「親をゆるさなくても幸せになれる」が生む誤解

「親をゆるさなくても幸せになれる」っていう、セラピーの宣伝文句を見かけてせっかくの機会なので連投します。

このひとことの中にどれだけの誤解がつまっていることでしょう。インナーチャイルドの捉え方すら世間では誤解だらけだというのに・・・。

ではゆるしとは、幸せとは、なんなのでしょうか。ゆるさないとはどんな状況なのでしょうか。

「怒りを手放すことではなく、怒りがあることを認めることが大事」とそこに書いてありました。しかし怒りを手放すことは、怒りがあることを認めなくてはできないのではないでしょうか。ないものを手放すことはできません。手放すことと認めることはひとつです。

また、そこで言う手放すとは、「無くすこと、止めること」となっているイメージです。

「親をゆるさなくても幸せになれる」という文のメッセージは「あなたを不幸にしている原因は親に怒っているから」そして「その怒りを止めれば幸せになれると一般的に言われている」「しかしその怒りを無理やり無くす必要はない」「怒りがあることをむしろ認めればいいのだ」・・・それでは「ゆるし」と「手放す」という言葉がかわいそうです。あまりに誤解を与え過ぎなのではないでしょうか。

「ゆるさないこと」は私たちに不調和をもたらす根底的な要因です。ゆるさないことは私たちの世界に敵を作り、防御を必要とさせます。そこには恐れが存在します。恐れに防御されているところで私たちは愛を感じることができません。

そしてそのことを具体的に見つめ解体していく過程で心は、ゆるさない思いを作り出した体験を遡って見直すプロセスを通ります。その体験は多くの場合、最初の対人関係つまり親との関わりの中でなされ、原型つまりパターンを作ります。

その仕組みを紐解き理解することは親との関係を理解させ、多くの人を親との心理的和解に導いてくれます。そのことによって私たちは、もうそれ以上ゆるさずにいなくてはならないという苦しみから解放されるのです。

繰り返しますが、ゆるさないことこそが心の苦しみなのです。なぜなら愛している状態、愛の中にいる状態が、人間にとっての「自然な」「幸せな」状態だからです。(この点についての考察は前回の記事『愛をつかむ』をご参照ください)

そもそも「不幸の原因は親をゆるさないこと」だという命題そのものが誤解です。私たちを苦しめているのは関係性において自分の中に作られて確立されてしまった心の反応のパターンなのです。

ですから私たちは幸せになるために他者をどうこう思ったり思わないようにしたり好きになったりする必要などありません。私たちはただ、自分を理解することを必要とします。そしてさらに言うなら、関係性の中で傷ついている自分に気づいてあげて、さらに傷ついている自分を長年誤解し切り捨ててきた自分をこそ、ゆるす必要があるのです。

解放までの間に、たまっている感情、こじれてしまうほど膠着している感情と安全に向き合い、感じ切ってあげることはとても重要です。感情はエネルギーです。一度作り出されたものはしっかりとそこに寄り添って燃焼してあげる必要があります。それが「認め」「寄り添い」「感じ切る」作業です。

(ヒプノセラピーでのインナーチャイルドワークは、理解と感情の解放を同時的に行うことができ、その点でとてもパワフルで、癒しのプロセスを非常に早めてくれるものであると言えます。しかしそのメカニズムと役割にも誤解が多いのが現実です。)

「ゆるし」は人間の思考にできることではありません。理論的に整理し結論付けて「許した」ことにしている方にもたくさん出会います。でもゆるしはハートにしかできません。ハートに住んでいる神と、世界に遍在している神がゆるしという愛の世界へとあなたを運んでくれるのです。

あなたにゆるす準備ができたら・・・―それは、もう一人で戦う人生はいやだな、と心底思ったときです―あなたは「ゆるさせてください、どうか」と、宇宙に向けて決意を表明すればいいのです。

冒頭の文の真意はわからないではありません。親をゆるそうとしてあなたはひとりで奮闘する必要はないし、その奮闘こそがますますゆるすことを難しくしています、というのが真実でしょう。あるものをあると認めて向きあいましょうよ、ということなのでしょう。でもそのことが本当は「手放すこと」であり「ゆるし」のプロセスの一部なんです。確かに世の中はキャッチ-であることでしか人目を引けないのかもしれません。

