ごあいさつ

こんにちは。RUACH心のセラピストのAZU(アズ)と申します。

生まれは東京都荒川区、生後まもなくから東京都狛江市で育ち、みずほ幼稚園→狛江第6小学校→狛江第2中学校→都立狛江高校→玉川大学文学部芸術学科演劇専攻(現芸術学部パフォーミングアーツ学科)で学びました。

父は声優の仲村秀生で、初代声優ブームのスターでした。(アニメでは『あしたのジョー』の力石徹役や『宇宙戦艦ヤマト』の島大介役が有名。)新劇の舞台俳優出身で、私の誕生を機に声優に転身しました。

母もその頃までは宇治京美、わかぎひさこなどの芸名で女優やモデルを経てダンサーの仕事をしていましたが「おなかが膨らんできたからダンサーはやめた」そうです。

母方の祖父は直塚太郎といい、満州鉄道の社員でありながら、満州で新京放送劇団(故森繁久弥さん、故芦田伸介さんらが在籍しました)を設立し、演出や今で言うプロデュースなどを行った人で著書もあります。若くして満州から沖縄戦に召集され、幼い子供4人を残しこの沖縄の地に永眠しました。

母の姉はフリーのアナウンサーとして生涯を送った麻生アヤ。母の弟は元はダン池田とニューブリードなどで活躍した直塚正浩で、サックスプレイヤーとして現在も神戸でライブや指導に従事しています。こんな芸事の家系に育ちました。

私自身は大学進学のころには演劇か哲学か神学を学びたいと思っていました。最終的に玉川大学の演劇専攻(沖縄在住の演出家宮本亜門さんの後輩にあたります)へ進み、在学中から先輩にあたる丸尾聡らとともに劇団プロジェクトMの設立に参加し、在学中からテレビドラマやバラエティ番組に出演するなど女優としての活動を始めました。

劇団では主に主演女優を務め、稽古場では演出助手として演技指導や演技のトレーニングを積極的に指導し、後には自らも演劇集団銀河計画を立ち上げ、脚本やプロデュースを手がけました。

大学の授業で『野口体操』と出会います。身体は「言葉とイメージ」によって操ることができるという、驚くべき身体の哲学です。私の父も新劇時代には野口三千三先生から直接教わったそうで、親子二代にわたって野口体操を学んだことになります。これは心とからだの概念についての目覚めでした。

また演劇の起源は「神に捧げる祭祀」だと言われており、古代ギリシャの劇場には「神の座する席」が創られたと言います。「芝居は魂だ」という小山内薫の詩を読み、演劇の目的は「浄化」だと習います。私は演劇の神聖さに魂ごと惹きつけられました。

神、魂、浄化はそのままスピリチュアルの用語と重なります。見えないエネルギーを実際に操ることをからだで覚えたのは演劇によってでした。

20代前半は主に舞台で活動し、25歳のとき、1991年から声優の事務所である81プロデュースに所属し、アニメや映画のアテレコやナレーションの仕事を始めました。

道の途上でざまざまな困難に出会う中で演劇を通してスピリチュアルと出会い、自分のために様々なワークに取り組みました。

時代が変わり今世紀に入ると歌を歌い始め、AZUの名でジャズシンガーとして数多くの仕事をさせていただきました。また同時期に、催眠館ラディアンスの専属催眠療法士として仕事を始め、歌とセラピーとタレント、それに加えてタレント事務所での演技コーチを務め、多くの方々の引き立てによって自分を生かしたやりたい仕事で徐々に身を立てることができるようになりました。

2003年、NYへ度々渡り、ボーカルのレッスンとともにステージを体験します。

その後2007年に鍼灸師の主人と結婚し、二人でトータルヒーリングスペースRuach[ルーア]を東京で立ち上げ、ヒプノセラピストとしての仕事を続けます。また夫と共同で、鍼(東洋医学)とヒーリング、スピリチュアルとヨガや演劇のワークを取り入れた『ミラー・マジック』というワークショップの活動が加わりました。

