ありがとう、ごめんなさい

ありがとうが言えることは大事だと言われているけれど、ごめんなさいはもっと大事だと思う。

「ごめんなさいは罪悪感の表れだから、ついごめんなさいを言ってしまう人は、ありがとうに置き換えなさい」なんて文をどこかで読んだ。どんな言葉であろうと、無意識に癖になっているのであればそれは見直すべきだと思う。ありがとうだって同じように罪悪感の表れになり得る。

「生命の贈り物」という祈りの本は、私の周辺でもじわじわと浸透している。多くの人がその中に在る大切なものに惹かれる。この本はゆるしについての本であり、ゆるしに必要なのは謝罪である。

なぜ謝罪が必要なのか。

私たちが作る壁は、いつも本質からそれていく「誤解」がもとだ。私たちは自分を誤解し、他者を誤解し、世界を誤解し、混乱する。誤解が起こるたびに、攻撃と防御が必要になり、より強固で複雑な壁が作られる。その壁は自らの目を塞ぐ。そしてより、本質から遠ざかる。

私たちは本質という生命からの贈り物そのもの。そこへ戻るための方法が、謝罪という強力な修正のちからだ。

私は癒される以前は、ごめんなさいというのは恥ずかしいことだと思っていたと思う。間違ってしまったことを認めることになるから。間違うくらいなら、最初からするな、という気持ちが強かった。

しかし、自分を調べ直していくうちに、「私」のほとんどは間違いで構築されていたことがわかった。申し訳ないけれど、それはほどんどすべての人に当てはまることで、私だけのことではなかった。

そのことがわかって、私は本当の世界に戻ってこられるようになったと思う。そのことがわかって、私は自分をゆるせるようになったし、人をゆるせるようになった。

つい最近になって、母との会話のなかで母がとてもきっぱりと「私は人に謝らない。だってそれは、間違いをしたということだし、傷つけたということだもん。私はそんなことはしないし、だから謝らない」と言った。

自分を見直す前の私のルーツはこれか、と見せつけられた気がした。

それはきっと、苦しい生き方だろうし、私には背負えそうにない。私がこれだけ傷ついているところを見れば、誰もがどれだけか、測らずとも人を傷つけていることは明らかだ。あなただって、どれだけか傷ついている。でもそれを誰のせいにも、自分のせいにもせずに耐えて生きてきたんだろうね。

傷ついていることはすべてが誤解から来ている。そこで大事なのは、どうせ誤解なんだからと傷ついたことを無視することではなく、傷つくという誤解を解くという取り組みが必要だと気づくことだ。

すべての生命と、私自身に謝罪することは、自分と他者と世界との間に生じた誤解を解き、攻防の壁を丁寧に取り払っていくことだ。

それを始めたとき、私たちはその向こうにある、全き光からの導きを目の当たりにするようになる。そして信頼が生まれる。

自信って必要ですか?

自信という言葉は曲者だと思う。セッションでも「自信がない」「自信を持ちたい」とおっしゃるクライアントさんは多い。

私は自分に自信があるだろうか。自己評価が高いだろうか。肯定的だろうか。・・・答えはどっちもどっち、という感じしかしない。自信、という感覚に関してはほどんど実感がない。

子どものころを振り返ると、自分には根拠のない自信があった気がする。その自信は自分を強気にさせ、前向きにさせることもあれば傲慢さや無駄な優越感のもとになることもあった。

傲慢さ、優越感は結果として自分を追い詰め貶めるものだった。根拠のない自信というのは単なる幻想であり、思い込みのちからに過ぎないと思った。

自己意識の浄化とは、幻想を断ち斬り思い込みを手放すことだ。自分を変えることへの試みはそこへの取り組みに尽きる。

思い込みが解体されていくにつれ、自分の膨れ上がった幻想は等身大に戻っていった。人生のある地点まで、成長することはあたまでっかちになることだった。あたまでわかることと自己成長の違いがなかなかつかめなかった。そのことが私を追い詰めた。それは生きづらさそのものだった。

