自己肯定感、あります。

からだだけが自分じゃない。そう自覚している人はきっとたくさんいるだろう。心が大事。そう思っている人もきっとたくさんいる。

思うようにならない自分と格闘して葛藤して、潜在意識≒インナーチャイルドを探求している人も、今はたくさんいる。情報もたくさんある。

そしてこんなことも起こる。自分の過去に作った傷がたくさんみつかった。原因もわかった。一生懸命修復に取り組んでいるけどなかなか変われない。やっぱり自分には無理なんだろうか。がんばってもがんばっても追いつかない。

愛にあふれた人ほど、自分の内側の傷を見て、それに圧倒されてまた傷ついてしまう。思慮深い人ほど傷を負った自分自身にさらに問題を感じてしまう。

私自身、おとなになってみて何一つ思うようにならなくて自分を振り返り始めて数年、いや10年、いやもっとそれ以上長く、そんな思いの中にいた。

掘り起こせば起こすほど、自分の未熟さ至らなさに直面して自分を責めてしまう。そんな中で情報に照らして自分を分析し評価するとしたら「自己肯定感(自己評価)が低い」んです!みなさんそうおっしゃる。そしてその低さを作った原因がわかれば、それを修復できれば、誰かを許せれば、変われるかもしれない、そんなふうに感じている。

私も本当に長い時間かけてその答えを探しさ迷ってきた。私のその体験と時間をできたらみなさんに捧げたい。もし受け取ってもらえるならば。私の経験が、あなたの時間を短縮すること、そしてあなたがさらにその先を体験すること、それが魂の仲間の共通の目的だ。

身体だけじゃない、外側じゃない、中身が大事。中身が本当の自分だというところまで真実を突き止めたみなさんは、潜在意識こそが自分の真実だと思ってるかもしれない。或いは潜在意識こそが自分の宝もの、或いは自分の真の導き手、或いは神さまのような存在だと捉えているかもしれない。でもそれは、違う。

潜在意識は体験の記録の集大成のこと。からだという特定の反応をする方程式がつまった箱に何かを放り込んで出てきたもの、それをしまっておく場所のこと。いわば肉体のデータバンクだ。

データをいじって修正する権限を持つのはそれ以上の知能を持ったものに限られる。データがデータを改善することはできない。或いはデータの箱がデータを改善することはできない。権限を持つのはあなた。それを教え導くのが魂、ハイヤーセルフ、そしてその中核である全き神である。

私たちはこのデータをまとっている。このまとったものを自分自身と勘違いしている。傷だらけでみすぼらしい、くたびれたその姿に更に傷つき、それでも立ち上がって今度は修繕を始めようとしている。これは一人ではとても無理だと悟ったから手伝ってほしいと私に申し出てくれる。

いろいろなヒーラーやセラピスト、カウンセラーがいて、あなたを手伝うと言う。すごく長い時間をかけてその修繕を一緒にやったり(やってもいい。でもそれは目的ではない)、もっといいハウツーがありまっせ、と提案したりしている。どうです、私、立派でしょ、きれいでしょ、あなたもこんなふうになれますよ。それが宣伝文句。

でも私に言えるのは「それ、ただの服なんですよ」ということ。潜在意識、インナーチャイルド、あなたが自分あるいは自分の本質だと思っているそれは、データが編み込まれた、服なんですよ。

最近のセッションでのこと。その人の魂の光、愛の炎があまりに燃え盛っていて、その愛の炎でその人のまとったぼろぼろの服は既にほとんど燃え尽きているかに見えた。魂そのものが光を放ち、自らがまとっていたかりそめの古い衣が燃え堕ちようとしているさなかにまだ、その服をなんとか修繕しなければと真摯に訴えていた。あまりにまっすぐにそこに居てくださったから、私もまっすぐに伝えることができた。

「その古い服、脱いでください」

その方はしばらく目を見開いて、というか肉体の目をぎゅっと閉じて、心の眼を見開いてじっとしておられ、それからまっすぐにこちらを見て「そうか。そう観たことはなかった。確かにそうだ。魂はきれいなんだ。きれいなものなんだ。それが自分の心なんだ。」