2009年1月には東京での活動のすべてを手放し、夫婦で沖縄へ渡り、心とからだのセラピーサロンを開業。トータルヒーリングスペースRUACH[ルーア]沖縄として皆さんにご愛顧いただいております。
必死に前に向かって、そして自己の真実を求めながら生きてきたこの半生を通して、今では全てが神聖な導きだったことがわかるようになりました。今では日々この内なる神聖な導きを受け取りそれに委ねて今を生きるようになりました。

ここまでは概要、つまり表向きに行ってきたことを書きました。ここからはそのバックグラウンドを書いていきます。
私は3人きょうだいの1番目に生まれました。下には2歳下の弟と4歳下の妹がいます。

父は私が生まれた当時はまだ新劇の舞台俳優でしたが、私の出産を機に声優に専念する形を選んだそうです。父はとても純粋で繊細な、芸術的な人です。舞台の道を追求することを断念するのは辛かっただろうと思いますが、それ以上に私の誕生を喜んでくれました。

母はダンサーで、当時は母のダンサーとしての収入のほうが多かったと言います。母は結婚の時点で芸事とは決別する決断があったそうですが、私がお腹に宿って3ヶ月までは踊っていたそうです。母は結婚に際して父の才能に賭けたという気持ちがあったのでしょう。

私はとても早くに歩き始め、しゃべり始めたそうです。母曰く「美緒ちゃんは生まれながらに全部わかっている子だった」そうです。「こんなすばらしい子を私が生めるならもっと生みたい」と母は強く望んで私が2歳のときに弟が生まれました。

弟は、顔と全身に大きく広がるとても濃い青のあざを持って生まれてきました。顔にあるのは大田母斑、全身にあるのが蒙古班、さらに胴回りには赤いあざが覆っていました。あざの原因というのはわかっていません。そして、この種類の違うあざの間に因果関係も認められていません。3種のあざが偶然的に弟のからだに同居したというのです。

私は幼かったので、特にそれが悪いことだとは感じていませんでした。母はあざの理由を「天国で神さまがたくまのからだを作ったときに失敗しちゃったの」と私たちに教えました。今思うと神さまの失敗ってひどい教えだな~と思うのですが、当時はとてもリアルに雲の上で神さまがみんなのお尻につけている青いインクのビンを弟のからだにひっくり返してしまうのをイメージしていました。

弟はどう感じたのかわかりませんが、あざのことで文句を言ったり恨み言を言うのを一度も聞いたことがありません。母にもそうだそうです。母は、世間の目を心配しないわけがなかったでしょうが、母がなにか言いそうになると私は「たくちゃんのことはみおちゃんが守るから大丈夫」と宣言していました。

弟と一緒に歩いているとよく通りがかりに「どうしたの、そんなに汚して」というようなことをおばさんたちに言われたのを覚えています。私はそのたびに「これは生まれつきのあざです。」と説明していました。弟は特に顔色も変えずに朗らかでしたが、私は身構えていながらも毅然としなくてはいけないと、むしろ意気揚々としていたのを覚えています。

弟が生まれ、一番ショックを受けたのは父だったようです。父は男の子が生まれるのをそれは楽しみにしていました。父自身がとてもかわいがられて育ち、実際容姿端麗で出来が良い子だったので、期待が募っていたのでしょう。弟は顔立ちも美しく内面的には何も問題がありませんでしたが、父は母に、この子を人に見せるなと言ったそうです。母はその発言をどうしても許すことができず、父と母の決裂はそこから始まってしまいました。その当時にいくつかのショックな出来事が重なって、父は次第に酒量が増し、人生に酔っ払ったまま仕事に命を賭けるような生活に没入していきました。

