命力でもあります。その自然界のバランスが崩れることで私たちは当然バランスを崩します。

私が学校で習った頃の栄養学では、食べ物はその栄養素に価値があるというものでした。それは多分今でも基本変わっていないのでしょう。しかし私自身自分の体調や心の状態などを探求してきて思うのは、人間はやはりそれ以上のものから影響を受け、与えられ受け取ることのできる生き物なのだということです。

私は自分がとても身体が弱いと感じて生きてきました。実際に母親から、あんたたちはなんて弱いんだろうと言われて育ちました。そして幼い頃同居していた健康おたくの祖母が試したあらゆる健康法、健康食などを享受されました。食材も、当時は生活クラブに入っていて、選ばれたものをいただいていました。そして調子を崩して病院で検査してもどこと言って決定的なことは出てきません。それは今も変わりません。いったい自分のからだはどうなっているんだろう。どうしてこうもスタミナが続かずガッツがないんだろう、些細なことでダメージを受け、ひきずりやすいんだろう、と、いつも感じていました。自分が怠け者でずるい人間のように思えることもありました。

しかし、理屈でいくら理解しても分析しても、或いは栄養学的な健康法を試してみても、自分の生命力のパワーは一向に上昇しないどころか、大人になるにつれ制限が増え、とうとう20代の酷い時には、近所のスーパーに買い物に行って戻るだけで力尽きてしまうほどまで弱ってしまいました。そのような自分に抵抗し、努力をしてみてもできる限りの手を尽くしたつもりでも改善しませんでした。そうしていると、自分は自分自身や自分の人生に対してなかなか自信が持てませんでした。自分がとても危うくまたこの世界から歓迎されざる存在だというような―そうはっきり認識しなくても―感触を人生に持たざるを得ませんでした。

結局のところそのターニングポイントは、「意識の仕組み」に出会った所で初めて訪れました。肉体や状況、環境や人間関係、社会性や能力の問題、それらのすべてに影響を与えていたのは、『潜在意識』でした。潜在意識への取り組みを始めたことでようやく負の折れ線グラフに変化が訪れたのです。

私はよく母親から「うちの子達は、どんなに良い物を与えても効果が出ない」と言われていました。振り返るとその通りだと思います。何を食べても飲んでも、心の中に毒がたまっていればいい影響が現れません。心の毒というのは「悪」」という意味ではありません。それは、愛の光が行き渡らない部分に積もっていく「恐れ」なのです。

その恐れは過去世からの想念も含め、潜在意識にブロックを作っていきます。ブロックされたところには、神の光である生命力や治癒力や愛情のような魂の滋養が流れこまなくなっていきます。身体に良い物を摂っても、健康法や治療法を試しても結果に繋がらないのはこういった意識のエネルギーにブロックがあるためだと私は理解しています。意識のエネルギーはとても強力なのです。何しろすべてを創っているおおもとです。

食べ物や健康法の良い影響は、意識の浄化が進むにつれて徐々に効果が現れるようになりました。内面が浄化されるとそれに伴い波長の会う人や食べ物、健康法や治療法などを引き寄せるようになり、その内容が自然に移行していくことにも抵抗を感じなくて済むようになりました。ものごとは絶対的ではなく相対的です。

幼少期、愛を与えてくれ愛とはなにかを体感として教えてくれるのが、親という存在です。親が自分自身の中にこの毒を抱えていれば当然、子供に与えることに何かしらの制限ができます。しかしこの毒は人間誰もが持っているものですので完璧にクリーンな人など存在していないと言えるでしょう。また、このように言うと、与える側の問題が取りざたされてしまいますが、本当に重要なのはいつでも受け取る側の問題なのです。

子供は誰もが、まずは親から愛を受け取ることが仕事です。ですが与えられたものをすべてじょうずに受け取れるはずがありません。しかしながら愛からも、愛の欠如からも人間は成長します。そのレッスンのすべてが、人間に与えたれた人間らしく生きることへのテーマであり贈り物です。

学ぶとは、賢くなるためでなく、愛という面においてより崇高な存在へとなっていくためです。霊的成長というのがそれであり、人間が霊的(スピリチュアル)な存在であるということの意味です。

私腹、至福考

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沖縄南部は強風域に突入しました。とたんに空は嵐もようとなりました。

私たち人間は、個々の魂のカルマを乗り越え消化していくとだんだんと内なる光の存在が感じられるようになります。自らの光を遮るような在り方から、共にある在り方になることは幸せです。不調だったところにことごとくエネルギーが流れて調和し、周辺の景色は変わります。自身の内なる光の放射によって、そう見えるようになるのです。特に家族というカルマ的な繋がりの強い関係に光が流れる体験は、神からご褒美をいただいているような幸せを味わうことができます。

そこで私たちは、ただそれを味わい感謝を体験するだけでいいのですが、出てくるのはその感覚に対する執着です。この状態を維持したい、という欲求と、また失って元に戻ってしまったらいやだな、という恐れが顔を出します。古い課題はクリアしてきたわけですが、新たなステージに上がるとそこにはまた新たな課題が顔を出すわけです。