生きづらいから余計に慎重になる。つらいこと困難なことを察知して避けること対処することにどんどん力を注ぐようになる。そうやって賢くなっているつもりがますますあたまでっかちに拍車をかけていった。

そんなふうに人生を生きることは、自分を消費することだったと思う。死というゴールに向けて一日一日塗りつぶしていくような人生。それは緩慢な自殺のようだ。そんな中でいったい、幸せや愛というものをどうやって体験できるというのだろう。幸せは気まぐれにやってきては過ぎ去るもの、愛は運よく与えられるもの。消費する人生での人生観とはそんなものだった。

人は、自信があれば何かに立ち向うことができると思っているのかもしれない。私は今はっきりと、そうではないと思っている。私たちは、未知への信頼のもとにしか、ものごとに立ち向かうことなどできない。自信があろうがなかろうが関係がないのだ。自信というのは根拠のない思い込みか、もしくは過去のデータによる断定のどちらかな気がする。

でも、今ここにあるものに向き合うには、起こっていない未来に信頼を寄せるしかないのだ。そして信頼をもとに私たちが自分の意志で選び、体験し、その結果の如何にこだわらずにそこから学ぶことができたとき初めてそれが確信につながる。

その未知を信頼する根拠を私は、意識のエネルギーの仕組みのなかに学んだ。もし私たちが肉体だけの存在であるなら未知を信頼することなど永遠に不可能だ。一寸先はまさに闇でしかないからだ。けれど意識の世界には時間を超えた領域がある。それが神(宇宙意識・超意識)の法則の世界だ。

その法に身を委ねるとき私たちは、過去には不可能だった世界を超えて、奇跡的な進歩を遂げる。右の頬を打たれ左の頬を差し出したとき、求めた以上のものが与えられるという奇跡を体験する。

もしあなたが今、苦しみの中にいるのであれば、それは神があなたに奇跡を差し出したがっている証だ。神はとても近いところにいる。神はあなたに苦しんでいてもらいたいのではない。ただ、求めてもらいたいだけだ。その解決を、この世界にではなく、神に対して。未知に対する信頼とともに。その時神と人との関係が生まれる。

そこに私たちの成長がある。

ひさびさ、映画のはなし

映画鑑賞は沖縄へ来てから特に、夫婦共通の娯楽というか趣味。
DVDを車で往復1時間以上かけて借りに行き、家の壁にプロジェクターで映して観ます。

週に2本観るのはわりと普通。結構な数を観ています。前にも書きましたが、探し方はオラクル。自分の内面を感じて、心が求めているのに合った内容を探します。ヒットするととても満足できます。

「THE GOOD LIE」という映画があまりに良くて、翌日もう一度観ました。良かったら予告編ご覧ください。

ロストボーイズってみなさんご存知でしょうか?83年からのスーダン内戦で孤児となった子供たちのことだそうです。この映画はその子たちの人生の話です。

ほとんど冒頭から涙が溢れて止まらなくなり、終始泣きながら観ました。翌日も朝から思い出し泣き。もちろん悲しいのですが、悲惨だからというのではなくて、あまりに美しくて、という感じです。

なんとこの映画、主演にハリウッドスター(リース・ウィザースプーン)を起用しているというのに日本のWikipediaページがありません。珍しい。それで詳しくは調べられなかったのですが、(私、映画一本観ると徹底的に背景や関係者について調べるのです)主役の4人はスーダン出身で、うち二人は元少年兵です。あとは元スーダン難民の女の子と、父親がスーダン難民だったという子。

彼らの笑顔や感情表現がもうほんとにかわいくて美しくてたまりません。彼らの一挙一動に、子供時代に見た風景や遊んだ背景、仲間とのやり取りなど、彼らのインナーチャイルドがにじみ出ているとしか見えません。

サバンナを踏みしめながら、牛とともに歩いたその歩き方がからだから溢れて見えます。これは、アメリカでマックを食べコークを飲んで幼少期を過ごした俳優からは絶対に見えないオーラだと思いました。

