自分探しの果てに

本当は誰もが、特別な承認と格別の祝福がほしいのだと思う。問題はそれをどこに求めるかだ。

最初はお母さんとお父さんの愛情に。学校では成績や人気や才能に。社会では評価、対人に。恋愛の対象、その相手そのものに。

過剰に求めない人は意外とすんなりと摩擦少なく歩めるかもしれない。でもどこかに欠如感というアンバランスを感じた瞬間、人は過剰に求めるようになっていく。人生いつでもそこそこ得られる人は少ないだろう。人は必ずどこかのきっかけで何かを失った、という体験をする。或いは慢性的に失いすぎていて気づかず虚無―無価値観に満たされている。

なにが足りないと感じるかによって、求めるものも変わる。経済、時間、環境、仕事、周囲との和、他者の関心、権力、地位など。しかしこれらの成果から内面的に獲得できるのは安全もしくは興奮のどちらか。

手に入れてしまうと始まる喪失への恐れ。手に入れてしまうと覚めてしまう興奮。

そしてまた別のものを探し始める。自分探しは終わらない。それを人生の旅だというのだろうか。

自分探しとは多分、特別な承認と格別の祝福を探す旅なのだろう。それはどこにあるのか。

私たちは得ては失うことの連続の途上に、気づく。エゴの足元がふと揺らいだ瞬間に。あるいは激しい消耗の合間に。決して失われないものを求める一瞬の内なる風を感じとる。

承認と祝福は、受け取る準備のある人に訪れる。積み上げた届いた人にではなく、失うことを恐れない人のところに。

手放すことは容易ではない。承認と祝福を信頼する以前には。

しかしいずれにしても恐れている間あなたは失い、恐れを諦めたとき、あなたは得る。永遠なるもの、という生を。

恐れを諦めたとき、怒りも裁きも消失する。そのときあなたはあけわたしている。あなたのエゴをあなたの神に。

永遠なるもの、それこそが魂の本質であり、神であり愛である。完全で終わりなく、私たちを満たし続け、目覚めという歓喜を生み出し続ける。

準備のために、あなたは少しずつ安心する必要がある。けれど、愛し始めるまでの間に手に入れたものは本物ではない。あなたはそれを手に入れたとしても、持ち続けてはいけない。いつでも手放す準備があることを魂に告げておくのだ。

愛し始めたとき、それ以外のものを手放すのは容易になる。承認と祝福を受け取ったとき、あなたはすでに神とひとつだ。

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