その方は一瞬で悟られた。自分は魂なのだと。心の核は魂で、汚れた心と感じていたのは多くの体験を吸収し、くたびれた衣服だったと。服がどんなにズタボロでも、魂はそれに影響すらされることなく美しいままなのだと。私はその方のまとった焼け堕ちる寸前のその衣がばらばらと灰になり崩れ落ちるのを見た。そんな見事な再生に出会えたことが奇跡だと感じる。

しかしだったらなぜ潜在意識の探求などするのだろう。

それは、その衣の命を全うさせるためだと認識している。学びを完了させるとも言い換えられるが語弊もある。それは理屈や知識で得るものではない。感情の燃え残しに聖なる火を点火し燃焼させることだ。

人間は、五感を通して受け取った情報を感覚として感知し、そこから化学反応で感情の波を起こす。生長の道すがら、情報は確かに受け取ったけれど湧いてきた感覚や感情は感じ切らずに置いておいた。そんな体験が器に余る莫大なエネルギーを使わずに溜めている。鮮度が落ちたそれは、やがて器にこびりつき沈殿する。ものによっては腐敗する。

「感じ切ってください。」ヒプノセラピーでのあなたのミッションはこれにつきる。あとは、魂がやってくれる。

ごびりつきや沈殿物や腐敗物を燃焼したときあなたの内なる光は増し、その光があなたの内側と行く手を照らし始める。だからあなたは歩けばいい。光りの中で光とともに生きればいい。あなたのまま。一歩一歩。光りによって周囲は良く見え、自分の内にある光が周囲を照らす。それがあなたの価値だ。それに評価なんて必要だろうか。

そうやって光の器となって再生したあなたは、過去に着ていた服のことを思う。もし生まれてこのかたきれいな服ばかりを着ていたならどうだろう。あなたは違っていただろうか。

ボロボロの服からも、肌触りのいい服からも、そこに吸収された体験から抽出され中身(魂)にしみこんでいくのが愛であり、どちらの服もその愛を抽出し終えたときその任務を全うする。あなたはやがて手放す服を、あなたが学びやすいように選んできた。あなたの父、母、家族の設定、社会と国家、時代背景。

その服にありがとう、愛しているよ、さようなら、全うしたねと心から言える。それが自己肯定だ。そう言えるようあなたの気づきを促すのが潜在意識への取り組みでありそれはそのままあなたの魂、そして内なる神への回帰への道だ。

単にきれいな服を着ている他人を見て、あの人には自己肯定感があるとか幸せそうだと人は言う。でもその人の中身は本当に寄り添い向き合ってみないとわからないものだ。ボロボロであれきれいであれ、その服に執着している間の肯定や評価などまったくもって価値がないと今の私は思う。それは誤解であり錯覚なのだから。

ひとりじゃない

「わたし、ずっとひとりぼっちだと思っていました。でも、ひとりじゃなかったんですね」

こんな言葉をヒプノセラピーやカウンセリングのセッション後にいただくことがよくある。それは、例えば両親との和解や対人での気づきがあったときに限られるのではなく、むしろ自分自身、深い自己意識、インナーチャイルドや自分の過去世の人生、またハイヤーセルフに触れたことによってもたらされる感慨であることが多い。

ひとりじゃなかった。

人生を生きていてそう感じる前と後では明らかに世界は違っている。どんなに他者と親密になったとしても、どんなに大勢とつながったとしても、そのことで「ひとりじゃないんだ」という平安を恒久的に持つことは不可能だ。私たちは出会っては別れ、得ては失う。得たものが大きければ喪失も大きい。これが地上世界の真実。

ひとりじゃなかった。

私にもかつてこの気づきがあった。それは黒から白へと切り替わるように起こるのではなく、巨大な歯車があるときから逆回転を始めるように訪れる。巨大な歯車とは、地球が私の世界を乗せて回っているのと似ている。逆転のために一瞬世界は静止しなくてはならない。それから慣習のちからに馴染んでいたあらゆる創造物は軋み、あるものはなぎ倒される。例えばエスカレーターがいきなり止まり逆走するようなおかしな感覚。それが地球レベルで起こるのだ。

ひとりじゃなかった。

その時、すべては変わる。たとえば光り。たとえば言葉。たとえば形。たとえば愛。
(ひとつひとつ想像してみてほしい。)