でもそれでも、心を扱う者として私はなるべく本当のことを言いたいし、その想いが言葉に乗ってすべての人のハートに届くものだと私は確信しています。

愛をつかむ

愛って、実感したことも体験したこともない気がします。まったく雲をつかむような感じがして・・・

セッションでいただいた言葉なんですが、「愛」という言葉に対する感じ方は本当に多様で多くの方からいただく疑問でもあります。

私事ですが、だいぶ近年になってから母に「私って結局なにも愛してこなかったのかもしれない」と告白されて衝撃を受けたことがあります。子供にとってはびっくりですよね。え、愛されてなかったのか!(笑)

以前はなるべく神と愛というワードを使わないで説明できるように努めていたこともありましたが、今ではむしろ多用しています。それなしに始まらないという世界の仕組みがよくわかったらです。

愛はすべてです。ゆえに神もすべてです。人間の愛には情や考えが入り込み、そういうつもりはなくてもいつも制限を加えます。でも純粋な愛には制限がありません。

私たちがいくら無垢で愛そのものでいようとしても、そこには必ず恐れという曇りがかぶさっています。私たちはおひさまを直接凝視できません。神とは何か、愛とは何かを考えるというのはおひさまを凝視して正体を確かめようとするのに似ています。ただそれだけを見ても眩しくて目が痛いだけです。

でも、おひさまが照ったときの空気や風や緑や海や街並み、そしてそれらに触れたときの自分の気分や感覚は味わうことができます。優しい、きれい、柔らかい、力強い、新鮮さ、細やかさ、満ちている感じ・・・感じ方はさまざまでも、それらが私たちに与えてくれるエネルギーがあります。

また、実際にもっと全体の仕組みを知れば、おひさまなしにわたしたち生命が生きられないということもわかります。おひさまが生きとし生けるものをどのようにして生かしているかというのはただ生まれて生きているだけでは実感しにくいものですが、理解や洞察が深まるほど、世界が奇跡的なつながりのなかで保たれていることがわかります。

しかし宇宙は生物の王国ではありません。無生物と言われるもの、石や土、火が星を作りその星々は一定の秩序の中に暮らしています。無生物のものにもまるで意志があるかのように、始まりと終わりという寿命のなかに生きています。おひさまが源ではなく、さらにすべてを生かしているなにかがそこにあります。わたしたちはそんな世界で暮らしています。

そんな大宇宙があり、私たちのからだのような小宇宙があります。生物無生物に関わらずそこに秩序と法則を生み出し統制している力があります。

それは私たちの思惑が生み出すストーリーや欲求が生み出す必然とは違ったリズムです。自然界に心を合わせると私たちは少し自由になれるかもしれません。しかし私たちは自然界からもらうばかりの生き物ではありません。自然界をリードできるように与えられた知性を持ちます。

知性によって私たちは本能やサバイバルの能力を補ってきたかもしれませんが、それはただ得るために授かった能力ではないのです。それは、全体の仕組みと自分の内側にある仕組みを理解するほどに実感できるようになります。

私たちは自分を知るほどにその能力のパワーと、使い道についてさらに知るようになります。

多くの人が自然という言葉を人間以外の動植物や景色にあてがって使います。しかし、私たちこそが自然です。私たちはすべてとつながっています。そのことを思い出ししっかりとつながり直すことが必要です。

全体を理解するというのはそういうことです。そしてそれとどのようにつきあっていけばいいのか、生きていけばいいのかは、自分を理解することでわかります。

すべての背後にあるもの、それが神でありその息吹である愛です。

ですから私たちが頭で作り出した、経験による推測に過ぎない因果関係よりも圧倒的に、愛の法が大きく強いのです。私がこうすればあの人はこうするだろう、あの人がこうしたから私はこうなってしまった、それが潜在意識の世界、つまり習慣の世界です。