私の人生の最初の記憶は2歳で、父がお酒を飲んで機嫌が悪く、あのあ力石のようなシリアスな声で怒りを振りまいている食卓です。母は輪をかけて不機嫌で、母の母である祖母も困り果てていました。私はそのころ、父のご機嫌を直すという技を覚えたところで多用していました。その場面の記憶はないのですが、「あれをやればうまくいく。父は笑ってくれる」と心の中で思ったことをはっきりと覚えています。そこで「あれ」をやりました。「ちょっと待ってパパちゃん!怒らないで」とコント風に両親に割って入る技なのですが、その日は失敗しました。父は怒りの矛先を私にぶつけて「うるさい、黙ってろ」とどすの利いた力石のような声ですごみました。そのとき感じたことは、父を怖いと思うよりも、「調子に乗ったら失敗した!私は通用しなかった!恥ずかしい」でした。この冷や汗のような感覚は長いこと私の中で幅を利かせました。今でも傾向はあると思いますが、こういう記憶は人をとても用心深くさせます。

 

さて、父の狂気は次第にひどくなていきました。父のアルコールによる失態は、酒乱の中でもレベル強に達し、私が小学校5年のときの断酒まで続きました。その間に私は、家の中であらゆる恐怖を体験しました。ある日朝起きると、居間にたたんであった弟と妹の下着やシャツがずたずたの紐のように切り裂かれ、食卓の私の椅子の背は斧で何十回も叩きつけたように亀裂が入っていました。それから母は毎晩夜寝る前に家中の刃物を布でぐるぐる巻きにして、床下に隠して眠るようになりました。夜中になると私たちが眠っている部屋に父が乱入してきて怒鳴り散らし暴れる日が続きました。私たちは3人とも凍りついて眠った振りをしました。目を閉じているのは開けている以上に恐怖でした。父はお見通しで「寝た振りをするな、わかってるんだぞ」と怒鳴ります。それから父が泣き始めます。芝居がかった、大げさな演技のようです。泣きながら苦しみと怒りを私たちに何時間も訴え続けました。でもそれがなんなのかは当時の私にはわかりませんでした。ただもう、父は狂ってしまったんだとしか思えませんでした。それから今度は夜中に私が弟と妹を連れて逃げ出すルートというのを母と考えました。近所の優しいおばちゃんの家まで、裏道を通って逃げるのです。パジャマのまま、裸足で、何も持たずに逃げなさい、と母から言いつけられていました。そのために子供部屋の縁側の雨戸はいつも細く開けておくことになっていました。

小5で父が断酒をすると、私は少し期待しました。ですが、家の中の不和は治まりませんでした。父と母は常に不機嫌で言い争いました。その進歩のない様子に私はイライラしました。それで、中学生になると私は自分に言い聞かせました。「この人たちは、まだ幼すぎるんだ。私は追い抜こう。」と。ある意味彼らを見捨て、それによって彼らを許しました。それしか自分の正気を保つ方法がみつからなかったからです。

私は学校生活を楽しみました。小学校には、かわいい弟と妹がいました。弟が学校に入ると私はよく放課後、弟の教室に行っては弟の机やロッカーをきれいにしてあげました。特に何かしてあげようとしなくても、低学年の子供たちには大人気でした。昼休みになると、私とはないちもんめで手をつなぐために1年生たちが押し寄せて行列し、放課後には教室の前で出待ちをする子もいました。演劇部を自分で作って部長をやり、出演も演出もしました。放送部では朝の放送のナレーションの録音を頼まれ、卒業後も3年間は毎朝私の声が流れていました。3年生以降はすべて代表委員という、学校の児童会の代表になり、5年生ではその会長、6年生では議長になり、朝礼に出ては全校児童の前でフリートークをしました。通常は議会での決定事項を書いた原稿を読み上げるものなのですが、私は常に手ぶらで朝礼台に上がってみんなに語りかけるのが得意で、先生方を驚かせていたようです。先日33年ぶりのクラス会で、集まるなり担任だった先生が「僕の長い教師生活の中で、中村美緒のような女の子には一度も出会わなかったね」と当時を語ってくださったことで、私は当時の私にもう一度ねぎらいと感謝を告げることができました。本当にamazingな女の子だったのです。

