インナーチャイルド、愛を探す旅

「しかし精神を清めるということは、精神に関係のあることであって肉体に関係のあるものではない。主が与えたもうたように我々を汚すものは口から入ってくるものではなく、口から出ていく言葉であるのだ。人を汚すものはその人の想いと行為である。なぜなら万物はそれ自体純粋であり、肉体と心と魂から成る人間を養うものであるからだ。」‪

最近ものすごく久しぶりにエドガーケイシーの本を読んでいる。上はその引用です。

エドガーケイシーのリーディングは驚異に値すると私は思う。エネルギーを読むというレベルとは違っていて、高次元から個人のからだに必要な治療法をメッセージとして降ろしている。それが意識の法則、真理に基づいていてそれこそが本分となっている。この情報源はまさに天使だと感じる。

それだけ肉体に対するお世話を細やかにしながら、上のようなことをおっしゃる。
私の心を打つのはそういうところだ。
 
インナーチャイルドのワークでは最初にカウンセリングをさせていただくのだが、明らかに幼少期にトラウマがあると自覚している人はそれほど多くはない。とにかく何かあるのだろうけれど、家族の中には別段大きな問題もなく、お父さんは旅行にも連れて行ってくれたしお母さんとも普通です、という方も多い。ではご両親の関係は?と伺う。これも普通だったと思います、という場合も多い。

トラウマ、というと印象としてはお父さんは酒乱、家の中に暴力があって、家の中に秘密がある、というような不幸なイメージがある。しかし、私たちのひととなりに生涯影響を与え続ける子供の心に刻まれた何らかの亀裂は、肉体への脅威以上に言葉と態度から与えられることがほとんどだ。

暴力は暴力的で破壊的な想いに裏打ちされたときにエーテルに深い傷を残す。まさに、人を汚すのは想いと行為であり、口から出たもの、なのだ。

さらには明らかに異物であるとわからない亀裂は治癒の機会を得ることなく見逃される。例えば愛情の裏にセットになった親の、言葉は悪いがよかれという無意識の押し付けなどは生涯その人の義務感や責任感に転嫁され罪悪感のなかに生き続ける。

感受性が強い良い子は引き摺りやすい。親から言われたことをよく聞き、それに応えようとする。その応えようとする姿勢が生涯続いている。それが自分であり自分の価値になってしまう。気がつくと自分がない気がする。自分を取り戻そうとするが、自分とはなんなのかわからない。自己主張や欲求こそが自分なのだろうか、確かにそれが自分にはない気がする。ではそれを身につければいいのだろうか。これが自分探しの正体であることが多い気がする。

自分探しは本当は、愛探しだ。人間の探求は神の探求と同じだ。

私たち人は、お母さんから与えられた愛を基盤に愛を体験し続ける。それがあまり好ましくなかったとき、基準がわからなくなる。愛し方がわからなくなるのだ。もちろん受け取り方もわからない。

自己主張と欲求をそのまま、愛に置き換えるといい。愛の主張と愛の欲求というふうに。そうすると、なにを探していいかがわかりやすい。

お母さんの愛としっくりいかなかった人は幸いだ。その人はもっと偉大な愛を探す旅をすぐに始められる。

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天のおつかい

幼少期のトラウマというのは根深い。しかし私はトラウマも人生の地図の一部だと思う。その地図を駆使して、幸せに向かって歩むことができればその地図は立派な役割を果たしたと言える。

しかし『インナーチャイルド』や『毒になる親』の影響は時に人生を破滅的に叩きのめす。

最近では多くの人が自分になにかしら躓きを感じたとき、そういった情報を紐解くのが普通になっている。しかし情報を入れることとワークすることはまったく違う次元のことだ。

私は20代の中ごろに人生最大の絶望を体験したのだけれど、それは何か失敗したとか失ってということではなくて、うまくいかない理由や、自分の中身を知って、すべてに絶望してしまった。こんなふうになっているにはすべて理由があったことが子細にわかり、なおかつそれをやり直したり立て直すすべはとほうもなく膨大な仕事に思え、ただすべては手遅れに思えた。つまり、土台に腐敗を見つけてしまったのだ。なにしろ自分は疲れ果てていた。あと少し、あと少しがんばればなんとかなる、という希望が全部消えてしまったのだ。

その絶望のさなかで自分へのなけなしの誕生日プレゼントとして本屋で手にしたのがエドガーケイシーの本だった。

今思えば、本当にこの世に助けがなくなったとき、天の使いは導きたもうたということなのだろう。あの時の導きは何度も書いているけれど普通ではなかった。まっすぐに本屋に入ってそのままその一冊に手を伸ばして手に取り、そのままレジに出す、という、まるで催眠術にでもかかったかのような動きだった。しかしそのときの感覚を今も鮮明に覚えている。行動自体は不思議だけれど感覚は本当に普通で当然、という感じだった。

ヒプノセラピーもちょうどそんな感じだ。言っていることはすごいけど、内面に派手な感覚はない。だから多くの人が拍子抜けする。

聖者が覚醒するときもきっとそんな感じだろうなと今では思う。私も今では、瞑想とかセッションとかで、時空を超えて超越的にわかるものがある。でもそのときも、ただ、ああそうなんだ、と思うだけで、それが啓示だ!というような感覚はない。ものすごくわかりきっていることをああそうだよなーと納得する感じに似ている。

(敬愛するヨガナンダ先生もグルであるユクテスワ先生に「私はまだ神がみつかりません!」と泣きついたら「お前はもうみつけているではないか」と言われたとあります。それで初めて、これでよかったのか、と納得されたようなのです。私はその感覚にすごく共感を覚えます。)

インナーチャイルドの理論を理論として読むことはとても勉強になる。しかし苦しみのさなかにある人がこれを冷静に自分に適用できるのかと思うととても疑問を感じる。私は、傷ついている人ほど不可能だと思う。

チャイルドの傷の一番深いところにある原因は「愛せなかったという思い」にあると私は思う。それほどに、私たちは本来愛だから。だから、親から傷つけられたこと、愛されなかったという思いを癒し始めることは本来に戻るスタートラインに立つことに過ぎない。

その人が、自分は存分に愛することができる存在だという実体験を人生に実感できたとき、初めてその地図は宝の地図になる。それは人生を生きることでしかなしえないことだ。

ワークは土台を一瞬で立て直す秘法だ。天の使いなのだ。

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