しかし目を開けば、そんな因果律を超越した本物の法則があります。それは本物の自然であり今ここに、そして永遠にそこにあります。

心の傷は脳の傷だそうです

昨日のおやすみは、遅ればせながら大渡海岸で初泳ぎしてきました。夏休みだし、観光の方が増えているので混みあっているかなと思ったのですが、相変わらずのんびりして地元のつり少年のほかにちらほらと泳いでいる人がいる程度でした。近年の水温の上昇でサンゴが随分死んでしまったと聞いていてとても悲しいのですが、大渡は相変わらず美しかったです。

うみんちゅさんのお話を伺うと、たとえば水中に橋を一本立てるだけで海中の環境は激変するそうです。急に魚がいなくなったり、赤土が流入して汚染されてしまったり、私たちが想像する以上に地上って微妙なバランスの上に立っているんですよね。

さて、昨日ネットで拾った情報なのですが、「子どもの脳を傷つける親たち」という著書が話題のようです。

著者の「友田氏は脳科学の専門家で、親による不適切なかかわりで子どもの脳がどう変形するか長い間調べてきた」とのこと。

結果「言葉による虐待はどんな痕跡が残るのだろう。『心が傷つく』というが、身体のどの部位が傷つくのだろう。友田氏たちが見つけたのは、脳に痕跡が残るということである。」

読んでいなくて恐縮なのですが、脳の仕組みの部分について私は非常に納得です。対処については、対象が子供であるなら、書評にあるようにおとなや社会が手助けをすべきだと思います。でも(例えば私のように)その時期に救われずにおとなになった人にも、もっと本質的な救済があることがもっと広まるといいと思います。簡単な書評がありますのでよろしければそちらを。

潜在意識やヒプノセラピー、また瞑想についてもレイキヒーリングも、それがなぜ功を奏するかを研究すれば当然、脳の仕組みを考えざるを得ません。トラウマと言われるものを始め、「過去の記憶全般」が私たちにどのように影響を与えるのか、それを理解することは脳との関係を理解することとも言えます。

私は傷、というよりも「溝」というイメージを持っています。傷はそれだけで痛々しいのですが、意識や脳に刻まれているものに痛々しいというイメージはいらないのです。ただそれをあるがままに知って、理解すること。それができれば、神という無限の生命力の源を受け入れる準備ができます。

みなさんが「これが私の性格」だとか、「そのように育ってしまったから仕方ない」(でも本当はなんとかしたい)と思っている自分の特定の、心の反応やそこから来る態度が、脳に刻まれた溝のためなのだとしたら、或いは圧迫をうけ変形してしまった脳の領域のためだとしたなら、それはあなたの宿命ではなくて一つの傾向であり習慣でもあります。私たちはそれに取り組むことが可能だということです。

書評のなかに「脳は再生しないと考えられてきたが、近年、再生回復の可能性が見出されてきた。」とありますが、脳のことなんて人間はまだほとんど知らないのだと私は思います。それよりも、脳が実際になした人間の数多くの奇跡にも見える変化や進化こそが事実でしょう。実際に使われていない部分が多くを占めると言われている脳ですから。

私たちは、古い溝を使うことをやめて、新しい溝を掘りたいのです。たとえば信頼という溝を。たとえば平安という溝を。たとえば勇気という溝を。つながれていなかった神経細胞同士に手をつないでもらいたいのです。その新しい道を電気が流れ、信号を送り、そこで発した火花が世界というスクリーンに陰影を映し出します。その映画が、私たちの新しい世界です。これは脳の話です。そして、意識の、そしてそれが創る現実のお話です。

過去にショックを受けた溝を電気信号が走るとき、心は葛藤し、緊張と対立は私たちを疲弊させます。瞑想やヒーリングはこの電気信号の周波数に変化を与えます。変動した電気はその古い溝をなぞらずに別のルートを通るか、またはその溝への影響自体を変えていくのではないかと私は考察しています。おそらく未来のいつかには、そういったことが明確に語られるようになっていくことでしょう。

