負の体験がもたらすもの

セッションをしていて「私は幼少期にそんな(良い)体験がないから」或いは「良い記憶が全然ない」ということをよく伺います。インナーチャイルドのワークを独学で学ばれた方はこの点に行き当たったとき壁を感じてしまうのではないでしょうか。

確かに幼少期に満たされる体験、成功体験、つまり肯定的な体験が多ければそれは人生を進むとき大いに助けてくれるでしょう。自分が愛されていると実感できる人は、誰かに愛されることに抵抗がありません。しかし、子どものころになんでも受け入れてもらえたからと言ってそれを愛だと受け取っているとも限りません。

また、ヒプノセラピーのセッションで驚かされることのひとつに、事前に伺っていたご本人の見解とはまったく違った事実が発覚するのはよくあることです。「あれ?いい思い出なんて何もないと思っていたのに」「愛されたことなんてないと思っていたのに」という結果になるのはとても自然なことです。

ですからいつもつい書いてしまうのですが、自分でワークすると自分の観念(思い込み)を覆すのは難しいものだと思うのです。逆にそれを強化してしまってそこから抜け出せなくなっている方も多いと感じています。

稀にですが、本当に救いの少ない幼少期を送られてきた方もいらっしゃいます。またいくつかの不幸な出来事によって本当に深い傷を負っている方ももちろんいます。あまりに傷が深いとき、自分で治ろうとするちからが弱まってしまうことがあります。ダメージのほうに意識が飲み込まれてしまっていて、その場合は回復にとても丁寧なプロセスを踏むことが重要になります。それは一進一退に見える根気と忍耐力と寛容さを求められる作業です。そんな時に絶対に必要なのは、無限の愛のちからです。つまりハイヤーセルフ、魂、内なる神の存在なしには癒せません。

さて、本当に愛情やそれに似た安心や解放、自由という感覚の幼少体験が極度に少ない人、潜在意識の基礎を築く13才以前に非常に偏っていると言わざるを得ない環境に身を置いた人には将来にわたって人生に困難が付きまとい、満足のいく生き方を選ぶことができないのでしょうか。

映画などにはよく、劣悪な環境から精神のちからで立ち直り美しい人生を創造した人の物語があります。それくらい、幼少期の環境によって受けた影響から自由になり新たな世界で生きることは難しいということなのでしょう。

しかし、私たちが今世の肉体の体験以上に多大に受け取る影響力があります。ひとつは自分の魂が過去に肉体を持った時の体験の記憶の数々であり、更にそれよりも深く私たちの意識の中心的な座に位置する、魂の記憶です。

前世の記憶って魂と違うんですか?と訊かれることは多いのですが、人間の肉体の記憶は潜在意識に、そしてその中でもエッセンスとも言える愛の記憶は魂に記憶されると考えられ、魂は超意識と言われる領域を指します。もちろん今世でも、魂はあらゆる体験のなかから愛のエッセンスを記録し続けています。たとえ今生で愛を知らないと表層では思っていても、実際はその記憶を内側に持っています。

私たちが感覚や思考で知っていることはわずかです。無意識の領域には私たちを罠にはめるような理不尽な自我はもちろんのこと、生きるために必要なあらゆる叡智が込められています。その両者があることを知れば後者を選ぶことはうんと容易になります。

自我は肉体の感覚器官に結びついており(潜在意識の領域)、私たちは感覚を鎮めないことには内側の叡智(魂や内なる神の領域)とのつながりを感じることはできません。瞑想はそのための手段です。

多くの人が自分を高めなければ内なる神とつながれないと信じているかもしれませんが、どちらかと言えば内なる神とつながれば自分が高まる、というほうが真実に近い気がします。善きものとつながるために、自我を黙らせる練習を積むのです。

とてもきついトラウマと救いの少ない環境で育った過去を持たれてる方と心から共感できた言葉をここに記しておきます。

「痛めつけられた過去を持つ人の特効薬は真理しかないのよ」

深くつけられた傷はどんなに補おうとしても痕跡を残す。その痕跡は私たちをより恐れやすく感じやすくより傷つきやすい在り方へ押しやる。その悪夢から私たちを目覚めさせるのは真理という真の現実だけだ。傷ついた人たちは愛の不在の傷の執念深さをよく知っている。それは愛以外のものによって補われることは決してない。