孤独の中に見える光と、ともにある者に見える光は。
孤独の中に語る言葉と、ともにある者が語る言葉は。
孤独の中に知る形と、ともにある者が知る形は。
孤独の中の愛と、ともにある者の愛は。

まったく別のもののように変わる。共有する範囲も、ベクトルもその意味も。
二つの世界はつながりを失い、さらなる孤独へと堕ちたかに見える。それが世界の静止と逆転だ。

ひとりじゃなかった。

これは瞑想における重要な通過点であり目的地でもある。内なる神は私たちを創造し導き育む。私たちの意識の根幹に座して私たちの生命に寄り添い続けている。私たちが今世のこの肉体を与えられるよりも遠く古からずっと。その存在を内に確かに感じることが、私たちを孤独という分離の幻想から目覚めさせる唯一の道だ。孤独である限り、私たちは戦わなくてはならない。自分を守れるのは自分自身。もしくはこの世で味方と言える少数の他者しかいない。私たちは安全を得るために戦い続ける。そしてその戦いに終わりはない。生とは死と死の合間のつかの間の、物語に過ぎない。

ひとりじゃなかった。

ひとたび孤独という幻想から覚めたとき、私たちの生は変わる。生は永遠のもの。生は真実そのもの。その時ようやく、私に私という存在が見え始める。それまでの私という幻想が軋みなぎ倒され、本当の私が見えてくる。私は永遠なるものの一部であり、真実の一部であり、愛であり、私は授かったものであり、私は生かされている者だとわかる。

ひとりじゃなかった。

その気づきは私を変える。私という過去の誤った枠組みを打ち砕き、私は尊さの顕現であるとわかる。私は愛されし者であると。

その時そこに自分への感謝が生まれ、自分を愛するということの真意が、すべての尊き者への賛美だということがわかる。私はすべての尊きものとともにある者。

自分への感謝は即ち尊きすべての者へのそれであり、すべての尊き者への賛美は私への愛だとわかる。その時、私というものは消滅し、ただ、神とともにすべてがあるとわかる。

世界に私はいない。
世界には私というすべてと、神だけがある。

使命

セッションで数名の方からほぼ同時にあるキーワードをちょうだいしました。そういう時はそのエネルギーが動きたがっている時です。ここからどこかへ、或いは同時多発的に、意識の大海の中でそれは震え輝こうとしています。そして言葉というメッセージとなり、人の気づきとなって流れを作ろうと発動しているのです。

キーワードは「自分自身への誤解」です。あまり耳ざわりのいい言葉ではないかもしれません。

私は長年、潜在意識の療法、つまりインナーチャイルドや前世療法、ハイヤーセルフのワークに取り組み実際の現場からたくさんの学びをいただいてきました。結局のところ、なにが問題の根っこなのか。意識の真実は薄皮を剥ぐように日々新しい姿となって私の前に現れてくれます。取組む姿勢は同じでも、根っこへ迫る道は日々シンプルに、可能な限りスマートに、みなさんをご案内できるようになってきていると思います。その道に従事する者へのそれがギフトであり、この世界に私を生かしてくださる神とみなさんへのご恩返しなのだと最近つくづく思うようになりました。

「愛」という、形に示すことのできないある大きな事象に込められた地上での意味は、私たちの気づきと体験と学びによって今も毎瞬上書きされています。この世のすべての事柄がそうです。世界のあらゆる出来事の意味は、私たちの実感によって書き換えられます。つまり、そこに込められたエネルギーは私たちの生命の営みと同時進行で変化し続けているのです。

潜在意識は、体験によって作られます。体験からくる実感が記憶された領域がそれです。

私たちは大海のうねりのような意識のエネルギーとともに、この肉体という船で波を体験しています。私たちは過去世から持ってくる見えざる記憶を初期設定とし、両親の創った王国に誕生し航海をゆるされます。細かなシナリオを持たないまま、地図のない航海を始めるのです。

しかしこのゲームの最大のカギは最初から手渡されています。魂は愛という至高の法則を記憶しており私たちはアクセスすることを思い出しさえすれば、どんな小道具や航海術を持つより遙かに安全で有意義な旅を進められます。