心が洗われるなんて言葉、ありふれていて使ったことがなかったけれど、こういうことか、と思ってしまいました。おススメします。

どんな自分を生きたいか

ヒプノセラピー(催眠療法)をやっていると、いろいろな方のお腹の中の記憶に触れることができます。こんな体験が日常だなんて貴重すぎる、という気持ちです。物言わぬ胎児の心の声ですからね。

私が見てきた多くの胎児は、お母さんとの関係、お父さんとの関係、という意識をすでに持っています。もちろん言葉では認識していませんが、「喜んでほしい」「がんばらなきゃ」「楽しみ」「もっと気持ちを向けて」などの感覚を、お母さんの声や心音、またお父さんとのやり取りの中で、テレパシー的に捉えています。

また、過去世の感覚的記憶が残っている場合も多く、「なんとなく(生きるのは)しんどいな」「出たくないな」「また(あんな思いをするの)か」などと感じている赤ちゃんもいます。

私が総じて重要だと感じるのは、その最初の関係性、つまり両親との関係の中で、すでに心の中に求めているものがあるということです。

生まれてきてからは呼吸を始め、おっぱいを飲み、苦しいとか暑い寒いおなかすいた、気持ちいい、もっと、など、からだの欲求を学ばなければなりませんが、それよりも前に、お母さんという存在に対して「愛してほしい」さらに「愛したい」という思いの片鱗を多くの人が持っているのです。

人間は最初のアイデアとして、そういう青写真を持っています。言ってみれば、人間は愛するために生まれてきている、ということの証なのだと思います。

さて、この世に生まれてからというもの、先程述べたように赤ちゃんは、肉体を生きることを懸命に学びます。そして最初のアイデアの優先順位は次第に下がっていきます。数年するかしないかで、集団という社会に飛び込み、外界から世界を学ぶことが日常になっていきます。

おとなになるにつれ、今度は自立という課題がやってきます。就職、経済、そして結婚、などと、愛で結ばれる関係すら対外的なリストに並んできます。それから人によっては子育てという重責がかかります。その頃には人は、社会からの評価というものと自分がすっかりひとつになっています。社会から、集団から見た自分が自分の価値だというふうに身に染みています。

そうなるとその自分がうまくいっている限りは、本当の自分に触れるチャンスはなかなかみつかりません。チャンスがきたところでそれはなるだけ迅速に「処理すべき問題」としか目に映らないでしょう。たいていのことは排除するか、スルーするか、何かしらの機関に依頼するかして対処します。

すると今度はいよいよ、既存のやり方ではどうしようもないようなかたちで、チャンスがやってきます。パートナーシップか子育てか、という愛のやり取りに面と向かって初めて我に返る方も多いかもしれません。それが、あなたを本当の目的、最初のアイデアに注目させてくれるはずです。

本当の自分とはなんだったのか。そもそも、なにがしたかったのか。なんのために生まれてきたのか。

内なる真の自己はいつもあなたにそう問いかけます。「あなたはだれ?」と。そして、その人生において、何を、誰を、真に愛しますか?と。

本当の自分を取り戻すことは恐らく、どんな人にも、誰にも必要なことです。私たちは自分が愛という意識だということをいったん忘れ、肉体としての自分を乗りこなすことに集中せざるを得ません。そしてそれが軌道に乗った頃にはすっかり最初の目的を忘れています。乗りこなせる自分に夢中なのです。

愛するものを今生で与えられながらも、それに深くは気づかずに人生を送っている人も大勢いると思います。人は愛についてこそ体験しなければ(実感しなければ)ならないのに、他の多くにあまりに気をとられます。

どのような人もすべて、最初は同じところからやってきました。種が違う?魂の故郷が違う?いいえ、そのもっともっとおおもとは、ただ一つの神だったのです。ただ一つの愛という意識です。

私たちが思い出すべき最も重要なことはその点にあると私は思っています。