完全なる愛だけがその傷を完全なものに変える。

インナーチャイルドの真実

この世に生まれた赤ちゃんの最初の世界。
父と母という神の原型が、家庭という世界を築いていて、まずは自分の居場所と安全を確認する。

赤ちゃんによっては先にもう少し大きい住人がいることもある。
もっとたくさんいることもある。
沖縄へ来て驚いたのは、何人ものおとな(たとえば親戚のおじさんおばさん)が同じ王国に暮らしていたケースなどが意外と多いこと。

でも、大国の創造者であり自分のいのちを直接養う神はお母さん、そしてお父さんだ。

自分の居場所、それは「神々に歓迎されているかどうか」そして安全は「神々が友好的に平和を保っているかどうか」だ。
「歓迎されているかどうか」は「自分は愛されているかどうか」そして「友好的に平和かどうか」は「お父さんとお母さんは愛し合っているかどうか」と言い換えることができる。

赤ちゃんにとっての愛情確認は死活問題だ。

潜在意識(インナーチャイルド)の成り立ちと仕組み、作用の説明をこれまで何度繰り返してきただろう。何度も何度も繰り返し理解を求めているうちに自分の内側から真実がぽつぽつと浮かび上がってくるようになった。こういうのを降りてくるというのだろうけれど、降りてくるというような突発的で不安定な感覚ではない。

たとえばやかんのなかでいったんお湯が沸いたらそのあとは定期的にぼこぼこと水蒸気の泡が上がってくる。この泡を捉えるのだ。水である時の水蒸気は目に見えない。たとえ見えなくても空気中にそれは気体として上がってはいる。この水蒸気を見ようとするのがよくあるスピリチュアル風なやつで、見える人には見えるし見えない人にとってそれはオカルト的だ。

しかし瞑想を継続的に行って自己意識の浄化(既成概念の見直し)をして自分の波動を上げていくと水温が上がり、沸点がくる。そこから水蒸気を捉えるのは普通のことになる。見えるし聞こえるし、普通に実態があるのだ。

話を戻す。
前回の記事にも人間は弱いとかサバイバルに不利だと書いた。確かに知性はずば抜けているが、愛が伴わないと自滅すると。思いやりという裏打ちがない文明は、いづれ他者を倒すとか勝つとか、そんなことのために用いられるだろう。それが生き物の第一の本能だからだ。オオカミやライオンは自分の足と牙で適う相手を探すけれど、人間の知性はもっと多くに優る。知性の発達と愛の深化は、生き物としての人間にとっても不可分なのだろうと思う。

人間の潜在意識が3才くらいまでに最大の発達期を迎え、その後の変化はとても緩やか。13才ほどでその発達は収束してしまうとされる。私が面白いと思うのは、その発達期に人間という生き物が、肉体的には文字通りお母さんにおんぶにだっこだということだ。知性、意識ばかりが発達して肉体のほうは自立しない。そのアンバランスは人間という生体にとってそれが必要で重要だからなのだろうと思った。

人間の特質は圧倒的に知性だ。それと不可分なのが、情緒と言われるもの、感情、共感、そして愛なのだと思う。それなしに人間は生き残れない。知性は自立できない。破壊力はいつか自己を含む同種に向かい自滅するはずだ。賢者が長いこと警告し続けてきたのは寓話的な発想ではなく、人間の仕組み、原理そのものから解析した真実なのだと強く思う。 

人間は3才までに、お母さんにつきっきりの愛情を求める。目を離さないで、ずっと見ていてほしい。これはすべてのインナーチャイルドの根源的な欲求だと思う。そこには身の安全を図る「本能」と、愛情を求める「情緒」が入り混じっている。これが人間という生き物の原点なのだ。

心の問題と言われているものは、すべて愛情の不足だなどと言われる。その言葉を聞いて憤慨する人もいる。愛情不足をお母さんの努力不足、能力不足と混同すべきではない。愛というのは数字のように過不足を測れないものだ。だから私たちはそれについて一生かけて、いや、数千の輪廻を超えて学んでいるのだ。

愛はそもそも誰にも不足している。それがインナーチャイルドを探求してきた私の感想だ。完全な愛を知るまでそれは続く。完全な愛を神と呼ぶことができる。私たちの魂はそのための旅をしている。しかし新しく生まれてきた肉体のほうは知る由もない。そこでボタンの掛け違いが起こる。魂の求める愛を、肉体のほうはお母さんに求めるのだ。完全な愛を。

