無いものねだり

だいぶ以前に、ネット上で「ありがとうの反対はなんでしょう?」というのが話題になっていました。
憎しみ?とか怒り、とか、無関心?という返答もありましたが、その設問の答えは「あたりまえ」でした。

なるほどうまいこと言うね、と思っていましたが、言葉の通りだなとつくづく思います。
反対語がどうのというより、ありがとうは「在り難き」ことが与えられたことへの感謝なのですね。

もらって当たり前、持っていて当たり前と思っていたら、在り難き幸せは湧いてきません。

また他者への感謝は意識していても、自分自身に対して、例えば自分が無意識にできていること、となるとほとんどの人は敬意を払いません。
無意識だからそうなるのは当然ですが。

今の世の中、やろうと思えば多くのことが体験できます。
学校へ行って習ったり資格を取ったりもやればできる。
やらないからできない。
そうなってくると、まるでそういうことをしないことが怠けているような気までしてくる。

やってます!という派手なエネルギーにみんながあおられているような気がしてきます。
自分への付加価値をたくさんのっけていかないと満足がいかない。
そうでないと生きていけない、とまで思い込む。
たくさんのっかっている肩書が自分の価値だ。
はっきりそう思わなくても、なんとなく空気の中にそういうものがあって、知らず知らずに同意している。

私も過去はそういう性質でした。
スケジュール表が埋まってないと落ち着かない。
とりあえずやった、という手ごたえがほしい、という感覚に追われていました。
常に焦って人生を生きていたし、やってもやっても満足というものもありませんでした。

そして、自分ができていることはみんなできてあたりまえ。
だからそれ以上のことをしなければ、と感じていました。
当然、できている自分への敬意も、天から与えられた資質への感謝も足りていませんでした。

思い起こせば母はそういう観念を強く持っていた人だと思います。
客観的に見れば彼女はとてもユニークで突出したところをたくさん持った人なのに
「容姿は十人並み、才能がない、結婚なんてだれでもできる」が口癖でした。
娘の私はなんとなくそれを刷り込まれて、十人並みにはるかに劣る自分の容姿を始めいろいろなものに劣等感ばかり。
あげく誰にでもできると教えられたはずの結婚が、望んでも望んでもできないということを母に証明するかのように苦労しました。

結婚は確かに籍を入れればできるのです。
問題なのは、結婚を通して幸せになるかどうか。
結婚しようがしまいが、自分を幸せにする努力こそが大事です。
それを置き去りにして社会や誰かから認められるための努力ばかりに気をとられていました。

認めてもらうための付加価値と、幸せになるためにみつける自分の本当の価値とでは、天と地のように違います。

どっちもほしい、と思う人も多いかもしれませんが、両方いっぺんに追いかけるのは実際にはほとんど不可能かもしれません。
付加価値がいっぱい乗っていれば自分の中身をみつけるのにそれだけ目くらましが多く、また本当の自分の価値を優先しようとしても付加価値を手放すのがこわいのです。
人間は失うことをとても恐れる生き物だから。

幸せになること。
それを求めること。
真剣にですよ。
そうすると、人は大切なことに自然目が向くようになります。
それは心です。

幸せになるのにはたくさんのものをバランスよく持っていなければならないと多くの人が思っているようです。
それで、あれこれ手に入れるために、幸せになることを真剣に求めることを後回しにしてしまいます。

でも本当に足りないものも、本当にみつけなければならないものも、人生にはわずかです。
それ以上に莫大なたくさんを、私たちはすでに、持っています。

ちょっと足りないわずかなもののために努力し、すでに持っている莫大なものにたくさん感謝できたら、人生はとても豊かです。

気づきはそういう豊かさを与えてくれます。
瞑想はだから、人を幸せにするのです。

いのちのバトンのアンカーとして

私たち夫婦には子どもがいません。
それは一見、一個人のささやかな出来事のようですが、あるときふと思いました。
人間が人間になったときから或いはそれ以前からここまでずっと、親から子、親から子と、一度もいのちが途切れることなく続いてここまで来たんだな。
私がこの系列のアンカーなんだな、と。

