健康と自分の取り扱い

特定検診を久しぶりに受けました。豊見城に住んでいたときは歩いて、健康管理センターという立派な施設まで行けたのですが、こちらは徒歩圏内には公園と海と畑、あと聖地しかありません(笑)。聖地があるってところが最高なのですが。

知念に来てあっという間の5年目で、本当に時間の感覚がちょっと、あれな私です(笑)。

それから驚いたことに、特定検診の結果は郵送されてくるものと思っていましたら、市役所の方が直接持ってきてくださるということも初体験でした。東京育ちの私にとっては軽いカルチャーショックです。直接持ってきてくださった上にいろいろと解説してくださって、担当の方がとても勉強されていたこともあり、好奇心旺盛な私は結局1時間半くらいお引止めしてお話うかがいました。マンツーマン、贅沢過ぎます。

健康についてのお話なので、うちの家業とも関係してきます。その時に、印象的なことがありました。

基本に立ち返ってしろうとながら鍼灸のこと申し上げますが、鍼灸師になるには専門学校に3年通い、国家試験を受けて資格を取ります。夫と出会ったとき夫は専門学校を受験する前の受験生でした。

実は専門学校を一浪中だったようです。結構難しいものなんですね。彼も多分最初は簡単に考えていたんじゃないでしょうか。

学校では解剖学、生理学など、人体についての基本的な西洋医学的な知識を学びます。学校では様々な先生が教えていて、先生方によって考え方も違います。

夫は賀偉先生という、中国国宝級の老師と言われる先生のご子息との出会いがあり師事しました。陰陽五行説など興味のある方はご存知かもしれませんが、中医学と言われる中国の伝統医学を学び、それを主軸に鍼灸の施術を行っています。

たとえば頚椎ヘルニアの症例でも、見るところは首とか骨ではなく全体を診ます。わかりやすい記事がありますのでよろしければ夫のブログをご覧ください。あなたに合った治療法―頚椎ヘルニアの症例

これは人体という生命を扱う上での捉え方(哲学をも含むといってもいいでしょうか)を楚にし、非常に多くの臨床のデータに基づいて構築され体系化された学問です。簡単に言えば、西洋医学ではからだを見る時、正常範囲がありそこからはみ出たものは病気という異常だと見ますが、中医学ではそこにある生命の働きというものを視野に入れますので、その生命力の流れ、バランス、働きなど、それを阻害するものの原因などから診ていき、未病の状態から改善を図り、体質改善などを試みることが可能です。

この作業は施術者の視点が重要になり、それによって施術の方針が違ってきますから、自ずと結果に影響してきます。しかし、この見方から行くと、すべての症状に対して有効に働く可能性を持った療法であるということができると思います。

私は夫と出会う前から、鍼灸治療が好きでした。というか、とても頼りにしていました。というのも私は幼少期からあまり丈夫ではありませんでした。まず扁桃腺が肥大で、しょっちゅう高熱を出していました。

熱を出すと母が自転車の荷台に私を乗せてえっちらおっちらと小児科医の先生の所へ連れていってくれ、そこでは最高に強い抗生物質をいつもいただいていました。母がよく、うちの子には弱い薬じゃ効かない、というようなことを言っていました。

母の母は成人するころまでとても虚弱だったようで、そのためもあり健康法に熱心でした。うちには当時話題になる健康法が次々とやってきました。また今でこそ少し有名かもしれませんが、操体法なども祖母はコツコツと実践していました。一体どうやって情報収集したんだろうな。とても知的で頭のいい、優しい人でした。

私ときょうだいもみなどこか弱いところがあり、それぞれいろいろと与えてもらい、今更ですが随分いろいろ試してもらったんだな、と思います。

でもほとんど芳しく効力を感じたことはありませんでした。独特な鍼灸整体をする先生とあとは演劇の世界に入ってから野口体操や演劇仲間の意識の高さに救われたというのが実感です。その後いろいろと体験し、結局私の行きついた所はすべては意識のエネルギーが作り出している、ということです。

