アファメーション!

アファメーションは、現代スピリチュアル界の王道的概念。

肯定的自己宣言、などと言われるが、どうやらこの概念を広く教えたのも、かのわが師パラマハンサ・ヨガナンダ先生だったということを最近知った。

私はなぜかずっと、アメリカ製のスピリチュアルに惹かれて探求の旅をしていた。
そして辿り着いたのが、おおもとのヨガナンダジだった。

最初の出会いはトランス・チャネリングの王、エドガー・ケイシー。それから何人か素晴らしい人がいたが、なかでもフローレンス・スコーヴェルシンという女性はすてきだと感じた。著書のなかでの出会いだけれど。彼女はアーティストで哲学者で、現代スピリチュアルの元祖みたいな人だ。アファメーションのワークを生業にしていたようだ。

みなさんだいたい同時代に生きた方々。

イギリスにはもう少し古く、神智学という学派のようなものがあって、今のスピリチュアルはこれらが大体ミックスされて切り取られたり強調されたりして伝わっているように思う。

一部を切り取られて強調されている教え、というのは例えば、ポジティブいのち、潜在意識がすべて、成功だけに特化した法則、引き寄せで豊かになる、みたいな教えだ。

それらは確かに一理ある。でも全体性からみるとかなり偏っていて陳腐に思える。
自分がアファメーションに抵抗を感じるのは、その界隈でアファメーションが乱用されているせいだ、と自分なりに思う。

しかしヨガナンダジやフローレンスがアファメーションの祖となれば俄然やる気がでる。
その違いはなにか。

例えば上記に上げた3人の巨匠はみな、神とその分身である魂の領域、つまり宇宙意識と超意識に言及した人たちだということ。
それは、人間とはなにか、という問いそのものだと思う。

人間とはなにか、どんな存在で、この地球でそして宇宙でどんな位置にあり役割をし、そしてどの方向に進化していて、そうあるにはどう選択しどう思い生きるべきか、というような問いかけなしに、ただもっと豊かに、もっと賢く、もっと便利に、というために、人間に備わった莫大なパワーを使って恩恵に預かろうというのは、核爆弾を持ったさるに等しく危険で愚かで破滅的だ。

それは現代の競争社会のサバイバルのためのハウツーの、別バージョンに過ぎないように思う。

アファメーションのちからは、神から来る。
創造の最高次元の根源の意識から。

たとえ最初は無意識だったとしても、その言葉と意志のちからによる恩恵を受け、その恩恵が来るみなもとの存在を意識するとき、私たちはみなもととつながることができる。

贈り物より贈り主の存在を愛するのが、神の分身である私たちの本性。
アファメーションは贈り主への信頼と約束を言葉にしたもの。

そんなふうに理解するにつれ、何をどう祈ったら贈り主のハートにダイレクトに届くのかがだんだんとわかってくる。

私もどんどんやります。みなさんもどうぞ。

参考書:『科学的な癒しのアファメーション』パラマハンサ・ヨガナンダ著 『人生を開く心の法則』フローレンス・S・シン 他

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脳みそがうにうに光るような、丹光

『私は丹光が見えます。
そして、目を閉じると、自分の手、腕が白く光るのが見えます。
こうした現象を、どう活かせばよろしいのでしょうか。御教示下されば幸いです。』

このブログのコメントでいただいたメッセージです。ありがとうございます。

もし個人セッションであればまず、今はどんなふうに活かしていらっしゃるのか、またその現象をどう捉えていらっしゃるかから伺うと思います。
詳しくお聞き出来ない状況なので、思いつくままに書かせていただきます。

私自身は瞑想中、またその前後やセッション中に、同じ光をよく見ます。なのである意味それは日常的な現象です。
ちょっと心を静めて第三の目をふと意識したりすると、たくさんのいろいろな光を見ます。

おもしろいところでは、歯医者さんの治療中には丹光が頻繁に見えます。
治療中、祈る思いで受けているからかなと思っていましたが、どなたかもブログに書いていらしたのでなにか因果関係があるようです。
キュイーンという音も関係あるかもしれません。

それから、セッションではクライアントさんもワーク中によく見ておられます。
対面でも遠隔でも見る方はたくさんおられます。
レイキのアチューメントが終わると急にオーラや光を見るようになる方もいらっしゃいます。

私が初めて丹光を見たころには、ネットで調べると「覚醒前夜に見るうちなる光」などと説明されていました。

当時は覚醒ってなんだ?!っていう感じでしたが、最初に見たときは強烈で、しばらく誰にも話さずノートに書きとっておきました。

しかし振り返れば強烈な体験でしたが、特に驚きのようなものは感じず、むしろ、こんなことすら偶然のなにかか、自分の思い込みで引き起こした体験なのかな、などとうっすら思っていたのを覚えています。

数年経って今度は金色の立体網目のオーラを見るようになりました。
この時も瞑想から戻って目を開けると世界はすべて金色の網目で覆われつながっていました。
あまりにはっきり見えるというか、物体が遠のいて網目の金色ばかりが目立つ状態だったので受け入れざるを得ないという気分でしたが、それによって神の至福があふれてくる、というような内面的な覚醒というほどのものはありませんでした。

