愛のレッスン

アダルトチャイルドは、機能不全家族に育ったため、自我が育ち切っていない人のことを指す。
以前にも書いたが、私は、早く大人になりすぎたこどものことだと思っている。

子供の未熟さを存分に謳歌せず、役割を生きることに早くから身を置いてしまう。
役割を生きるとは、自分自身を生きずに他者(多くはお母さんの分身を、お母さんの気に入る子供を、もしくはお母さんを支える理想のお父さんの役)を生きることを無意識に選んでいること。
(これは反発したところで逃がれることはできない。心はもっとも抵抗しているものに波長を合わせてしまうから。)
自分を生きないので自分の価値観が育たない。
代わりに頭脳で控えめに自己を測る。

自己の感情や感覚を二の次に扱い、無意識に抑圧、封印している。
しかし、抵抗感や無力感、焦りや罪悪感などは慢性的に感じているため、本来の感情を感じていないことにも気づいていないことが多い。

価値基準を頭脳で測るため、いくら満たしても内面が満足しない。
周囲の評価で自分を測るため、周りを満たすことに消耗し、満足できない。
いつもそれらの価値基準で測るため、自他への批判が厳しい。
結果、行いが自信につながらない。・・・など、

自己肯定感と他者との境界線が希薄になる。
言葉でまとめてしまうと薄っぺらいが、これは人生の質を根幹から左右する。
本質的には、愛に渇きながら、愛を遠ざけてしまうことになるからだ。

すべてのこどもは(と言ってしまって過言でないと思うのだが)まずは両親をこの世の神と位置づけする。

生き物として神から得たいもの、それはまず「安心と安全」だ。
しかしアダルトチャイルドは、この世で早くに安全神話の崩壊を体験する。
それによって自己の核となるものを危うくする。
その核とは「私は、これでOK」という領域だ。自己承認のちからだ。

勉強も、友達付き合いも、遊びもスポーツも、先生の評価も、すべての人から見られる目もほどほどでOK、とは決してならない。
いつも完璧でないと安心できない。
非があることに耐えられないのだ。

それは理想が高いこととは違う。
ただ、非があると、攻撃を受けてしまうからこわいのだ。
誰が攻撃するのか、それは自分の思考がする。
なんとか自力で安心と安全を勝ち取ろうとする尋常ならぬ努力の結果、自分の落ち度から目が離せないのだ。

攻撃を受けないために、チャイルドは努力する。
勉強も付き合いも遊びもスポーツもすべての人の評価にも応えようとする。
そうやって自分の周囲に鉄壁を築くのだが、壁の内側は満たされることがない。
そうしているうちに、自分がやりたいことがわからない、あるいは何もないことに気づく。

本当は愛に満たされたいだけなのに、その鉄壁が愛をも寄せ付けなくさせる。

もっともこれらは、なんとか社会の中でOKでいようとがんばっているアダルトチャイルドの話であって、核を持たないチャイルドは社会からドロップアウトしてしまうほうが自然なのかもしれない。
例えば犯罪とか、病気とか、極度の依存によって自己破壊してしまうとか。

おとなたちは言うかもしれない。
「それ、こどものころのことでしょう?大人になれば自分のことは自分で選べるんだから」

しかし実際は、人間の行動を決める心の基礎は幼少期にほとんどが形成され、通常13才以降はほとんど成長しないと言われる。
つまり、自分のことを自分で選んでいると自覚しているおとなも実際は、幼少期の刷り込みの反応からただ反射的に選択しているに過ぎないことになる。
その選択に不自由がないのは、たまたま(運命的に)幼少期の環境に恵まれていたに過ぎないとさえ言えるのだ。

しかしこの核の脆弱さにも強みがある。
核はこの世のかりそめの神ではなく、本物の神とともに自ら構築するのだ。それが本来の道理だ。
いったん決意したチャイルドは後戻りを良しとしない。
なぜなら未知の恐れを選ぶことのほうが、無知の暗黒にいるよりずっと幸せだということを知っているから。

アダルトチャイルド如何にかかわらず、すべての人が自己意識を見直すことで幸せになれる。
それは愛と真実のレッスンそのものだから。