そしてそう言った面でも鍼灸は心と感情のエネルギーとその作用を理解していてそれらを含めた全体的な治療ができてすばらしい、と私は思っています。

夫と出会う以前の私は本当に生きるのに精いっぱいで綱渡りのように人生をつないでいた感じです。HSPやエンパスにはど真ん中に当たる人間だと思いますが、自分の取り扱い方がわからないまま荒波を乗り越えるのは本当に大変でした。

感情が揺れやすく過敏で、疲れがたまると鬱っぽくなりますし、PMSもひどかったので親しい友人に言わせれば「月いちで落ち込んでるよね」という感じでした。

あの手この手でなんとか日々の荒波を乗り越えますが、度々転覆しますし、一度転覆すると復旧することに多大なエネルギーを要しますので、生きることは困難の連続、というイメージでした。

しかし家族には私よりももっと重篤な人が2人もいたので、自分のことはとにかく自分でなんとかするしかありません。その2人は精神科のお薬がないと生きていけないというような状態でしたから、自分としては薬を否定してはいないけれど、その作用についてもだいたいわかっているという感じでした。

そんな自分が困ったときに頼るのは鍼灸治療院でした。風邪で熱を出すととてもしんどいのでお薬で緩和させますが、充分養生するゆとりもなく、なんとか治る力を出したいとき鍼灸院へ、という感じでした。風邪が長引いて受けるダメージや薬代を考えると、鍼灸は一度の施術でも力を引き出してくれるので自分に希望も持てるし心にも元気が出ました。

一度は大事なイベントでのライブがあるときに熱を出してしまい、薬を飲んで数日寝ていても一向に良くならないことがありました。思い返せばこのようなことへの恐れは表現の仕事をしていて常に私を脅かすものでした。その時ちょうど、近所にすごい鍼灸の先生がいるという話を、まったく別の所で3人の人から聞かされていました。

それで私はもうろうとした中で起き上がり支度をすると、その鍼灸院の前まで歩いて行きました。予約がいっぱいで、多分電話では埒が明かないと思ったのです。ライブは明日です。今日希望が見えなければ明日ステージに立つこと自体を見直さなければなりません。準備に時間をかけていましたし、そうなれば関係者に多大な迷惑をかけざるを得ない状況に追い込まれていました。

大通りから鍼灸院のあるビルを見上げながら、祈る気持ちで電話をかけました。先生が直接出られ、事情をお話しているうちに先生が「もしかして、うちの前から電話している?」と気づかれました。はいと答えると、やっぱり。車の音が電話から聴こえるのと同じだからさ、と言われました。

先生の見解では明日に間に合うかどうかは五分五分、とのことです。もしかしたら今より悪化して完全に声が出ない可能性もあるとのことでした。しかしなぜなのかその時私に迷いはありませんでした。他に希望がなかったですし、なぜか怖くありませんでした。

先生は「上がっておいで」と言って治療を引き受けてくださいました。喉にながーい鍼をぐぐぐぐっと刺していきます。4本、5本と鍼が入りました。これでいい、という手ごたえを先生が得ているのがわかりました。

結果としては、その直後からまるで憑き物が落ちるように症状は軽くなり始め、翌朝には病み上がり感はあるものの、熱が下がり、喉がはれ上がってつぶれるような感覚や痛みは消え、むしろ普段より軽やかに開いている感じさえあります。リハーサルまでは本当に張り詰めた気持ちでしたが声が出ました。それも普段よりむしろ楽に。それはまるで奇跡のようでした。

実を言えばそのイベントこそが、主人との出会いでもありました。私の扁桃腺はそれ以降とても良くなり始めました。鍼灸学生になった主人は会うたびに(練習台でもあり愛でもあり)私への施術を熱心にしてくれました。根本的な体質の変化もあったと思います。それからは自分が実はもとから健康体だったかと思えるような変化もありました。