しかし本当に意味があるのは、語られることよりも体験することです。

生まれつき不幸でずっと不幸でいるために生まれてきた人はいません。人は言わば幸せになることを通して進化しています。意識は今すぐ変化できます。脳がすぐに再生されなくても、不思議ですが私たちの意識の領域にはそれ以上の意志が働くことがあります。肉体はゆっくりとついて来てくれればいいのです。

最大限に生きるとは

久しぶりの投稿です。

今月私はお誕生日を迎え、51年目の時間を迎えました。ここまで生かしてくださったすべてに感謝すると同時に、これからの時間を何に捧げて生きるのかを思い、そのために今を最大限に生きたいと願っています。

今を最大限に生きるって例えばどんなふうに?そう思いませんか。以前の私だったら、今やりたいことをやる?今できることを目一杯やる?というようなイメージを漠然と感じていたかな。いや、思いっきり輝く、とかだったかな。

もしあなたが、それができていないと感じるならやってみるといいんじゃないかな。本当にやってみよう、と思ってそのために動き始めると、本当の問題はなにかということが初めてわかるものです。

頭の中で考えたり想定したりしているうちは、本当の問題点というのはだいたい見当外れなもの。なのにそれはあたかも確固たる「できない理由」として存在しているように見える。そしてやってみる前にやめてしまっていることが少しずつ人生の中に積もっていく。

その積もったものは、自分への不信感、周囲の人間関係や社会への不満という副作用をもって自分を縛ります。

それはそもそも、想像の中で自分が創ったものだったのに、いつの間にか自分への呪いのようにパワーを持つようになります。

本当にやってみたとき、本当に壁となるのは実は自分が想像もしなかったようなことだし、生長というのはその、本当の壁と向き合うことでしか成し得ないものだと思う。その時みつけた本当の壁と向き合うということはそれ自体が創造的で前向きなことなんだと思う。それが、人生を創るということだと。

私は自分への不信感も周囲への不満も、恐れも怒りも、およそネガティブと言われているものを大概持っていてそれを実感もしてきたけれど、そんな中で自分が持っているほんの一点の希望のために一生懸命に生きてきて、その結果少しずつ自分との信頼を築けて、結果たいていのものを肯定的に、前向きに、受け入れたり認めたりすることができるようになった。

この世のひどいものも、無理に見ないようにする必要もなくなり、そうなんだ、でも、そのうらっかわの素晴らしいところもあるよね、と、見聞きするおおよそすべてのことに対して言えるようになった。それは自分の中にあるあらゆるいいものとよくないものにYesと言うことから始まった。

Yesは光りと同じで、うらっかわの暗いところに当ててみればそれが表になる。人はみんなそのうらっかわを恐れている。うらっかわの暗いところから逃げようとがんばってもそれはもれなく人生についてくるものだ。だから逃げようとしている限り、人生は恐れから逃れられない。

人生の希望はたったひとつでいい。バランスなんてあとからついてくる。人間には所詮ひとつしか見えないし、見たいものしか見えないのだ。(これは精神論ではなくて、客観的な事実だ。)

希望から目をそらさず足を前に出せば恐れは薄れる。それが私たちに与えられた、人類の弱点の裏をかいた突破口だ。

人生に必要なものをあらかじめ揃えたら冒険の旅に出よう、などと思っていると恐れに追いつかれて飲み込まれてしまう。人生で一番大事なもののために今日を生きると、人生に必要なものはだんだんと整えられていくものだ。

本当に大事なものがみつかった人にはそのほかのすべては足りているし、大事なものがみつからない人にはいくら手に入れてもいつも足りない。

旅は終わる。旅は地から与えてもらうものであり、旅を終えた人は地の塩となる。地の塩となり世の光りとなる。世の光りとなることに本当は準備はいらない。ただ、真実と現実を覚悟するだけなのだ。

心のセラピーは、探す旅を完了させることを手伝うものだ。人生に与えてもらうことではなくて、与えることを選ぶという意識の進化を促す。

多くを持っていても、また多くを体験していても、得ようとするとき人は貧しい。またどんなに微細なものごとであろうが、与えようとするとき人は豊かだ。たった、それだけの違いなのに。