矛盾を解く

私はセッションやメールでのやり取りでよく「ご質問ください」と申し上げます。質問をいただくことで、その方が何を理解しているのか、また何を(理解)したいのかがよくわかります。

ハイヤーセルフや魂、また内なる神(普遍の霊=スピリット)との対話についてのお話でも、「問いかけをしてください」と申し上げます。そうするとハートの中に、感覚の中に、周囲の現象のなかに、応えが還ってきます。というより、神はすべてを与えているのですが、私たちにはそれが全体的過ぎて認識しきれないので、問いかけることで意識にフォーカスがなされ認識しやすくなるのです。メッセージが来るというのはそういう感じです。

ですから、「神への対話では、質問上手になってください」とよくお話します。

私自身が神について、また心や摂理についてすべてをお話するのは困難を極めますが、ご質問というフォーカスを与えていただけると、それが真理の一部分に光を当てていただけることになるので、言葉にするのが容易になります。きっとどんな知識に対しても言えることです。

ご自身の中の何が問題なのか、ということに多くの方は行きついていません。もし行きついていればそれは自ずと解決に向かうはずなのです。問題には常に誤解とそこから来る混乱があります。神はなんでも応えてくれるのですが、混乱のなかで、つい大事なことを神に求め忘れているのです。

対話というのは、目的を共有することによって、混乱を整然とさせるちからがあります。その目的地を何に設定するかがとても大切です。私にとってそれは神であり愛であり幸福です。そこから私自身が逸れなければ、神のほうから私たちを迎えに歩み寄ってくれます。

神、というとやはり宗教を連想される方が多くおられると思います。私はクリスチャンの大学に通い、礼拝という授業がありました。牧師であり教授である先生が講話をされます。前島誠先生の講話は断然素敵で楽しく人気がありました。

なかでも一番印象的だったのは、「信仰は神が創り、宗教は人間が作った」「神は完全だが人間は不完全」です。当時とても納得しました。

今では私は、「神はひとつ」ということにとても合点がいっています。昔は、「宗教の数だけ神がいるのか」とか、日本神道に至っては「八百万の神」などと言われ、どうお付き合いしていいのかさっぱりわかりませんでした。

神はひとつ、ということを理解すると、世界はシンプルです。真理はシンプル、と言われますが、「神はひとつ」が真理だからでしょう。

多くの人が対立しているかに見えるこの世界は、実はかりそめの姿です。対立することで世界は物質化され、ぶつかり合うことで磨かれます。そうすると世界は分離して見えます。分離、と簡単に言いますが、分離する、対立する、ということは、それらの方向性は別々を指し、目的地も違うということになります。

世界の戦争は宗教戦争だ、思想の違いだという刷り込みがあります。それが真実なら、神がたくさんいて、神同士で主義主張が違うということになります。本当にそうであれば、人間が平和を選択するなんて不可能です。神が望んでいないわけですからね。

それで、「人間は本質的に争う生き物なのだ」などという論調さえ生まれてきます。しかしそれは人間の中の本能的な自己意識の特性のひとつに過ぎず、普遍的な本質だとは言えません。

神はひとつであるというのは、いろいろな個性を削ってひとつにするという意味ではもちろんありません。神がひとつであるなら、私たちの目的も目的地もひとつです。神がひとつであるなら、私たちの様々な側面の違いというのは大して重要ではない、大事なのは共通の部分だ、ということです。その部分にこそ、神の特性が潜んでいます。

もし私の神とあなたの神が、別々の方向を指し示すのであれば、私たちは対立します。しかし、本当はこうです。神は同じですが、私たちの自己意識のフィルターを通すために違った色や形に見え、同じ言葉は違った解釈に取られるのです。

スピリチュアルの情報の中に、あたかも対立する勢力があるかのようなお話がありますが、それは神の話ではない、と私は思います。ご先祖とか歴史にはもちろん対立があり勢力があります。支配力のある勢力を神々とみなす傾向が私たちにあるのは、私たち人間の性質のためなのだと私は思います。本能的に自分がそうありたいのです。

神とは対立しないものです。なぜならひとつだから。私たち肉体を持った人間がそれを理解しながらに生きるのはとても高度なことです。しかし、わたしたちはその可能性を秘めています。なぜなら神を宿す似姿だから。だから私たちは本能以上に深く、愛を求めるのです。

地球と人間は対立するでしょうか。表面上、それはあるように見えるかもしれません。肉体的な生命としてそれを見れば。人間こそが害虫だという見方をする人もいます。しかしそれは本質でしょうか。

植物も、また野生動物も、愛が媒体となることでその生命が輝くところを私はことごとく目にします。本能より愛がまさり、他者への思いやりや優しさ、また美しさなどという美徳が輝くのです。人間は自ら意識的に与えることのできる生き物です。そのエネルギーが実は命の奥に遍在する神の意志を宇宙に循環させます。

愛と奉仕の人間と、支配的で利己的な人間の対立を光と闇になぞらえて説明する情報を見かけるのですが、この立場なんて、一瞬で変わります。そもそも愛や神と対立できるものなんて宇宙に存在するのでしょうか。もしあるのであれば、やはり神はひとつではないし、ワンネスなんて存在しません。

支配的で利己的というのは、単に肉体にしばられた想念です。そしてそれは、不滅の真理ではないから、いずれは解体され霧消するのです。

不滅の真理だけが永遠に存在します。私たちはその刹那、真理と幻想の狭間を垣間見ています。魂が一瞬の夢を見せてくれ、その夢の間に多くを学ぶのです。と、同時にそれは遊びです。神の壮大な、そして小さな戯れです。

どのような状態からも、愛は一瞬で目覚めさせてくれます。時に正しさが通用しなくても愛は通用します。私たちはその法の保持者であり行使する者です。

魂の見せる夢は多くを学ばせる一方で、この至上の法を時々忘れ去らせてしまいます。あまりに夢のストーリーに没頭しすぎるとそうなるのです。思い出すためには肉体から少し離れて魂であることに浸る(瞑想する)のです。

悠久のなかで、私たちはすべてとひとつであり一体です。ですから目的も行先ももちろん一緒です。だからこそ、神は在ります。

そもそもひとつで一体のものにわざわざ問いかけるなんておかしなことのようですが、そうすることで分離の夢から本体へ、つながりを戻すことが容易になるのです。