冒頭の市役所の方に鍼灸のお話をしたとき、「鍼灸こそ、予防医学なんですよねえ」と、ふと口にすると「え、そうなんですか?それこそ対処療法ではないんですか?」と言われました。その方が健康についてとても勉強なさっていたので逆に私がその言葉に軽く驚いてしまいました。

痛みを取るだけというような対処だったらそれこそ薬でいいや、となるでしょうし、逆に薬を使うのが嫌だから代わりにもう少し効果の薄い昔の方法を用います、というイメージが代替療法という言葉の意図なのでしょうか。

催眠療法の領域でも時々みかけるのですが、「薬を使わない」といううたい文句があります。私は改めて思いますが、薬を使わないことが良いことだとは本当に思っていません。薬がない世界のほうが今より良い世界だとは全く思いません。お薬で楽になるたびに、本当に今の時代に生まれてありがたいな、と思います。ただ、お薬にできることとできないことがあるし、お薬には弊害があるという事実があるだけだと思います。

そんな才覚はありませんが、もし私がお医者さんだとしてもきっと、できることを一生懸命やるだけだと思います。西洋医学の先生の言葉で「西洋医学の治療に限界を感じたことから」代替医療を学んだとおっしゃる方はよくいらっしゃいます。双方で補い合うことができれば、その恩恵を受けるのは地球に生きとし生けるみんなだと思います。

心のエネルギーと、からだの気の径は関係しあっています。私たちが知らずに思い続けていることは何かを創造もし、破壊もします。完全に破壊してしまう前にそれをサインとして受け取り、気づきと見直し、そしてバランスを促し調整することは、まさに自分の取り扱い、自分との付き合い、自分の生き方とつながっています。

自分の生き方をみつけるのは自分しかいません。その生き方を助けてくれる味方を地上にみつけるのは幸せなことです。なんだって敵じゃない。味方にするかどうかは自分が決めます。

そういったことを考え選ぶ権限を持てるということ自体がもう、天から与えられた贈り物だと私は思います。自由であるということの在り難さよ、と思います。自由の行使には理解がとても大事なのだと改めて思います。自分の知ったこともできれば多くの方に活用していただけたらと願っています。

夫と2人でやっているセラピーサロンでとても大事にしていることは「あるといいながある」なんです。コンビニエンスストアの宣伝とおんなじですが、自分たちにとってのあるといいなをかたちにし続けたいと願っています。

ヴォイスヒーリング

ヴォイスヒーリング・ワークアウトというセッションをしています。自分の声が自分を癒してくれることは私のからだが一番よく知っている、という気持ちからこのセッションを始めました。

声を発することはそれだけでエネルギーの発散になることは多くの人が体験済のことと思います。

たまっている感情の持って行き場がないとき、人は歌を歌います。嬉しさを歌で表します。私はどちらかというと子どものころから、辛いときに歌っていました。胸が詰まるような思いがあるとき、歌はその思いを押し流して安らかにしてくれます。

歌を生業にしていましたから、どんなコンディションの時も歌を歌いました。このコンディションで歌えるのだろうか、という状態を何度となく体験しました。その度、歌は私の思惑を超えて、私を助けてくれました。歌い始めることで、私のコンディションは整っていきます。仕事を終えるころにはすっかり元気に穏やかになっている、という奇跡的な体験を積みました。

東京で何度か、ヴォイスヒーリングのワークショップを受けました。天音さんという男性のファシリテーションを受けましたが、それは大学の演劇専攻の初期の頃の授業に似ていました。すべての表現は、イメージです。イメージを具現化するためにテクニックが存在します。

天音さんのクラスで「天から自分の脳天を通り地面を貫くような声」という課題がありました。稲妻が一気にバリンと落ちてくるようなイメージです。十数人の参加者が各々イメージを声にしていきます。私の番になり、私はイメージを声にしました。私の声はまさに天地を切り裂く稲妻のようで、一瞬空気が凍ったようになりました。