時々このイメージをしてみます。
子供がいる方だって同じように、ここまでずーっと命が受け継がれているわけで、それって本当になんだかすごいなーと思います。

だからまあ言ってみれば、今地球に生きているみーんな生き延びて子を産んできたある意味すごい人達の子孫なのではないでしょうか。そのつながりを頭でおっかけてみると、これはかなり奇跡的なことに思えてくるのです。

さて、記念すべきそのアンカーとしては、なにか意識すべきことってあるのかな、などと少し突っ込んで自分に問いかけてみました。
で、返ってきた答えは、充分楽しむこと。すべてに感謝すること。

充分楽しむってことは例えば私にとっては、いのちの仕組みとか人が生きるということに対してちょっとでも納得いくように生きる、という感じでしょうか。

すべてに感謝できるように生きるというのは結構大変なことです。
自分に起こることや自分が選ぶことに納得がいっていないとなかなかそうは感じられないからです。

ところで、ミームってご存知ですか?

ずっと以前、銀座でホステスをしていたとき(していたんです)、お客さんでサラリーマンだけど科学者のような方がいらして、多分研究職か技術職という感じでしたが(いや、もっと偉い、長が付いたような)、私が一曲入魂でカラオケを歌って、芝居とか歌とかをやっているような身の上をお話していたらその方が感心してくださり、「ミームって知ってますか」とおっしゃったんです。

当時はググるという術を知らなくてなんとなく理解したような感じでしたが、改めてググってみるとこんな感じ。

ミーム(meme)とは、人類の文化を進化させる遺伝子以外の遺伝情報であり、例えば習慣や技能、物語といった人から人へコピーされる様々な情報を意味する科学用語である。

人類の文化における「進化」とは、例えば古代と現代では衣食住が異なるように、社会学的な意味で文化が大きく変化することである。こうした文化的進化は、脳内に受け継がれる情報が進化した結果である(脳そのものの生物学的進化ではない)。社会的に共有される情報は会話、人々の振る舞い、本、儀式、教育、マスメディア等によって脳から脳へとコピーされていくが、そのプロセスを分析するため、それらの情報をミームとして定義し、分析することにこの概念・科学用語の意義がある(ただしミームとは何かという定義は論者によって幅がある)。ミームを研究する学問はミーム学(Memetics)と呼ばれる。

ミームは遺伝子との類推から生まれた概念である。それはミームが「進化」する仕組みを、遺伝子が進化する仕組みとの類推で考察できるということである。つまり遺伝子が生物を形成する情報であるように、ミームは文化を形成する情報である。遺伝子は子孫へコピーされる生物学的情報であるが、ミームは人から人へコピーされる文化的情報である。遺伝子が「進化」するように、ミームも「進化」しており、それによって文化が形成され、変化していく。

さらに遺伝子の進化とミームの進化は無関係ではなく、相互に影響しあう。

それでその方は、「だから結婚して子どもを授からなくてもあなた方のような人は失望する必要はない。遺伝子よりもミームなんですよ」と、なぜだかそんなお話をされたんです。

当時は「いやいや私はあきらめてないぞ」と思っていましたが、それでもミームの存在はとても魅力があります。
肉体よりも意識、という真実の裏付けをしてくれているようですし、子どもがいなくても、自分が深く学んだことや体現したことは情報として引き継がれ生かされるわけですから。

自分を懸命に知ることや丁寧に向き合って生きることは、決して自分やその周辺だけの出来事ではないのです。
私たちが個のしあわせを生きることは、自分のためだけではないのです。
そうやって自分のための大事な一歩を踏み、歩むことが、世界のための、次の誰かのための一歩になります。すてきでしょ。

スピリチュアルの教えでもそうですが、科学でも、私たちは誰かを変える必要も誰かに全部わかってもらう必要もないのです。

自分が知ること、自分が体験し実感すること、自分の生き方を確立することこそに価値があります。自分の価値を自身が生きることができれば、それが即ち他者の手掛かりになり共有財産になるということなのです。
そして日々ミームによってその財産が分配されるわけです。
私は俄然やる気がでますね。