けれども私たちは荒波にあたふたするうち、すっかりそんなゲームの奥義は忘れ去ってしまいます。波を蹴散らし船の補修に補修を重ねるうち、この旅の目的どころか本当の自分の姿さえ忘れてしまいます。そしてイメージの中で、戦いのうちに受けた傷や怪我の後遺症や苦難の時に培った心の抵抗や痛み、孤独や悲しみのほうの記憶が鮮烈に大きく膨らんでしまうのです。

そんな自分が生きてきた人生、取り巻く人々、それらとのかかわりの中での自分像は、すっかり疲れ果ててボロボロでみじめでみすぼらしいかもしれません。逆にガッチガチに鎧を着こんで意気揚々としているかもしれません。どれにしてもその姿の奥にある本当の心、本当の気持ち、本当に感じていること、すなわち真のエネルギーの姿はよくわかっていないのです。そして周囲に対してはいつも「そんな自分がすべき行動」を無意識のうちに選択するようになっています。

これが自分自身への誤解、言い換えれば誤った自己イメージです。

私は、ヒプノセラピーの使命は誤解を解くことであると認識しています。誤解を解き、真実への橋渡しをすること。インナーチャイルドの癒しとは世間で言われているような、心の傷の原因探しなどでは決してなく、私の私に対する誤解を解くことであり、真の私自身との和解への道なのです。この和解なしに自分への愛は成就しません

実はこのプロセスこそが、無条件の愛、高次元の愛への最も重要なゲートのひとつであると私は思っています。多くの崇高な意思を持った人が首から上と下で分断されねじれた世界観の中でさ迷うのは、この領域に飛び込むことがある意味とても勇気を要する段階だからだと思います。おそらくどれだけのことを知っていようが、理解していようが、直感していようが無意味です。それは、自分が自分で進んで体験し突破するしかないゲートなのです。

魂はそのためにたくさんの仕掛けをしています。苦難や混乱という、あなたを撹乱させる思考や理性や既存の知識では対処不能な地雷を各所に埋め込みます。そうやってあなたに、魂自体に頼ることを思い出させるよう仕向けるのです。あなたの内の愛の体験の記憶の貯蔵庫である魂は、長い転生の履歴から愛を蓄え、あなたが肉体に宿りながらそこにアクセスし、その叡智を使ってあなたがさらにその体験を深めることを押し進めます。

その段階であなたはようやく、自分が自分にくっつけている歪んだ自己像に気づきつつあります。目覚めがそこまで来ているしるしです。

周囲からたくさんの攻撃を受けたと信じているあなたは、その攻撃によってずたずたに裂けた衣装をまとっています。でもそれは本当のあなたですか?答えはNOです。あなたはたくさんの人たちともみ合いながらコミュニケーションを繰り返し、古い衣装を脱ぎ捨てては生まれ変わっていきます。古い概念を捨て去りより大きな世界へと広がり続けています。脱ぎ捨てるほどに内側の光をよりストレートに放ちます。これが真実です。

あなたはそのプロセスの中にいて、それを体現しています。

決してひとりではありません。あなたは無限の霊(スピリット)とともに互いに作用し影響しあいながらその任務を全うしているのです。

スピリチュアルとお金の、新しい発見

たまーに、スピリチュアルのサイトやブログをのぞいてみると、お金のことが書かれているのが目につきます。
私はアバンダンティア・アバンダンス・レイのアチューメントをしていますので、セッションでクライアントさんとこのテーマでお話することがあります。
また、セッションの料金についてなど、クライアントさんからご質問を賜ることもあります。
「セラピストのための講座」では重要なテーマにもなります。

私の人生、まあさまざまなことで格闘しましたが、今でも思い出すとひやっとすることのひとつに、お金との付き合いがあります。
多くの人があまりオープンにすることなく密かに抱えている問題のひとつかもしれません。

「お金とはエネルギーである」とは、スピリチュアルの世界でも、もしかしたら一般的にも言われるようになっているのかもしれません。
お金が不足するときは、実際にエネルギーの収支がマイナスになっているというのは真実だと私は思っています。

お金との付き合い方を学ぶために、1円単位で毎日、収支をメモしていた時代もあります。
まったくどう生きていいかわからず真っ暗闇の時代でしたがこれは今でもいい経験だったと思っています。
エネルギーの出入りを体感的に覚えるのにとても役に立ちます。
また「エネルギー漏れ」のしっぽを掴むこともできます。