その時の天音さんのリアクションが忘れられません。「おお、あなた、その声は、なにか武道をやっていますね。なにをやっていますか?」

天音さんは古神道武道をされていて、発声の基本に取り入れておられたようでした。私は「いいえ、武道はやっていません」と答えました。すると

「いや、そんなはずはない。絶対に武道をやっているはずだ。なにをやっていますか?」あまりに真剣にお尋ねになるので「武道はやっていませんが、演劇をやっていました」とお答えすると

「ああ!演劇ですか。なるほどそれでか。演劇やっている人は強い。なにやっている人よりも強いです!」とご納得されていました。そのご納得のされ方がまた印象的でした。

演劇が強い、という言葉がおもしろかったのですが、確かに演劇は、心と身体とイメージ、そして魂の三位一体のための訓練を積みますので本気で取り組んだ人は生半可な専門家よりも人間の探求に長けているであろうとは思いますし、実際の鍛錬を積んでいますので体現者でもあります。

ちなみにジャズを歌っていたころ、NYでヴォイストレーニングを受けたときも、内容は演劇の基礎訓練の一部ととても似ていました。その時にも初めてのレッスンで先生から「あなた、すでにプロで仕事しているわよね?」と言われました。演劇にはダンスも歌も、からだと言葉とイメージを使ったあらゆる表現が含まれます。私は演劇の現場を離れて久しくはありますが、この研究と訓練を積めたことに感謝が絶えません。

さて、私のセッションでのヴォイスヒーリング・ワークアウトは実際どんなことをするのかお話します。まず、とても簡単な課題を用意しています。どんな方にも対応できるような、できる限りシンプルなテキストです。この枠組みの中で、その方が望まれるような形を探りながら進めます。

とても声を出したい、表現したい、歌のため、セリフのため、というようなご希望があればその方向へ広げます。もっとシンプルに、声で癒すってどうすればできるんだろう、というような、癒しへのご興味が強い方にはそのように対応します。癒されたい部分がはっきりとある場合には自然そういう流れとなります。

この辺りはご本人にもなにが希望かがよくわからないという場合も多いのですが、実際に声を出し始めてみるとその方向性が見えてきます。簡単に言うなら、その方のエネルギーを読み取らせていただきながらそちらへと誘導させていただくようなかたちです。

そのこと自体も自分でそうしようと思って始めたわけではないのです。しかしセッションというのはどの場合もそういうものなのですね。エネルギーが、導いてくれるのです。

自分の歴史を振り返ってみると、演劇の訓練や芝居作りの中に、即興というものがあります。設定だけを決めて、よーいドンでお芝居が始まります。セリフもストーリーも決まっていないので、そこでなにが起こっているか、それに自分や他の参加者がどう反応しアクションするか、イメージの積み重ねで内容が動きます。これは本当に様々な面で試されまた鍛えられる訓練です。私はこれがとても好きでした。

更にさかのぼれば小学生の時、即興でお楽しみ会の出し物の作品を作ったこともあります。これは幼稚園のころのおままごとに通じるものがありますね。おおいにやっていました。その時のメンバーや内容を覚えているものもあります。

子どものころはこういう自由な創作を夢中で作ったりしています。年がいって頭で考えるようになるとうまくできなくなるのですが、その仕組みも今ではよくわかります。

ジャズにもセッションがあります。私は音楽の基礎が足りなかったので、ジャズの自由度がいまひとつで残念でした。そうなのです。自由であるためには基礎を熟知し、全体の仕組みを把握し、それらを体で覚えるべくして訓練し、そのうえで理屈は忘れて夢中で遊ぶ必要があるのです。これはすべての創造に関して言えることですが、人間の人生という最大の創造にも言えることです。

そしてその人生の創造の基礎知識といえるのがスピリチュアルの学びではないかと思います。偉大な覚者クリシュナムルティは、瞑想は最高の芸術であると言いましたが本当だと思います。瞑想は創造の源につながりそれを知ることです。