魂を主体に世界を観ると、インナーチャイルドの抱える欠損こそが、人間が魂の任務を遂行するための仕掛けなのではと思う。お母さんの愛が至上であったらその人はそれを超えることを求めるだろうか。自分が渇望するものを、人にも与えようと努力するだろうか。

いづれにしても、インナーチャイルドの問題を扱うとき、魂つまり超意識以上の観点を持たない限り、必ず限界の壁に当たる。それが私の得た真実だ。潜在意識を補修すれば「人並み(か、それ以上)の生活できる」という世界観から抜け出せない。前回書いた通り、暗雲が晴れる快感のために不幸を体験するというループ以上の喜びが見えない。

そうなると、欠損を作り出したのはお母さんの過失であり、それを赦すには我慢するしかない。欠損を抱えながらこの世を生きるのは不利であり、自分が過失を起こさないためには「子供にしてはいけないことリスト」を遂行することが子育てに必須になる。自分への愛などあとまわしだ。

この分野はまだまだ発展中だ。暗雲を一度すり抜けたことでセラピーばんざい、という気分になりセラピストを目指し実際行っている人も多いと思う。その中にもちろん真実はある。ただ、それで全部だと思わないでほしい。

自分の人生には多くの体験が与えられた。そこから得たものを伝えることは一つの使命だと思う。しかし体験から本当に大事なことを言葉やかたちで伝えるという作業は本当に骨が折れるものだ。私は伝えきれない多くを意識の海に記録していく。誰かが瞑想によってそれをすくいだして活用してくれるだろう。私が与えてもらったように。

セラピーのゴール

みなさんはなぜ、自分の内面と向き合おうとなさいますか?

きっかけは多分、外面の世界との関係(対家族、対社会、恋愛その他の人間関係)、自分自身との関係(自己認識、自己コントロール)に問題が生じたことだと思います。私が辿り着いた自分を幸せにする原則は、他者を変えたければ自分が変わる(生長する)こと。そして幸せになりたかったら、愛を実行することです。

いろいろ考えているとごちゃごちゃしてきますが、混乱したらいつも原則に戻ることにしています。自分がすっきりすれば世界はすっきりします。いろいろな社会現象が目に見えて変わるわけではありませんが、社会を組成している一部である私の意識は紛れもなく全体の一部であり全体に影響を与えます。この原則に慣れると、自分の進化が見えれば周囲がすぐに変わらなくても必要以上に気にならないものです。ですから逆に、周囲が気になって落ち着かない時は自分の前進が滞っているか自分を見失っている時だとわかります。

すべての関係性の問題は愛の法則によって解決できます。もしすぐに解決しないものがあるのであれば、愛のほかに必要なのは時間と経験です。しかし愛なしに時間と経験を重ねても解決に向かうとは限りません。

すべての関係性を愛の法則によって解決することは、私たちを本質的に生長させます。霊的成長と言われるものはこのことを指しています。

私たちは幸せの実態をよく知らないまま人間として生きていますが、幸せとは何だろうと探求しそれを生きようとすることは、私たちを本質的に生長させ、ひいては人間はなんのために生きるのかという問いに自ら応えることになります。それ以外の目標はいつも危険と隣り合わせです。得れば失い、また失うかもしれないという恐れと抱き合わせです。幸せから逸れないことだけが私たちを奪うことも失うこともなく共生させてくれます。

幸せは感じるものであるし、愛もそうです。そしてそれ以外の領域では人間はとても弱い生き物です。賢さは愛なくしてはすぐに自滅してしまいます。それ以外の能力で人間はこの世に生き残ることすらできないでしょう。

私はインナーチャイルドの問題に長年取り組み、多くの方の問題に寄り添わせていただいてきました。

愛に関する問題の根っこはインナーチャイルドにあります。昔はその事実すらみつけるのにおおごとでした。今はネットという情報網があるので、その辺に見当をつけることがわりと容易です。

しかし、情報をもとに自分でワークするには結構なコツと原理の理解を要するのが事実だと思います。ひとつ間違うとワークは間違い探し、他者との違い探しとなり、それではなにかを理解したつもりでも実際は孤立し、癒したつもりでも実際は傷に目印をつけて目立たせたところにとどまります。