私は10歳の誕生日には、自分を「今日から大人」と勝手に認定しました。私はそのときから人生を無駄にしたくないと思っていました。5年生になってある日私は思いました。私は今日から人生を意識的に生きよう。人は2度生まれるという。1度目は肉体の誕生日。もう一度目は意識の目覚め。だとしたら私は今日から人生で体験するすべてを意図的に意識して生きよう、と決めたのでした。そして、今のこの瞬間の思いを私はずっと、大人になっても覚えていよう。それが子供の考える幼い気迷いごとなのか、それともまっとうで大人になってからでも間違いのない思いだったかどうか確かめようと思いました。そのときの気持ちは今でもこうして覚えていて、あの決意は間違いなかったな、と思っています。そのときの決意は、良し悪しは別として今も生きています。

またブログにも時々書いていますが、先ほど述べた、33年ぶりに再会を果たした小学校5,6年生のときのクラスと担任の先生との出会いは人生の中でも最初の大きな贈り物にあたるものでした。私はこのときに個人ではなくもっと大きな愛というものを教わったと思っています。みんなを思うことの満たされた思い。そして心の通じることの楽しさ、幸せ。ありのままで全開の気持ち、ぶつかり合うことのおもしろさ。毎瞬、毎日が驚くべき発見の連続です。このときの楽しさ、驚きを先日みんなで確認しあうことができ、それぞれが自分たちの奇跡のような出会いと幸運を改めてかみ締めることができました。当時感じていたあの感覚は幻ではなかったのです。

当時はなにしろ目立つ子だったので、失敗も多くありました。おとなしくて言いたいことをあまり言えない友達にとってはうっとうしいことも多かったでしょう。それが影口となって、知ったときには愕然となったり、別のクラスのリーダーのような子から「全員で私を無視する」作戦を取られ、用事があって教室に行くとドアを閉められたり、私と口をきくといじめられている子もいました。前者のときはショックでしたが、後者のほうは笑えました。無視すると言っても元々あまり接点がないので、無視はうまく機能していないように見えたからです。

中学に入ると周囲の様相は一変しましたが、私は相変わらずでした。中学校は公立校でしたが都内でも有数の優秀な学校でした。そこでも私は学級委員をやり、演劇部を作り、中学になって不良というレッテルを貼られてしまった小学校からの同級生を助けたくて学校中を走り回っていました。時代は不良ブームの真っ只中でしたが我が校は「不良のいない学校」としてメディアに取り上げられたりしたこともあり、その実績を崩さないために不良の種つぶしに必死でした。私は担任からも信頼されそこでも教師生活30年で2人目に出会ったすばらしい生徒と言われました。良い学校作りに協力してくれと言われて呼び出されてはクラスの実情についてなど話し合いをしました。このようなことは小学校でもしていたことだったので私にとってはみんなを幸せにするための楽しい仕事のはずでした。けれども中学校というところはもう少しシリアスでナーバスでした。

小学校で仲良しだった数名が不良の種と認定され、彼らは今のご時勢では考えられないほどの圧力と暴力を受けました。私は体制と彼らの橋渡しをするはずが、双方に裏切り者のように扱われる体験をしました。あるとき彼らの気持ちを聞きたくて学校の裏庭で話をしていると、学年の教師全員が徒党を組んでやってきて横一列に並び、数メートル離れたところからメガホンで叫びました。「お前たち!たむろは禁止だ。なにをしている。ナカムラ!(私です)やつらを先導するな!先導するのはやめろ!」。メガホンで叫んだのは私を30年に2人と語った教師でした。あまりに滑稽でばかばかしく、けれどそら恐ろしさを感じさせる事件でした。

中学3年では再び奇跡のようなクラスと担任に恵まれました。教授というあだ名の頭のいい女の子と意気投合し、彼女がある日私に真剣な面持ちでこう言いました。「オミ(私のこと)、オミはその感情や感覚をちゃんと言葉にしたほうがいい。ちゃんと言葉にして自分の中で整理するの。でないとつぶれちゃうよ」。私はなるほどと深く納得しました。それからは自分の感じることを徹底的に分析するようになりました。四六時中、私は言葉と戯れました。感じたことをノートに書きまくりました。おかげで私は受験勉強どころではありませんでした。起こったこと、体験したこと、感じたことのすべてを言葉にせずにはいられませんでした。自分の感受性に見合った言葉を捜し続け、吸収しました。そのときのクラスメイトも変わっていて、放課後になると何とはなしに集まってきては内面の世界を語り合いました。当時、多分私と同じくらいに勉強が手につかないほど感じたことについて考えてしまう男の子がいましたが、その子は後に漫画家になりました。彼がいかにすべてを感じ、観察し、心にすべてを描きとめようとしていたか、その言葉や表情をとてもよく覚えています。彼も多分、当時のクラスメイトの表情を覚えているのではないかとずっと思っていました。彼がある日突然私のブログに「相変わらず、美しい言葉をつかう人だ」とコメントを残してくれ、私の記憶は確かだったと嬉しかったです。