すべての人に用意されているギフト

私自身にとって、真の救いとは、すべての人が多種多様な側面を持ちながらもまったく同じ存在であるというところだ。内なる神について話すのは、それがすべての人のものでありひとつであるからだ。

パラマハンサ・ヨガナンダに圧倒的に惹かれるところは、師がそのことを世に、ひとりひとりに伝えることに人生をかけた人だからだ。

ヨガナンダが宗教という言葉を使ったとしても、それは既存の意味とは違っている。また彼が教祖のように見えてもそれも違っている。

彼は「私は私の中に神をみつけました。あなたにもそれができます。やってごらんなさい」と常に私たちに呼びかける。私を敬いなさいとは決して言わない。「私が神を愛するように、あなたも神を愛してごらんなさい。神は私に応えてくださったようにあなたにも応えてくださいます。私は幸せです。あなたもにもなれます。」と言う。彼は人類への奉仕者であり、仕えられる存在ではない。

私は暗闇の中にいたころ、そのように言える人になりたいと心から願った。まだ自分の中に神がいることすら知らなかったときから。その願いが伝わり、私はそっと導かれ続けたのだと思う。

そっと過ぎて、長い間私はそのことに気づいていなかったが。

内なる神の話をし、それを信頼する生き方を始めても、自分がすぐにその神の真実を知ることはできない。どうにか自己の中の神を信頼しかけても、今度は、他者の中の神をみつけることへの壁が来る。

しばしば起こることだが、「私には神がいます。あの人には本当にいますか?(ちょっと信じがたい)」「私にもあの人にも神がいます。でもその神は別々の神です。」という認識が、無意識に自分の中に生きている。

もしその神が別々の神なのだとしたら、それは神ではない。それこそが悪魔と言われるものなのかもしれない。

神が分離していて対立したり、利害のために対立するものを後押ししたり、或いは罪を罰したりする存在であるなら、それはただ、人間のエゴの想念が拡大したものだと思う。(なるほど、それはやはり悪魔かもしれない)

内なる神とは、意識という本質のなかの最高次元の場のことも言える。それはすべてをひとつにする。対立するものの存在しない次元だ。

それを私たちが求めることに意味がある。

神が別々であるということはあり得ない。だから神なのだ。

だから、私たちはどのような壁からも解放されることが可能なのだ。

この世はない。神はある。

エゴは別々である。しかしそれは過ぎ去る幻想である。神は永遠に、無限にある。

それだから、私たちはすべてを超えて、わかり合うことができ、赦すことができ、ひとつになることができる。

それが、宇宙という生命を包括する。拡大し続けるという不可思議な活動を可能にする。

そしてそのことだけが、私の心に平安を与える。

分離、対立、偏った考え、利己的な思い、私欲は、私たちを刺激し駆り立てる。それを生命の営みというならこの世は地獄。天国はその対極ではなく、それを拒否するところに存在する。

どうしようもなくわかり合えないあなたと私の神はひとつである。その神は求めることにより与えられる。

私は求める。それがどうにも見えてこないゴールであっても。それに悲しみや苛立ちを感じることを私は私に許そう。

そしてその悲しみや苛立ちのすべてを神に捧げる。小さき私に神は喜んで慈悲と慰めを与えてくれるだろう。

無条件の愛とはそういった寛容のことだ。

神は寛容である。神はあなたの小さな間違いにいちいち罰を与えるどころか、その間違いをすべて赦し、余りあるほどに与える。

私たちがこの世の法則によって利益を求めるのか、神そのものを求めるのか、ただそれだけの違いだ。

多くの人が神からのご褒美を待っている。あるいは罰を恐れている。そのこと自体が神への誤解だと思う。神はただ、愛されることを待っている。あなたが愛することによって、神は応えることができる。神は愛そのものだから。

私たちの問題の答えは、愛すること、愛し始めることによって、すべて解決される、というのが私の中に与えられた答えだ。その答えをひとつひとつ実践すること、それが人生なのだとわかった。

過去に抱いた幻想から、私は愛をなにか別のものと錯覚している。その錯覚から覚め、現実に戻る道。それが神とともに生きることなのだと思っている。