そしてこれも以前に書いたことですが、見ているだけでは何も起こらないし、特別なことは何もない、ということです。
いえ、そういうと語弊があります。
以前の私と今の私でははっきりと違いがあります。
内面的に確実に変わっています。
内面だけではなく、良く考えたら以前の自分にはありえなかった超常的なことだらけです。
でも、見たからどう、ということでは、やはりないのだと思います。

それはいつも瞑想か内側が瞑想的な状態になったときほどくっきりと見えるものなので、そういう時には内側が静かで平安で落ち着いていて、さっきまでのあれこれの思考やできことが、いったん全部遠くへ行ってしまうので、とても澄み切った状態にはなっています。
重荷やモヤモヤやごちゃごちゃが光りに溶かされ焼き尽くされたようにすっきりとしています。

それは、光りを見るという現象を活かすというより、瞑想や祈りについてくるサインであり、高次に近い状態である自分に見える、あるがままの風景のようなものです。

世界は、別の目で見ると、こうなっている、ということなのです。

セッションでクライアントさんと向き合うのは感動的です。
お電話でも遠隔でも、目を閉じて向きあうと、その方の光のからだが見えてきます。

対面で座っておられる方の頭部にはいつも、金色の光が宗教画の後光のように覆っています。
すべての人にあるのかどうかはわかりませんが、いらしてくださる方にはもれなく、後光がついています。
紫や青い光をまとっている方もおられます。

浄化が起こると、体中から無数の光の粒々が湧きあがっては昇っていきます。
気づきがあると、目のあたりからパチンコ玉のような銀と青の光の玉がぴょーんと飛び出します。

まるで映画のCGや漫画の世界です。

こういったときの見えるということは「事実を目で確認できる」ということに他なりません。

さて、今日のお題をいただいて、頭で考えてもなにが正しい答えなのかはわかりません。
何しろその定義すらいろいろなのですから。

それで、瞑想によって、内なる神へ問いかけてみました。
しばらくすると、心の中にはっきりと言葉が浮かびました。
それは「心の支え」という言葉でした。

どういうこと?としばらく瞑想していますとそれは、私たちが深いところで本当に求めているものへと辿り着くため、心の支えにしなさい、ということのようでした。

光りは神が、私はここにいるよ、と垣間見せてくれる神の在り処の、壮大な景色の一部のようです。
その光を頼りに私たちは内側の、その在り処に日々向かっていくことができます。

こんなことでお役に立てますかどうか。
またご質問ください。ありがとうございました。

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潜在意識の浄化でなにが変わるか

ワーク、つまり自分の創造への取り組みをするということは、潜在意識が浄化されるということ。
だから、変わる。

変わるということに対する捉え方がいろいろで、セラピーやスピリチュアルの世界でも、変わりましょうとかいや変わる必要はない、とかいろいろ言われます。

変わらなきゃという時、行動や振る舞いだけを変えようとか、生活習慣をいきなり変えようとか、見た目だけのイメチェンなどをイメージすると、一見わかりやすいけれどなんだか無理してる、とってつけてる、という感じになります。

意識エネルギーが浄化されると、ハラの中から反応が変わります。

例えばすごく簡単なテストをします。

疑いようのない真実を述べた真理の言葉を読んだとします。
そこで自分のハラやアタマや、そしてハートはどんな反応をするでしょう。

ワーク前の自分はこんな感じでした。

「それはすごく正しいとわかる。でもそれを実践するのはすごく難しい。だって、自分は自分の思い通りにならない。周囲にもわかってもらえないし、それが本当の私かどうかもわからない。それは偽善かもしれないし、今よりもっとがまんが必要かもしれない。ああとてもじゃないけど、それは無理。今だってこんなにいろんなことに精いっぱいなのに、これ以上がんばるなんてできない・・・・・」

「そうね、時間があったらやってみよう。今あるこの問題が片付いたら、環境が変わったら、今山積みのこの課題が終わったら、いつか自分もそうなれるかもしれない・・・・・」

「なんだか自分が非難されているような、責められているような嫌な感じだ。罪悪感も感じる。こんなふうにできたら苦労しないよ。できる人がいるなら会ってみたいもんだ・・・・・」

「やっぱり自分には何かが欠けているいるんだ。なにか劣っている。できっこない・・・・・」

こんな、「変わることへの抵抗」の声。否定的な声です。

世間では、ネガティブエネルギーを忌み嫌う傾向があるかもしれませんが、本当はポジティブかネガティブか、ではなくて、真実、真理、全き善、神と愛に対してどれくらい否定的なのかが、人間本来の自由さ、創造性の妨げとなっています。

いつも笑顔でいたって、ハラやアタマのなかが「抵抗」でいっぱいなら、それは否定的な状態です。ハートはもちろん開いていません。

「否定的」に対しても数々の誤解があります。

誰かの意見に対して反対意見を持つことを否定的、と思っている人が多いように思います。もちろん違いますよね。
否定的な自分を避けようとして、何に対しても肯定するのが良いこと、と思っている人も多いかと思います。
私ももちろんそんな時期を体験しましたが、そうすることによって発見したのは、自分が善きものであろうとする姿勢の奥に、恐れが横たわっていたということです。

