ストーリーか、愛か、

波動が高い、波動が低い、

高いのは愛、神、高次元。では低いのは?それは3次元のすべて。

3次元は、時間と空間、そしてストーリーでできている。

ストーリーには始まりと中と終わりがあり、
原因と結果がある。

つまり、地上の物語のすべて。

それは悪いわけではない。
ただ、そこには平安がないだけ。真実がないだけ。
だから幸せもない。

そしてそこには
勝ち負けがあり、優劣があり、価値と無価値があり、順番があり、

過去があり、理由があって、今がある。
今は過去の集大成であり、未来はその延長上のいずれかにある。

今がこうである理由を過去の出来事にみつけ、
過去を裁き、未来に備える。

そこでの最善とは、今を分析し、過去の誤りを挙げ、
過去の反省とともに過ごすことに専念すること。
しかし誤りはまた起こる。
努力ほど報われず、恐れは膨らみ、時間はすり減っていく。

そこに愛や平安が存在できるのか?あると考えるには矛盾がありすぎる。
なのにヒトはその延長上に愛を求める。

ストーリーに愛を組み込み、それを証明したがる。
ストーリーは自分を縛り、他者をそこへ当てはめる。

ちっぽけな枠に愛を、神を、はめ込み、カテゴライズする。
神を矮小化することでヒトは守られず、恐れ苦しむ。

波動を上げるとは、

この、ストーリーのすべてを離脱することだ。
時間と空間を離脱することだ。

すると、ヒトは魂を思い出す。
存在する意識を。ふるさとを、根源を。中心を。

高次元であるヒトは、3次元にはいない。
そのとき、ヒトは、今ここにある。

今ここを3次元内で理解しようとしても不可能。
それは、ヒトの内側にしか存在しない。
外側に今ここなどない。

今にいない限りはあるがままでいられるわけがない。
ストーリー上にいるヒトは、役を演じなくてはならない。
そこにあるがままはない。

内側にいるには、自分の中身をみつける必要がある。
中身とは意識だ。

意識をみつける必要がある。
意識を外から眺めるのはなく
意識の底へ、降りなくてはならない。
降りて、降りて、中心をみつけなくてはならない。

中心をみつけない限り、ヒトは外から中を眺める。
外にいる限り、ヒトはストーリーの流れにいる。

その中心を、宇宙意識と言う。神とも言う。最高次元とも、根源とも言う。

神から私はまる見えだが、私から神は見えない。
だから私は見えないものに祈る。

私のなかにあなたがいることを私に示してください。
私にあなたを感じさせてください。
あなたのご意志を私にわからせてください。
そしてそのように導いてください。
どうぞ私をお使いください。
あなたから逸れないように、
私のなかにあるストーリーをどうぞ手放させてください。
外側に対して自動的に反射してしまうあらゆる本能の選択を
過去のストーリーに基づく予測から
あなたのご意志による選択へと置き換えてください。
私の内側に刷り込まれているあらゆる思い込みによって築かれた価値観を
どうぞ解体し、あなたのものへと置き換えてください。
私は私の小さな枠を解体してくださるよう祈ります。
小さな枠の中にある、古い、学びを終えてしまったエネルギーを手放し
あなたへ明け渡します。
どうぞ、ここへ、住まわれてください。

すると、中心が、私の中へ広がってくれる。

その時、私は、自己の中心を感じることができ
中心から外を眺めることを知る。
外にはストーリーがあり、
自分はそこにはいない。

ストーリーを眺めることができ、
時間に縛られない自己を観じる。

ただ、今の連続が在るのだということがわかる。

未来は来ない。

来ないものを恐れる必要がなくなり、予測は消える。

過去が消え、原因が消え、今のあるがままが自己となる。
消えたものを認識することがなくなり、
それらは、今に目覚めさせるための幻想という仕掛けだったとわかる。

どのような悲惨なストーリーを見たとしても、
今に目覚めないという悪夢よりはずっと幸運だったと認識する。
ストーリーを感謝とともに、赦し忘れることができる。

あの頃に比べたら、今はずっといい、というのがストーリーだ。
今が至福だということは、ずっと至福だった。

だから、感謝がある。

あるがまま


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セラピーというと「不調を治して正常に戻すこと」と捉えられがちです。言葉の意味としてセラピーは治療、療法なので当たり前のことなのですが、それが究極の目的というわけではありません。人間には無限の力が備わっていると考えると、その無限を妨げているものをみつけて癒やすことができれば、本来の、あるがままに近づくことができると思います。

あるがままを知っている人がこの地上にどれくらいいるのでしょうか。

あるがままというとまず多くの人が、欲望のまま、本能のまま、というようなイメージを持たれるかもしれません。しかし欲望、本能というのは人間が個体として持っているひとつの機能に過ぎません。人間を肉体として眺めたときに付いている部品のようなものです。あるがままはそうではなく、人間の存在の本質に沿った自然な状態のことです。

そう観ると、人間があるがままになるのはそうたやすいことではなくなります。私はそうだと思います。人間は人生を通して、あるがままになるための探求の旅をしているようなものです。

私は最近では、不調というのは人間の成長を促すために存在する必然的な矯正器のようなものであると感じるようになりました。そうは言っても不調はないにこしたことはないでしょう、と多くの方はおっしゃるかもしれませんが、私はよもや、そうとは言えないとまで感じています。

なぜなら人間が本当に意識を使って意識的に生きるようになるまで人間は本質とともに生きているとは言えませんし、本質とともに生きないなら、人間は欲望と本能に生かされていると言えるからです。欲望と本能というエンジンは言ってみればとてもパワフルです。このエンジンをふかしている人は本人は調子がいいですし、周囲からみてもなんとなく気持ちのいいものです。人間は誰もがそんな絶好調を一度は夢見るものです。

しかしこのエンジンの絶好調は長続きはしません。また、必ずしも人間を幸せへは導いてくれません。当人はよくても周囲をも巻き込みます。巻き込んだり巻き込まれたりしている限り、なかなかパワーゲームのシーソーから降りることができません。

不調というのは本当は幻想です。ただ、周囲で誰もがそんなエンジンをふかしてパワーゲームに興じていると、自分はどうなんだろう、これはきっと自分がなにか間違っているか劣っているのに違いない、或いは逆に周囲が、世の中全体が間違っているという気がしてきます。そして、イライラしたり、攻撃的になったり、悲観的になったり、塞ぎこんだり、情緒が不安定になったりという状態になります。これが巻き込まれた状態です。

これらと、感情を感じることはしっかりと区別される必要があります。然るべきときに怒ることや悲しむことは、人間としての自然な姿で美しくすらあります。しかし上記の不安定さというのは、真実を感じていないときに起こります。本当は悲しむべき(悲しみたい)なのに、それを感じないように塞いでおく。なぜなら悲しんでいたら自分が弱くなってしまう気がする。弱くなったら自分は世の中(の幻想のゲーム)に負けてしまうだろう。だから悲しむのはよそう・・・。そして、その抑圧された悲しみは自己への嘘の代償としてイライラや焦りややりどころのない怒りなどに姿を変えていきます。

こういった不安定さから来る不安はこの世で多くの人が潜在的に抱えています。集団的な幻想への正常な反応として。

しかしながら私たちの本質は、そこから常に自由になろうと私たちを内から導くのです。その導きはそれに相反する働きを、自浄効果のように排毒しようと試みます。そこで、その自浄現象を効果的に意識的に通過する手助けとなるのがセラピーなりなんなりということになります。

不調という不安定は、実は私たちを偽りの安全から真の安全、平安へと導く内なる導きに他なりません。あるがままへの道です。