その葛藤はエネルギーを膠着させて、私たちを肉体感覚の意識のほうへ引き戻そうとします。それによって私たちはまんまと、なりたくなかった状態、つまり元に戻っちゃった感覚を体験します。けれどもそれは本当は戻っちゃったわけではなく、新しい状態に慣れるための新たな練習課題と言えます。私たちの肉体意識はこんなに調子のいい、或いは平安な状態に慣れていないので、幸せすぎてこわい、というふうに心が感知するわけです。そして肉体は再び警戒警報を発令します。そこには本当は敵はいません。心から古いパータンから抜けきれていないだけです。

心と身体が新しい自己(意識)に慣れるためには時間と体験が必要になります。この神の計らいは実に見事です。神はここで、緩やかな時空を私たちに与えます。心や肉体感覚で対処しない環境を与えてくれるのです。急がない、思考で組み立てない、できる限り自己の中心にいる時間を増やし、起こった最低限のことに、この状態のまま対処していく、というのがここでのレッスンになります。

いったいこのあとどうなるんだろう、どこまでこのようなことが続くんだろう、と、多くの人が考えると思いますが、この頃には古いカルマや自己意識の枠を外した体験があるので、本質の流れ、つまり魂の導きを信頼してついていくことにも多くの人は馴染んできています。ですからその流れに従っていくことは、小刻みにつまづくことは起こっても(実際何度もつまづくことでしょう)恐れをなして後へ引き下がることはもうないでしょう。以前より今のほうがずっといい、ということを知っているからです。

私たちは至近距離に迫っていた個の課題、家族の課題に恩赦を与えられ、神の優しい導きを体験し、もうひとりではなく、その大いなるものとともに歩む人生のことがわかってきます。同時に、以前の視点から見ていた、或いは想定していたことと事実とは随分違うな、と、多くの人が気づきます。過去の視点から覗く未来は一直線上に延長線を引いていく世界ですが、実際は、自分はどこにも移動していないし移動する必要もなかった、ただ、見通す感覚が変わり、見え方が変わり、感触が変わり、佇まいがかわり、捉え方が変わった。つまり自分が変わっただけなのだということがわかります。ですが、このことは同時に世界を変えたことになるのです。

新しい世界では私は何よりも、自分のことばかり考えなくなります。私って、私って、という心の声はすっかりきかれなくなります。これはどういうことかというと、私が私自身にうんとフィットしている感じです。本質と個がフィットして、一体感があるので、私って、という分離感がなくなっていくのです。私に対する意識は高まり、私を尊いものとして扱えるようになり、愛するようになります。自己意識が設けた枠がはずされ、よりあるがままでいることが可能になるのです。自由で、楽で、平安、という表現が合っているかもしれません。

古い視野では、解放された自分は望むような自分になることを達成している、というイメージかもしれません。しかしそのイメージは小さな枠の中にいる自分が今の不満を晴らすための願望が込められていますので、達成自体も人生においてはあまり意味のあるものではないと言えます。(小さな自己が)望む自分になるのではなく、本当の(真の)自分(我)になるのです。本当の自分がもしつまらなく退屈だったらどうしよう、そうではなく、私は私よりもっと素敵なものになりたい、と枠の中の小さな私は思います。その事自体が、自分をわかっていない証拠です。枠の中に入っているので本当の自分なんてまったく見えていないというわけなのです。ですから、その枠をはずして、想像もできなかったような本当の素晴らしい自分に出会えばいいのではないでしょうか。

その方法というのが瞑想です。そこで多くの人が、おっと、その瞑想とやらを習得しないと本当の自分にすらなれないというのか、いんちき臭い、と思うでしょう(小さい枠の中の私は以前そのように言いました)。もっと自然に生きてこそ、あるがままに近づくんじゃないの、と。でも、ただこの日常を一生懸命生きるだけで、自然に生きることにはならないのです。私たちがそもそも、幻想という煙にまかれて生きているのだという前提を私たちは知りません。生まれ落ちた瞬間からそうだから気づきません。これが、あの映画のマトリックスのからくりです。そこから出るにはわずかな違和感をスルーしないで嗅ぎとって、嘘を拒まなくてはなりません。嘘を拒むには、真実に慣れることが一番です。瞑想は私たちのうちにある真実に意図的に意識を向け、そこにいることです。ヨガナンダさんふうに言えば、内なる神に、愛を捧げに行くことです。その神をみつけることが人生の目的だとヨガナンダジはおっしゃいます。

彼はみつける、とおっしゃっていますが、実際はただみつけるだけではなく神とできる限り片時も離れずに一緒にいること、そのための技法がヨガだと師はおっしゃいます。

ところで、個のカルマをすっかり解放してしまうと、そこには空のスペースが生まれます。それで小さい枠の中にいる人はその自由を使って好き三昧に生きたい、などと願望するものです。ですが、実際に空になると、見通す世界は無限に広がり、世界中のカルマが透けて見えるようになるそうです。そして、導くことはもちろんですが、そのカルマを自身に引き受けることができるようになると。つまりカルマを解脱した人は私腹を肥やして贅沢をすることができるようになるわけでも、仕事でスペシャルに成功し、願望達成を自己実現だなとと言うこともなく、(それもカルマ。いいカルマと言われますが人生の目的ではありません)そういう外面的なことには影響を受けなくなり、世界中の人々のカルマを引き受けてあげられるようになる、ということです。ですから、成功しているふうなことをことさらに目標にする人や、それを幸せだと言って売り物にするような人の言うことには私は用心します。至福な人は神と一緒に仕事をし、生活をし、周囲を幸せにする人だと私は思っています。