声はその人の霊性を示すと言われたりします。その人のエネルギーやその状態が声という波動になって宇宙に響き渡ります。その声から受け取ったメッセージに今度はこちらからもリクエストを伝えます。こんなところに、こんなふうに、響かせて、というふうに。そうすると声はそのリクエストを含んだ響きとなって、その人のフィールドにエネルギーを与えてくれます。

このヒーリングはまったくがんばることなく、力みなく、あるがままでできるというところがすばらしい魅力です。大きな声を出す必要もありません。

大きな感情の解放を体験なさる方もいらっしゃいますし、深い静寂を体験される方もいらっしゃいます。未知の自分との出会いにワクワクを味わわれる方もいらっしゃいますし、内なる神とのつながりの中に過ごされる方もいらっしゃいます。

エネルギーワークに共通するのは、本来誰もの中に宿るパワーを再発見する喜びです。こんなことに日々取り組んでいます。

心のセラピーで体験する真実について

セッションへのお問い合わせで多いのが「どんなことをするんですか」というご質問です。HPにはたくさんのうんちくが述べられていますが、初めての方にとっては「で、そこへ行って何をするの?」というお気持ちは当然のことと思います。

私のセッションは基本的に対話形式です。使うのは言葉とエネルギーです。ヒーリングのセッションは対話よりもエネルギーが主体ですが、マッサージやその他の体への手技や道具などは用いません。リラックスしていただくためにリクライニングの椅子にもたれて足はオットマンの上にあげていただくのが通常ですが、手を触れるのは足の甲と、ごくまれに両肩だけです。

こうやって改めて書いてみるとますます不可思議な感じがしてきました。しかしカウンセリングというのは通常対話だけです。そして催眠療法も言葉だけです。それだけで内的な変化「気づき」を促進することができるのですが、そこにエネルギーヒーリングを取り入れてパワーアップしているようなイメージです。

私自身は芸術的な部分、感受性や感覚が強い部分と、非常に論理的で偏屈なところが混在した人間です。不思議は大好きだけど、すべての奥にある秩序や法則を知ることがもっと好きです。ですのでセッションも当然ながらみなさんが「不思議と思うことが不思議でなくなること」は一つの目的でもあります。スピリチュアルというとなんだか不思議そうなことをさも不思議そうに扱うことのようなイメージが持たれがちですが、本来まったく違います。不思議に見えるのは、奥に流れている原則がわからずに表面化している現象だけ見るからなのです。

どこまでいってもどうしても原則だけで割り切れないものだけが本物の神秘です。読んで字のごとく、神の秘法です。もちろん神の秘法にもその原則があるのですが、それを知るには時間と距離に縛られた私たちの頭には解釈ができません。しかし私たちはすでに時間と距離を超えた原則に影響を受け、支配されています。そうです。私たちは3次元世界だけに所属する生き物ではないのです。そもそもそうであるのにそれを理解せず、理解できる3次元の理論だけでものごとを解決しようとすることに無理があるのです。ですから私たちの世界はいつも「問題だらけ」なのです。

私たちが自分という存在の真実を思い出し、その次元に意識の波長を合わせると、私たちの本来のエネルギーが正常に作動し始めます。心も視野も広がり、心身が楽になり始めます。魂と肉体の関係の歪みが戻り、本来の生命力やパワーがあるがままに流れるのです。

そして、本来持っていて使うべくして与えられてきた方法での生き方が可能になります。人間が人間以外の動物の生き方をまねてもお手本にしてもどうしてもうまくいくはずがありません。彼らは本能を最大限に活用して生きますが、私たちは本能のままにいくら進もうとしても理性が邪魔をします。

そう言うと、理性よりも本能を信頼しようと考える人も出てきます。確かに本能が優位な人は、生存する能力に長けています。スピリチュアルな人と「この世での生きづらさ」は現代ではほぼイコールとさえ見られます。

理性というのは単に理論的なのとは違います。私たちの内にある魂の質は、理性の愛です。本能は「奪え」と言っても、理性の愛は「与えよ」と私たちに命ずるのです。私たちを葛藤させるのは元を辿ればこういった本質的な乖離でしょう。

