魂のふるさと

◆facebookにアップした長めのつぶやきに加筆、編集しました。

玉川大学の演劇専攻の恩師が玉川大学公演『ミュージカルヨセフ』(1985年3月8日 町田市民ホール)のラストシーンとカーテンコールの動画をこっそりfacebookにアップしてくださった。

私が入学する直前の公演だったので直接は関わっていないが、出演者はみなさんよく知る先輩がた。
演劇専攻は当時、1学年30人ほどの少数精鋭の、大学のイメージとはかけ離れた小さなコミュニティーだった。

なにかきっかけがあると、ヨセフのナンバーを誰かが歌いだし踊りだし、そのときのエネルギーがぶわっと蘇る感じによく触れた。
私たち1年生はおいてきぼりだったけど、自分たちが演る番になれば、先輩たちの空気と気持ちが直にわかるようになった。

伝説の『ヨセフ』。

今また、ブロードウェイから日本に来ているという。
しかし日本での初演はこの、わが恩師の翻訳と演出の、この作品。

facebookではいいね!の欄に、にわかに歴代の演専生の名前がずらっと並ぶ。
コメント欄は、当時の声が聞こえてきそうな会話でいっぱい。
私も思わずコメントに加わる。
後輩なのでちょっと恐縮しつつも、黙ってはいられない(笑)。

演劇おそるべし。
芸術おそるべし。
一瞬にして時空を超えて、一つの世界を作ってしまう。
30年以上が経過しているのをものともせず。

思わず、その頃のあまりの最高さの気分にまかれて、今がよくわからなくなった。

なんで毎日、政治のこと、戦争のこと、基地のこと、原発と放射能のこと、難しい社会問題であたまがいっぱいなのか。
演劇さえあれば、この世は天国なのに、という切ない感覚がよぎる。

演劇が、というよりは、当時の純粋な、自分という枠を超えてただ良いものを仲間と一緒に創ること、だけに専念して携われた演劇が、私にとってはかけがえがなく最高だった。

演劇のなかでも新劇、現代劇の基本となっている芝居は、左翼的というか、反体制的な色合いを持つことが多い。
それは本質的に演劇というものが必ず「対立」を描いているものであり、人間界における対立というものは、自分と恋人、自分と親、子、などごく身近なところから始まり、自分と社会、国家、歴史、自然、運命など大小さまざまな対立と昇華、そして和解(融和)という構図によって描かれているものであるということと、その対立の中でも個ということろに寄り添い描かれ掘り下げられるのが芸術や表現の役割であることからくると思う。

つまり芸術とは、人間とは何か、の探求そのものなのだと思う。

しかし時代によっては演劇やそのほかの芸術、言語表現などが国家権力によって規制され、体制側の宣伝、洗脳に使われることがある。
日本では先の大戦の時があからさまにそうだった。

そして、今。再びその色合いが強まりつつある。

演劇人の多くは非戦を心から叫ぶ。
それは、人間の探求は人権と平和、精神の自由あってこそ本分をなせるということを、その歴史も含め、身に染みて知っているからだろうと思う。

役の人生を深く生きることで表現するということが、人の潜在意識を豊かに創りかえる。
深い共感、その人の心が自分の心とひとつであるかのうような超感覚を体験する。
それは愛を生きることそのものだ。
それを客体と分かち合うのが演劇。

有史以来戦争が地上から消えたことはなかった。
しかし有史以来、演劇が消えたこともなかった。
人間の心が消えたことも、愛が消えたこともなかった。
どんなにいびつななかにも、その種を授かり、育て、引き継ぎ続けてきた。
私たち人間は。

苦しい時代こそ、歌があり、真実の言葉があり、踊りがあり、それが人の心に明かりを取り戻させてきた。
その歌を、言葉を、踊りを、心を取り上げるために利用するような世の中はまっとうではない。

私たちは貧しくても、苦しくても、心豊かに生きる権利と義務がある。
なぜなら、それが、人間だから。
私はそう思う。

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