ワークの目的とはなんでしょう。癒しとは何でしょう。肉体であれば、傷や病理が治ればある程度元通りになります。しかし心というエネルギーは、本来正解というかたちがありません。雲のように常に変化するものです。雲自体が悪者なのではなく、ただ時と場合によってはひかりを遮って世界を暗闇に見せます。

私たちの心の正しい在り方とはなんでしょう。雲一つない晴天を維持し続けることでしょうか。雨が永遠に降らないように自分を作り変えることでしょうか。

ワークで暗雲が晴れ渡ったときのその喜びはすばらしいものです。人によっては、その喜びのために私たちはまた暗雲を作り出すのだ、などと言う人もいます。それが人生なのだと。

それは本当の目的地を見失った人が、なんとか生きることをやめないでいるための暇つぶしのようです。そんなことのために人間は生きるのでしょうか。人生には雨降りも必要だ。なぜなら…と自分を納得させてすべてを無理やりいいことだと信じ込むことが幸せでしょうか。

私はごめんです。

私は、私の人生の創造者です。私が生きることで、世界は気づきという輝きを常に放ちながら生長しています。すべての私という存在がその一員です。つまりあなたです。

意識は創造し続けます。あなたが思うことはすべて宇宙という鏡に映し出されます。その連続が変化です。私たちは被造物であると同時に創造主でもあるのです。それを体験し続けています。個としてそしてすべてとして。

私たちは取り引きなしの純粋な喜びを生きることが可能です。私たちのすべてに備わった愛という質のゆえに。

以下はあるお客様からいただいたご質問に対して私がお答えしたものを少し手直ししています。(Mさん、ご質問ありがとうございました。)みなさんにとてもお伝えしたい内容となりましたのでこちらへ掲載させていただきます。(プライバシーには配慮しておりますがお気づきのことがあればご連絡ください。対処いたします。)

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書くという作業は頭を使いますよね。

言葉はものごとを整理するにはとても役に立ちますし、言葉にして顕在化することで無意識に光りを当てる作用もあります。ただ「理由をみつけようとすること」は感情への癒しには直接つながりにくいものかと思います。

たとえば怒りは正当化されるととたんに増長します。世の中では正しい人ほど怒っています。そして怒りは正しいという考えから自己を抜け出せなくさせます。

許さない気持ちというのはどこからくるのでしょう。
それは忘れてはいけない、という気持ちです。
忘れてはいけない気持ちはどこからかと言えば、覚えておかなければまた繰り返してしまう、という防御からきます。
それが役割です。

インナーチャイルドとはなんでしょうか。
それは、過去の体験データです。
すでに終わったことのリストです。

インナーチャイルドがなにか問題を起こすとしたら、理由は一つしかありません。それは、すでに終わったことを終わっていないと勘違いしてしまうことです。つまり脳と肉体が、今問題が起こっていると感知し作用してしまうことです。これはチャイルドと見立てて例えれば情緒的な反応に見えますが、実際は肉体がロボットのように機械的に反応しているだけと言えます。実際、脳と肉体のシステムがそうなっています。

癒しとは、現実に戻ってくることです。今のありのままの真実に戻ることです。今起こっていることと、起こっていないことを明らかにに認識することです。しかしそれは時にとても厳しいことです。ですから癒しは神に寄り添ってもらう必要があります。愛が必要なのです。

失敗という言葉で表現するのであれば、過去に失敗があったことになんの問題もありません。問題は、今も失敗し続けている、と、脳と肉体が判断してしまうことです。「問題が起こり続けていまーす」と、警報が鳴り続けているのです。

もし本当に今現在問題が発生しているのであれば、現実に対処することができます。でも実際にはそれは起こっていないので対処できないのです。

そうすると心の中にはいつもなにかしらの落ち着かなさや不安感、もやっとしたしこりの感覚があり、いつも対処すべき問題を抱えているような状態になり、それゆえその仮想問題以外の、今すべきことの優先度は意識の中で低くなってしまいます。当然そこにエネルギーが注がれることはありません。大事な人生の創造にちからがいかないのです。警戒警報中にバカンスなどその気になれないのと同じです。

さてそこで、実際は起こっていない問題を解消するには、意識の中で問題を終わらせてあげるだけでいいということなのです。それがインナーチャイルドワークであり過去世ワークです。

人間の脳とからだは、実際に起こっていることと鮮明にイメージしたことの区別がつきません。それゆえに起こっている不具合は同じ原理によって解消してあげよう、というやり方です。