この挑戦は人間の本質的な存在意義とテーマを表していると私は思います。

私たちの魂は人間の肉体に宿ってからこのかた、肉体に従うことを強いられています。肉体の制限に慣れ、肉体の法則を知り、肉体の特性を学ばなくてはなりません。その最初のトレーナーはお母さんです。自分の面倒のみかたはなるだけ手っ取り早くお母さんから盗まなくてはなりません。

ですから潜在意識という「習慣の領域」は人生の最初の3年でおおかたを吸収し基盤を完成させます。これがインナーチャイルドの正体です。

そして身に着けた習慣を生かしてこの世界、社会に適合することを一義として生長します。成人するころにはすっかり「肉体としての自分」こそが自己であると信じ切っています。そしてその自己をゆるぎないものとして確立し、それを生かして生き抜くこと、それがこの世での勝利であるとの価値観を疑いません。一般的には。

しかし、その生きざまと理性の愛はことごとくぶつかることでしょう。無視しても無視しても、その火種が消えることはありません。私たちは愛によってしか本当の関わりはできませんし、つながること、コミュニケーションができません。

いかに自分を愛からそらしてごまかしたところで、それが突き付ける人間の存在としての学びから逃れることはできないのです。

私は今では思います。奪うというゲームはなんとお気楽なものか、と。与えるという本質を生きないで、本当に生きたと言えるのか、と。

多くの人がまだまだ本能をこそ本質だと勘違いしているのだと思います。皮肉なことに、ゲームが洗練されるにつれて、それは顕著になっていくようです。みんなが本能を満たすことに必死です。もっと、本能を刺激してくれ、でないと生きている感じがしないんだ。

しかし、それがあなたの渇きを満たすことは永遠にないでしょう。本当に渇いているのはあなたの中に在る、神だからです。神は、あなたの愛がその本分を発揮することを渇望しています。神の分身であるあなたの魂がその本質に目覚め、神とひとつになるべく始動することを。

あなたがそのことに目覚め、それ以外のことをまずは脇にどけていいという選択をしたとき、あなたの渇きは真の満足を知るでしょう。それは言葉にすれば本当に些細なことかもしれません。かたちにすれば見えないほど小さな事かもしれません。結果として。けれどもあなたの内側の世界は宇宙の前進のらせんが逆転し始めたほどの衝撃なはずです。これはやってみた人だけがわかることです。

私たちは条件やかたちを何一つ変えずとも、絶望から希望の状態に移行することができます。自分で作った牢獄から自分で出るように、自分で作ったルールを自分で変更するように。しかしどの場合も、まず自分がどんな牢獄に閉じ込められれ、どんなルールに縛られているのかを見る必要があるのです。それがどれだけ無意味で滑稽で不要なものかを思い知ればそれを手放すことは本当に容易です。

しかし暗黙のルールの多くは自分の世界に慣れ親しんであたかも自然にそこにあるかのように見えるものです。

私たちが自分を縛っている本能や感覚的な習慣という眠りから、本質である理性の愛に目覚めると、波動が上がります。次元が上昇するのです。理性の愛は、私たちの頭が知っている正しいことなどとは全く違っています。そこは能動的で発展的で喜びに満ちた創造性が支配する世界です。

その時、私たちを縛っていた鎖はもはやその重たい次元での姿を保っていることはできません。それが、問題が問題でなくなる時です。その時心は解き放たれます。一度放たれた心は狭い檻にもはや戻ることができなくなります。果てしない本質への無限の旅が、喜びとともに始まるのです。

「親をゆるさなくても幸せになれる」が生む誤解

「親をゆるさなくても幸せになれる」っていう、セラピーの宣伝文句を見かけてせっかくの機会なので連投します。

このひとことの中にどれだけの誤解がつまっていることでしょう。インナーチャイルドの捉え方すら世間では誤解だらけだというのに・・・。

ではゆるしとは、幸せとは、なんなのでしょうか。ゆるさないとはどんな状況なのでしょうか。

「怒りを手放すことではなく、怒りがあることを認めることが大事」とそこに書いてありました。しかし怒りを手放すことは、怒りがあることを認めなくてはできないのではないでしょうか。ないものを手放すことはできません。手放すことと認めることはひとつです。