大切なのは、その抵抗が恐れから来ていると気づくことです。
肯定すら、否定的であることに対する恐れから選択している、ということに気づくことであり、気づきによってそれらの恐れが浄化されてくると、私たちは自分の内なる意志をあるがままに肯定できるようになり、ひいては内側に座する神の言い分を受け入れられるようになるのです。

気がつくと、真実に対して心を開き、ハラから感動できる自分がいます。
変わるというのはそういうことです。
当然ながらその変化は、言動や習慣や、見た目のイメージをも変えます。
エネルギーが変わるわけですからね。

これらは自分を知ることに他なりませんが、自分が他人と比べてこんな傾向がある、というような相対的な分析を重ねても自分を知ったことにはなりません。
自分を愛することにはなおなりません。

浄化された心は、光りを通し、光りのままに染まることができます。

そこに私たちは本当の自分を見ることができます。
ワーク、始めましょう。

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丹光とオーラが見えるという方から、その活用法についてご質問いただきました。
次回取り組みたいと思います。ありがとうございます。

魂のふるさと

◆facebookにアップした長めのつぶやきに加筆、編集しました。

玉川大学の演劇専攻の恩師が玉川大学公演『ミュージカルヨセフ』(1985年3月8日 町田市民ホール)のラストシーンとカーテンコールの動画をこっそりfacebookにアップしてくださった。

私が入学する直前の公演だったので直接は関わっていないが、出演者はみなさんよく知る先輩がた。
演劇専攻は当時、1学年30人ほどの少数精鋭の、大学のイメージとはかけ離れた小さなコミュニティーだった。

なにかきっかけがあると、ヨセフのナンバーを誰かが歌いだし踊りだし、そのときのエネルギーがぶわっと蘇る感じによく触れた。
私たち1年生はおいてきぼりだったけど、自分たちが演る番になれば、先輩たちの空気と気持ちが直にわかるようになった。

伝説の『ヨセフ』。

今また、ブロードウェイから日本に来ているという。
しかし日本での初演はこの、わが恩師の翻訳と演出の、この作品。

facebookではいいね!の欄に、にわかに歴代の演専生の名前がずらっと並ぶ。
コメント欄は、当時の声が聞こえてきそうな会話でいっぱい。
私も思わずコメントに加わる。
後輩なのでちょっと恐縮しつつも、黙ってはいられない(笑)。

演劇おそるべし。
芸術おそるべし。
一瞬にして時空を超えて、一つの世界を作ってしまう。
30年以上が経過しているのをものともせず。

思わず、その頃のあまりの最高さの気分にまかれて、今がよくわからなくなった。

なんで毎日、政治のこと、戦争のこと、基地のこと、原発と放射能のこと、難しい社会問題であたまがいっぱいなのか。
演劇さえあれば、この世は天国なのに、という切ない感覚がよぎる。

演劇が、というよりは、当時の純粋な、自分という枠を超えてただ良いものを仲間と一緒に創ること、だけに専念して携われた演劇が、私にとってはかけがえがなく最高だった。

演劇のなかでも新劇、現代劇の基本となっている芝居は、左翼的というか、反体制的な色合いを持つことが多い。
それは本質的に演劇というものが必ず「対立」を描いているものであり、人間界における対立というものは、自分と恋人、自分と親、子、などごく身近なところから始まり、自分と社会、国家、歴史、自然、運命など大小さまざまな対立と昇華、そして和解(融和)という構図によって描かれているものであるということと、その対立の中でも個ということろに寄り添い描かれ掘り下げられるのが芸術や表現の役割であることからくると思う。

つまり芸術とは、人間とは何か、の探求そのものなのだと思う。

しかし時代によっては演劇やそのほかの芸術、言語表現などが国家権力によって規制され、体制側の宣伝、洗脳に使われることがある。
日本では先の大戦の時があからさまにそうだった。

そして、今。再びその色合いが強まりつつある。

演劇人の多くは非戦を心から叫ぶ。
それは、人間の探求は人権と平和、精神の自由あってこそ本分をなせるということを、その歴史も含め、身に染みて知っているからだろうと思う。

役の人生を深く生きることで表現するということが、人の潜在意識を豊かに創りかえる。
深い共感、その人の心が自分の心とひとつであるかのうような超感覚を体験する。
それは愛を生きることそのものだ。
それを客体と分かち合うのが演劇。

有史以来戦争が地上から消えたことはなかった。
しかし有史以来、演劇が消えたこともなかった。
人間の心が消えたことも、愛が消えたこともなかった。
どんなにいびつななかにも、その種を授かり、育て、引き継ぎ続けてきた。
私たち人間は。

苦しい時代こそ、歌があり、真実の言葉があり、踊りがあり、それが人の心に明かりを取り戻させてきた。
その歌を、言葉を、踊りを、心を取り上げるために利用するような世の中はまっとうではない。

私たちは貧しくても、苦しくても、心豊かに生きる権利と義務がある。
なぜなら、それが、人間だから。
私はそう思う。

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