高校生になってしばらくすると私は鬱状態に陥りました。そして次第に体重の増加をコントロールできなくなりました。食べては吐くという今で言う摂食障害になっていました。原因はたくさんありましたが当時はなにが起こっているのかわかりませんでした。思考から抜けられなくなり、悲観的で、暗い考えしか信じられず、身体がいつもだるく呼吸は浅く動機と息切れと不整脈、便秘と腹痛、眠れず起きられず、不安が強く批判的でピリピリと過敏で殆ど生きる希望がわかず、死にたいとばかり思うようになりした。

中学生までの私を知っている人は戸惑っているのがわかりました。こわくて声がかけられなかった、と後に言われたこともあります。自分としてはそうとしか思えない、そうなって当然だ、と思っていて、明るく生きている人には理解してもらえないという気持ちでした。

もしこんな時、家庭が平穏であれば、私の状態に対して両親は異常事態だと感じたことでしょう。しかし家庭内がいつも暴力的で荒れている状態にあると、私の静かな異常事態は察知してはもらえませんでした。あまりに体調不良が続き、病院に連れて行かれたとしても原因は不明で、はっきりした数値の異常は出てきませんでしたから、母にしてもそれ以上は手に負えないし、他のことで頭も心も手もいっぱいいっぱいだったことと思います。当の私自身でさえも、これくらいのことは自分のちからで何とかしなくてはいけないと感じていましたし、なんとかできるはずだともがいていました。しかし考えれば考えるほど、そしてなんとかしなければと思えば思うほど苦しさと不調はひどくなるばかりでした。

このような時期を経て、自立すれば、自分の生活を作ることさえできればこれらの苦しみはいずれさるのかと思っていましたが、それはむしろ逆でした。もちろん人生には新しい出会いや学びもたくさんあり、楽しい時もたくさんありましたが、それでも心の奥はなかなか満たされることはなく、不安や恐れから自由になることは困難で、時間を経るほどにそれは少しずつ侵食するように感じられました。

人はどこから来てどこへ行くのだろう。全ての苦しみへの答えはそこに集約されていると今では思います。

私が人生をかけて創造と探求して来たすべてを投入し、今ここで私はみなさんとのセッションをすることができます。

…この人生を生きる中でさまざまな苦しみ、痛みを体験していない人はいないと思います。すべての喜びも苦しみも、作り出しているのは私たちが持っている心。心と向き合い内面を探求することで、私たちは真の自己、真のしあわせを生きるようになることができます。真の自己の探求は自己がこの世に生まれた真実の意味を理解し、自己のすべて、人生のすべてをまるごと愛する人生へと変容させてくれます。

またその生き方は家族や周囲の人々そして地球全体へと影響を与えます。周囲を明るく照らし、癒し導く存在へと自己を変えてくれるのです。小さな痛み、苦しみも自分だけのこととしないで 、それにちょっと本気で向き合ってみることで、内なる扉が開き 世界が変わっていくという体験をどうぞ味わってみてください。

私自身が身をもって体験し、考察し、研究を重ね、本当に自分自身を幸せに変えてくれた、目覚めさせてくれたワークだけを使ってセッションを行っています。
これまで数え切れないほどの方々から、目を輝かせ別人のように表情を変えていかれる姿と、出会いとご縁をいただいてきました。私にとってはかけがえのない経験であり、夢中になれる瞬間です。

みなさんがこの扉をたたいてくださるのを心待ちにしています。


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