また、そこで言う手放すとは、「無くすこと、止めること」となっているイメージです。

「親をゆるさなくても幸せになれる」という文のメッセージは「あなたを不幸にしている原因は親に怒っているから」そして「その怒りを止めれば幸せになれると一般的に言われている」「しかしその怒りを無理やり無くす必要はない」「怒りがあることをむしろ認めればいいのだ」・・・それでは「ゆるし」と「手放す」という言葉がかわいそうです。あまりに誤解を与え過ぎなのではないでしょうか。

「ゆるさないこと」は私たちに不調和をもたらす根底的な要因です。ゆるさないことは私たちの世界に敵を作り、防御を必要とさせます。そこには恐れが存在します。恐れに防御されているところで私たちは愛を感じることができません。

そしてそのことを具体的に見つめ解体していく過程で心は、ゆるさない思いを作り出した体験を遡って見直すプロセスを通ります。その体験は多くの場合、最初の対人関係つまり親との関わりの中でなされ、原型つまりパターンを作ります。

その仕組みを紐解き理解することは親との関係を理解させ、多くの人を親との心理的和解に導いてくれます。そのことによって私たちは、もうそれ以上ゆるさずにいなくてはならないという苦しみから解放されるのです。

繰り返しますが、ゆるさないことこそが心の苦しみなのです。なぜなら愛している状態、愛の中にいる状態が、人間にとっての「自然な」「幸せな」状態だからです。(この点についての考察は前回の記事『愛をつかむ』をご参照ください)

そもそも「不幸の原因は親をゆるさないこと」だという命題そのものが誤解です。私たちを苦しめているのは関係性において自分の中に作られて確立されてしまった心の反応のパターンなのです。

ですから私たちは幸せになるために他者をどうこう思ったり思わないようにしたり好きになったりする必要などありません。私たちはただ、自分を理解することを必要とします。そしてさらに言うなら、関係性の中で傷ついている自分に気づいてあげて、さらに傷ついている自分を長年誤解し切り捨ててきた自分をこそ、ゆるす必要があるのです。

解放までの間に、たまっている感情、こじれてしまうほど膠着している感情と安全に向き合い、感じ切ってあげることはとても重要です。感情はエネルギーです。一度作り出されたものはしっかりとそこに寄り添って燃焼してあげる必要があります。それが「認め」「寄り添い」「感じ切る」作業です。

(ヒプノセラピーでのインナーチャイルドワークは、理解と感情の解放を同時的に行うことができ、その点でとてもパワフルで、癒しのプロセスを非常に早めてくれるものであると言えます。しかしそのメカニズムと役割にも誤解が多いのが現実です。)

「ゆるし」は人間の思考にできることではありません。理論的に整理し結論付けて「許した」ことにしている方にもたくさん出会います。でもゆるしはハートにしかできません。ハートに住んでいる神と、世界に遍在している神がゆるしという愛の世界へとあなたを運んでくれるのです。

あなたにゆるす準備ができたら・・・―それは、もう一人で戦う人生はいやだな、と心底思ったときです―あなたは「ゆるさせてください、どうか」と、宇宙に向けて決意を表明すればいいのです。

冒頭の文の真意はわからないではありません。親をゆるそうとしてあなたはひとりで奮闘する必要はないし、その奮闘こそがますますゆるすことを難しくしています、というのが真実でしょう。あるものをあると認めて向きあいましょうよ、ということなのでしょう。でもそのことが本当は「手放すこと」であり「ゆるし」のプロセスの一部なんです。確かに世の中はキャッチ-であることでしか人目を引けないのかもしれません。

でもそれでも、心を扱う者として私はなるべく本当のことを言いたいし、その想いが言葉に乗ってすべての人のハートに届くものだと私は確信しています。