それには思考をお休みさせ、五感を駆使し、リラックスして、心をオープンにバーチャル体験したいのです。それがヒプノセラピーです。

私は自身の体験から、このやり方が人間の仕組み上最も優しく適切と感じました。終わったことを終わったと理解するには、そのようにか「感じる」ことが重要なのです。それが心身ともに納得し、腑に落ちた状態です。

そうなったとき、私たちは安心して前に進むことができます。不安や恐れや緊張や、自己の欠陥や間違いがなくなるのではなく、自然な生長という変化の軌道に戻ることができるのです。

変化の中の今に生きるとき、私たちは自然に過去を忘れます。手放すというのはそういう感じです。

過ちも成果もともに経験し、今がある、ただ、今があれば良し、となっていきます。

みなさんに申し上げるのですが、もしご自身の大事な友人が傷ついて動けずにいたらどうしますか?その精いっぱいの思いを友人に向けてほしいということです。そして友人のために神に祈ってください。その友人は過去の自分自身です。

なにかを訴えているのならその訴えを聞いてあげてください。しかしその言い分が真実ではなく、傷を負った状態で、痛みを抱えながらの過剰な訴えだということをいつも心に留めて、全部本気にはしないでほしいのです。ただ気の済むまで寄り添う姿勢が大事です。解決してあげるのでもなく、助言するのでもなく、見守って、気持ちに共感してほしいのです。あまりに傷ついた人が死にたいとか殺してやると言ったからといって全部本気にして手伝ったりしないのと同じです。それくらいの思いなのだと受け止めてあげることです。

その友人は自分であり、未来の愛する相手です。この世ではすべて、自分が自分に行ったことが自分に還ってきます。

過去もそうでしたがそのすべてを理解することはできませんし必要ありません。ある程度理解したら、今、(愛を)行い始めればいいのです。それが未来のあなたへ還ってきます。あなたがされたいように自分にしてあげてください。創造するのは常に今だけです。

自己肯定感、あります。

からだだけが自分じゃない。そう自覚している人はきっとたくさんいるだろう。心が大事。そう思っている人もきっとたくさんいる。

思うようにならない自分と格闘して葛藤して、潜在意識≒インナーチャイルドを探求している人も、今はたくさんいる。情報もたくさんある。

そしてこんなことも起こる。自分の過去に作った傷がたくさんみつかった。原因もわかった。一生懸命修復に取り組んでいるけどなかなか変われない。やっぱり自分には無理なんだろうか。がんばってもがんばっても追いつかない。

愛にあふれた人ほど、自分の内側の傷を見て、それに圧倒されてまた傷ついてしまう。思慮深い人ほど傷を負った自分自身にさらに問題を感じてしまう。

私自身、おとなになってみて何一つ思うようにならなくて自分を振り返り始めて数年、いや10年、いやもっとそれ以上長く、そんな思いの中にいた。

掘り起こせば起こすほど、自分の未熟さ至らなさに直面して自分を責めてしまう。そんな中で情報に照らして自分を分析し評価するとしたら「自己肯定感(自己評価)が低い」んです!みなさんそうおっしゃる。そしてその低さを作った原因がわかれば、それを修復できれば、誰かを許せれば、変われるかもしれない、そんなふうに感じている。

私も本当に長い時間かけてその答えを探しさ迷ってきた。私のその体験と時間をできたらみなさんに捧げたい。もし受け取ってもらえるならば。私の経験が、あなたの時間を短縮すること、そしてあなたがさらにその先を体験すること、それが魂の仲間の共通の目的だ。

身体だけじゃない、外側じゃない、中身が大事。中身が本当の自分だというところまで真実を突き止めたみなさんは、潜在意識こそが自分の真実だと思ってるかもしれない。或いは潜在意識こそが自分の宝もの、或いは自分の真の導き手、或いは神さまのような存在だと捉えているかもしれない。でもそれは、違う。

潜在意識は体験の記録の集大成のこと。からだという特定の反応をする方程式がつまった箱に何かを放り込んで出てきたもの、それをしまっておく場所のこと。いわば肉体のデータバンクだ。

データをいじって修正する権限を持つのはそれ以上の知能を持ったものに限られる。データがデータを改善することはできない。或いはデータの箱がデータを改善することはできない。権限を持つのはあなた。それを教え導くのが魂、ハイヤーセルフ、そしてその中核である全き神である。