天使貯金というのもやっていました。
今でも人から尋ねられお伝えすることがあります。
これは、どんな形であっても手に入ったお金のうちの10%を必ずより分けてプールし、自分が心から使いたいことのために使うというものです。
一見なんということはないからくりですが、自分に与え受け取る訓練になり、手元に残ったお金の10倍、自分は稼ぐことができているという実感を重ねる訓練にもなります。
豊かさを体験しデモンストレーションします。そうやって豊かさを生み出すのです。

それからさらに、お金の滞りがあるときは意識エネルギー、つまり心の領域に無意識的な詰まりがあり、それを解消することでお金の流れを整えるという見方は今も常に点検の項目にしています。

こうやって、お金の流れを頭ではなく心とからだで捉える訓練を積みました。
とても現実的なやり方ですが、どれもスピリチュアルの本から学びました。
私にとってスピリチュアルの教えとは生活そのものです。在り方、生き方の実践なのです。
頭の中で考えて答えをみつけることでなにかを解決したり乗り越えたりするのではありません。
気づきによって変わり、新しい自分となって「喜びとともに」生きることが学びです。

さて、ここからが本題で、最近になって気づいたことです。
セッションでもお金についての話題が重なり、私生活では身内の間で感覚のずれのようなものが気になることが数回重なりました。
これは内なる自己からのお知らせだろうな、と思っていたところ、それが心の痛みとして出てきたのです。

まさかここへ来て、お金のことで感情の解放があるとは思いませんでしたが、同時に自分の中にある課題としてはきっと最後までお付き合いするだろうとも感じていました。
お金とは肉体を生かすもとになるエネルギーだからです。

そして出てきた気づきはこんなことでした。
「お金についての本当の問題とは、個々の体験によってその価値が異なることである」。

思い起こせば結婚した当初は家庭内でちょいちょいその壁に当たりましたが、手探りと話し合いで乗り超え、今では夫婦で摺り合わせがうまくいっていると感じています。
しかし今度は互いの実家やきょうだいが築いた各々の家庭同士で別々の価値基準が作られてきて、なーんとなくその間に壁ができてきます。

もちろんそれは当たり前のことであって、それ自体何の問題でもありません。

でもそのせいで、やはり現実的ないろいろな話はだんだんとしなくなるし、しても通じにくくなります。
いえ、そのせいで、と気づいたのは後のことで、まずはそのわずかな「通じにくさ」が違和感として私の中に積もっていたのだと思います。

私は多分少しずつ傷ついていたのだと思います。
まさかそれが、金銭感覚に通じているなんて夢にも思っていません。
特に深刻な金銭問題が勃発したわけでもなく、あるとすればそれはずっと長い間、潜在的に存在する人間関係の課題です。

感情として悲しみが出てきたあと、私はなるほどこれかと深く納得しました。
多くの人が、親族や親戚の間でお金の問題でいやな思いをすることが絶えないわけを。
何かを争ったりするわけでもないのになんとなくいやな雰囲気になってしまうのを傍から何度となく目にしてきた、そのわけを。

例えば一万円というお金について、多くの人がそのエネルギーにまつわる体験と実感を持っています。
同じ世帯に育ったきょうだいなど、幼少期に共有することは山ほどあります。
お年玉やお誕生日とクリスマスのプレゼント、進学の費用やお祝い、買ってもらう服や嗜好品。いつもきょうだいで互いに見比べたりして育ちます。
でも暮らす世帯が違えば同じ一万円が全然違うものを意味するようになります。

余談ですが「北の国から」というテレビドラマで主人公の純くん(吉岡秀隆)が北海道から東京へ巣立つとき、お父さん(田中邦衛)が少ない収入からピン札の一万円2枚を、純くんを乗せてくれた長距離トラックの運転手(確か古尾谷雅人)に渡すというシーンがあります。
純くんは反抗期まっただなかでお父さんを疎んじていて感謝なんてありません。自分のことで精いっぱいなのです。
その時トラックの古尾谷さんが純くんにお金を見せてこんなことを言います。

「俺はこの金受け取れねえ。見てみろ、ピン札の端っこに、泥の付いた指で数えた指紋の跡がある。お前のおやじがどうやって用意した金か俺にはわかる。だから俺には受け取れねえ。この金はお前が記念に持ってろ。一生大事に持ってろ。」(すごく昔に見た記憶なので正確ではありません。あしからず)

