完全無欠

『絶対に不可能なものを求めて生きていこう。例えば完全無欠、オールマイティー・・・』

というような書き出しで始まる文章は私のものではなく、狛江2中で同級生だった、私の人生に間違いなく多大な影響を与えてくれた友人の、卒業文集の作文。

このフレーズを私は忘れたことがない。最近になってますます頻繁に脳裏をよぎるようになった。

それは私が神を求め、内なる神と頻繁に問答するようになってから加速している。神への問いかけへの答えはいつも私にそう言わしめる。そうだ、つまりは不可能なものを求めて生きることなのだ、と。

私たちは神に多くを望むかまたはまったく期待しないかのどちらかだが、神は私たちにたったひとつを望む。
それは、私たちが、神へと近づくことだ。

しかしどうすれば近づいたことになるのかはほどんどの人にとって未知である。

かの作文の主とはある時を境に交流がなくなり、私は行方を知らない。けれどことあるごとに私は彼女に感謝をつぶやく。大概はそうだが、その最中にある時、私たちはそれにどれほどの価値や意味があるのかを知らない。どんなにか貴重な出会いや体験なのか、ほとんどわかっていない。

自分や人生というものに注意深く向き合い続けて止まない人だけが、その恩恵にある時気づく。
「ああ、あれは分岐点だったな」とか「よくあんなことできたよな」とか、「そのときは当たり前にしか思っていなかったけど、あれは恵まれていたな」とか。感謝なんて本当に感じるのは渦中を過ぎて静まったずっと後のことばかりだ。

自分の人生を振り返ってみて良かったと思えることはほどんどこんなことばかりで綴られている気がする。ほとんどなんにもわかちゃいなかったし、自分でわかってて選べてなんかいない。ではいったい、どうやって生きることが最善だというのだろう。まさに渦中にある時、なにを基準にものごとと向き合い選べばいいというのだろう。

そこでかのフレーズが浮かぶのだ。そうだ、私は、絶対に不可能なものを、精いっぱいに求めて生きているのだ。例えば完全、例えば神、例えばオールマイティー。中学3年生だった彼女が私の知らないなにを見据えて書いたのかわからない。でも私は今それこそが自分が求めていたものだったのだとわかる。

私はこんなふうに恵まれて、導かれて生きてきた。神の使者はあらゆるところの配備されていた。でも渦中には、ただがむしゃらに藁をもつかむ思いで無様にばたばたと暴れ散らかして生きてきただけだ。

渦中にありながら楽しむことができる、苦難の時を感謝のなかで過ごす、苦痛を平静に受け入れる、良き事悪しき事すべての体験から学ぶ。そんなことを可能にしてくれるのは恐らく神だけだ。だから私は神を求める。神からの贈り物を、ではなく、神そのものを。神に少しでもにじり寄ることを。

どんな状態のなかにも神をみつけることを望む。どのような状態の中にも神をみつけることができるのなら、それ以外になにを望めばいいのだろう。

楽しむために神が必要なのでも、笑顔でいるために神が必要なのでもない。楽しくない時も、笑顔でない時も、神を忘れないことが必要なのだ。神の不在が消えたとき、苦は存在できなくなる。苦から逃げも隠れもしないことが苦の消滅への一番の近道なのだと思う。

私は絶対に神のようにはなれない。だから私はそれを永遠に望む。しかしその不条理のなかにも、神が存在し私たちを導く。その一瞬一瞬の中におそらく私たちは真理をみつける。

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