私たちはこのデータをまとっている。このまとったものを自分自身と勘違いしている。傷だらけでみすぼらしい、くたびれたその姿に更に傷つき、それでも立ち上がって今度は修繕を始めようとしている。これは一人ではとても無理だと悟ったから手伝ってほしいと私に申し出てくれる。

いろいろなヒーラーやセラピスト、カウンセラーがいて、あなたを手伝うと言う。すごく長い時間をかけてその修繕を一緒にやったり(やってもいい。でもそれは目的ではない)、もっといいハウツーがありまっせ、と提案したりしている。どうです、私、立派でしょ、きれいでしょ、あなたもこんなふうになれますよ。それが宣伝文句。

でも私に言えるのは「それ、ただの服なんですよ」ということ。潜在意識、インナーチャイルド、あなたが自分あるいは自分の本質だと思っているそれは、データが編み込まれた、服なんですよ。

最近のセッションでのこと。その人の魂の光、愛の炎があまりに燃え盛っていて、その愛の炎でその人のまとったぼろぼろの服は既にほとんど燃え尽きているかに見えた。魂そのものが光を放ち、自らがまとっていたかりそめの古い衣が燃え堕ちようとしているさなかにまだ、その服をなんとか修繕しなければと真摯に訴えていた。あまりにまっすぐにそこに居てくださったから、私もまっすぐに伝えることができた。

「その古い服、脱いでください」

その方はしばらく目を見開いて、というか肉体の目をぎゅっと閉じて、心の眼を見開いてじっとしておられ、それからまっすぐにこちらを見て「そうか。そう観たことはなかった。確かにそうだ。魂はきれいなんだ。きれいなものなんだ。それが自分の心なんだ。」

その方は一瞬で悟られた。自分は魂なのだと。心の核は魂で、汚れた心と感じていたのは多くの体験を吸収し、くたびれた衣服だったと。服がどんなにズタボロでも、魂はそれに影響すらされることなく美しいままなのだと。私はその方のまとった焼け堕ちる寸前のその衣がばらばらと灰になり崩れ落ちるのを見た。そんな見事な再生に出会えたことが奇跡だと感じる。

しかしだったらなぜ潜在意識の探求などするのだろう。

それは、その衣の命を全うさせるためだと認識している。学びを完了させるとも言い換えられるが語弊もある。それは理屈や知識で得るものではない。感情の燃え残しに聖なる火を点火し燃焼させることだ。

人間は、五感を通して受け取った情報を感覚として感知し、そこから化学反応で感情の波を起こす。生長の道すがら、情報は確かに受け取ったけれど湧いてきた感覚や感情は感じ切らずに置いておいた。そんな体験が器に余る莫大なエネルギーを使わずに溜めている。鮮度が落ちたそれは、やがて器にこびりつき沈殿する。ものによっては腐敗する。

「感じ切ってください。」ヒプノセラピーでのあなたのミッションはこれにつきる。あとは、魂がやってくれる。

ごびりつきや沈殿物や腐敗物を燃焼したときあなたの内なる光は増し、その光があなたの内側と行く手を照らし始める。だからあなたは歩けばいい。光りの中で光とともに生きればいい。あなたのまま。一歩一歩。光りによって周囲は良く見え、自分の内にある光が周囲を照らす。それがあなたの価値だ。それに評価なんて必要だろうか。

そうやって光の器となって再生したあなたは、過去に着ていた服のことを思う。もし生まれてこのかたきれいな服ばかりを着ていたならどうだろう。あなたは違っていただろうか。

ボロボロの服からも、肌触りのいい服からも、そこに吸収された体験から抽出され中身(魂)にしみこんでいくのが愛であり、どちらの服もその愛を抽出し終えたときその任務を全うする。あなたはやがて手放す服を、あなたが学びやすいように選んできた。あなたの父、母、家族の設定、社会と国家、時代背景。

その服にありがとう、愛しているよ、さようなら、全うしたねと心から言える。それが自己肯定だ。そう言えるようあなたの気づきを促すのが潜在意識への取り組みでありそれはそのままあなたの魂、そして内なる神への回帰への道だ。

単にきれいな服を着ている他人を見て、あの人には自己肯定感があるとか幸せそうだと人は言う。でもその人の中身は本当に寄り添い向き合ってみないとわからないものだ。ボロボロであれきれいであれ、その服に執着している間の肯定や評価などまったくもって価値がないと今の私は思う。それは誤解であり錯覚なのだから。