純くんはそのピン札に付いた泥の指紋を見て、それまで堰き止めていた思いが噴出します。純くんは、あまりにいろいろな思いを抱え、それを感じないようにしていたのです。
その一万円は、ただの一万円ではないですし、その一万円の重みは多分ずっと、良くも悪くも純くんの心に刻み込まれるのです。
「北の国から’87初恋」

(さらに余談です。純くんである吉岡秀隆さんの演技は大好きなのですが、私はこのシーンでの純くんの感情の噴出は本物じゃないなと感じてました。当時は実際に吉岡くんの反抗期であり、それがドラマのクライマックスと同時に昇華されるに至らなかったのだと思っています。昇華しないならしないなりの噴出でよかったのに、どうも昇華を目指してしまったところに嘘ができてしまったのではないでしょうか。)

そんなような一万円の悲しみの記憶が私にもあります。

人によっては一万円を見て、楽しい使い道や自分のためのものとしか思い浮かばない人もいます。
人によっては一万円を見て、これがあればこんな思いをしなくても済むのに、あの人が助かるのに、何日間生き延びられるのに(これ私です)、と切実に思い浮べる人もいます。
直結した感情もイメージもまちまちです。
なのに私たちはどの一万円も同じ価値のふりをしてやり取りしなければならないのです。

そして、多く持っている人をなんとなく尊敬しなければならないような思いにとらわれたり、多く持たないことをなんとなく恥じたりしています。
持たないことに非があるような、能力が足りないような、努力や忍耐が欠けているような、不全的な意識です。

また多くを持っていない人に限ってもっと持っていない人を助けなくてはならないと感じています。
持たないことの心細さを身をもって知っているからです。

結局のところ、それほどたいした貧富の差でもないのに、この感覚のちょっとした温度差でなんだか心がすり減るようなことが起こるのだということを私は発見しました。

自分にとって切実に必要なものを一方で軽く、あるいはちょっと乱暴に扱われたりしたら、それは間接的には傷つけられるのと同じです。

同じようなことを仕事に置き換えて感じることもあります。
本当にいろいろなものをなげうってひとつのことに取組む人もいれば、同じ領域に遊び半分で片手間に踏み込む人もいる。
人生をかけて仕事をする人も、軽いのりでこなす人もいる。
養うために稼ぐ人も、遊ぶために稼ぐ人もいます。
お金が必要な人も、それに伴う権威や自己肯定感が必要な人もいます。
同じ仕事をしていても。

本当のことを言えば、お金によって本当の満足を得ることは決してありません。
お金は道具でしかなく、いくら稼げたり稼げるだけの社会的認知を得ても、自分を満たすのは結局自分の意識だけです。

なにを求めて行動するかはそれぞれの自由ですが、でもそこには意識下のエネルギーのやり取りが本当はあるのです。
そして個々のやり取りの温度差を埋め、摩擦を調停するものが、想像力と思いやりという愛なのです。

ですから私が感じたすり減り感は、お金に対する認識の温度差と摩擦によるものが表層にありますが、深層では愛の不足感による傷つきだったというわけです。
かみ砕けば、お金の扱いに愛の欠如感が結びついていたということに無意識だったということです。

お金が持っている本当の問題に気づいた私の、痛みや貯まっていた感情はほぼすっかり解放されたようです。
明晰な理解とともに光がもたらされた思いです。

どんな問題も、私たちがネガティブな感覚に引け目を感じ踏み込めない状態というものが解決を遅らせます。
踏み込めないことが問題です。
自分の思い込みを手放し感情を解放し痛みを癒せば、私たちは問題から目を背けずに済みます。
踏み込めばそこに光りがもたらされます。光は闇をも明らかに照らします。

お金はエネルギーであると同時にコミュニケーションのツールである、と、今回私は気づきました。
しかし人類がこのツールを健全に愛とともに使いこなすようになるのはまったくもってこれからだな、と感じました。

自分への信頼、自分が感じることへの信頼があって初めて、別の価値観を肯定的に捉えることができます。
これは差別問題などにも通じます。
本来ばらばらである価値観を受け入れることができてこそ使いこなせるツールなのでしょう。

愛と平和への気づきの道は至る所にあります。