洗脳と奴隷と瞑想

沖縄に来てから特に、私はものすごく恵まれてきたんだということを
ここのところ再認識させられています。

ヒーリングスペースを開いて、魂で共感できる人たちとたくさん出会って
私の世界は愛に満ちています。

しかし来てくださる方々はと言えば
こんなお話が通じるのはここだけ、とおっしゃる方が大半です。

私は常々思っています。
自分のセラピーは確かにスピリットの原理、
真理に基づいたスピリチュアルなワークなのですが
いわゆるスピリチュアルが好き、な人だけのものではありません。

なにも知識がない方、
そもそもなんとなくそういうジャンルが好きでない方、
にも適しています。

私自身が、スピリチュアルが好き、な人ではなく
ただ、本当のことが知りたい、そして
なんとか本当の幸せというものをみつけたい、という
探求者から出発しているからだと思います。

本当の幸せ、というと多くの人は
「幸せのかたちは人それぞれ」とか
「それは個々の感じ方の問題」と言います。
それはしかし表層的な満足、
つまり欲求を満たすレベルの話のことです。

私の言う、本当の幸せというのは
「自分の幸せは他の全部のきょうだいしまいの幸せ」です。
そうでない幸せには絶対に裏側があり、終わりがあります。
それは無限で拡大し続けます。
宇宙と神と愛と同じように。

それをかたちにするのは簡単なことではありません。
気づいた人がたった今から取り組まなくては
それを味わい共有するところまでたどり着けないかもしれません。

神をみつける探求は何より先に、早くに始めなさいと
多くの覚者たちが助言しているのは
きっとそういうわけだと私は思うのです。

そもそも真理というものは普遍的であるものです。

普遍的、ということは、
俯瞰する、抽象化してみるということにも似ています。

ひとつの事柄にズームして寄っていくと
その事柄はその人特有の問題であり、
その物語はその人特有のものになります。

そしてそれをぐーっと俯瞰していくと
その事柄は人であるすべてが共有し
その物語はすべての人のものになり得ます。

そのカメラをグーッと高いところに、
例えば
天とか宇宙とか神の意識とか呼ばれるところに置いて
どうなるか観じてみようと試みるなら
それが瞑想になります。

それは、頭で考えてみるだけでは到底届かない視線です。
考える、ではなく感じる、
また与え受け取るという在り方で臨む必要があります。

与え受け取る、ということは、自分の中だけではなく
主体と客体、観察者と非観察者、神と私、など
対話しやりとりする相手を自己の中に想定すること、です。

そうしないと、人間の頭は私という限定された思考から
抜け出すことが難しいのです。

自分、とか、経験値、そこから来る感情や価値観などを
いったんわきにどけておいて
なるだけまっさらになって、
まっさらなスクリーンに浮かび上がってくる何かに
そっと寄り添い耳を澄ますような
そんな行為が瞑想かと思います。

そんな姿勢で私たちが内面と向き合うとき
高次元の自己意識≒魂は
私たちにその姿の片鱗を垣間見せてくれます。

魂は神の愛に満ち溢れ
私たちをそこへ向かえるよう
そっと招いてくれます。

望む人すべてに、
またはっきりそれを望んでいることにすら気づかない人にさえ
その導きはもたらされます。

私たちが少しでも心でそのサインを発したとき
魂と神はそれを見逃しません。

そんな方々が日々、
私のところへ何かを分かち合いに来てくださってきました。

そのことをここしばらく、じっくりと味わうことができ
そこからまたたくさんの気づきがありました。

俯瞰した世界観を、今度は丁寧に地に降ろすのが
愛を行うことです。

日常の一コマ一コマが
単なるかたちだけの、過ぎ去る場面になるのか
その背後にある光に照らされた、永遠の場面として輝くのか
それは私たちの意識にかかっています。

一概に言えないことですが、
スピリチュアルが好き、という人に多く見られるのが
この作業が嫌い、好きになれない、またはどうやっていいかわからない
という傾向です。

愛について私は知っている、でも、世界には愛がなさすぎる、と感じていて
人間が好きでないのです。

もしすべての人の内側に在る、神を
誰か1人の中に観ることさえできれば
きっと人間全体に対する印象も変わるはずです。

人間みんながだめだからと言って
愛する人もろとも葬ってしまうなんてことは
私たちにはできません。
もし誰かを愛したことさえあるのであれば。

私がこの人を素晴らしい、愛しいと思うのと同じように
誰かが誰かをそう感じるから世界は続いています。

誰かの問題は、私の問題。
誰かの愛は、私の愛。

私のところにいらしてくださる方の中に
社会問題に目覚めておられる方が多いことは
うすうす気づいていました。

みんなが敏感で優しいからだろう、という風に理解していたのですが
それだけではないことに最近思い当たりました。

おそらく皆さんが普遍性、俯瞰するという視線、
つまり瞑想に目覚めていらっしゃるからだろう、と。

すると逆に、
社会問題の通じなさの壁があまりに厚いことに対して感じてきた
困惑や悲しさの謎も最近になって解けました。

敏感で優しいから、が理由なら、もっともっと多くの人に
自然に通じるはずなのです。
私の悲しさの原因はそこにありました。
優しいのに通じ合えないのです。
これが私にとって昨今一番大きな壁でした。

それから、沖縄へ来てみて
沖縄と本土(あえて本土と言いますが)の認識の温度差の理由もわかりました。

あえてこの言葉で言いますが
本土はあまりに洗脳されています。

ネット上ではよく、沖縄の新聞は極左という風に言われます。
私から見ると、それは個に寄り添った人道的な視点です。

この、左とか右という観念も、洗脳の一部だと最近気づきました。

あたかも、それはバランスよく真ん中から別れ
そしてあなたはあっちに偏っている、というような観念です。

あたかも「あなたもわたしもどっちを選ぶのも自由よ」というような
見せかけられ方でそれは示されています。

私は左を選んだ覚えはありません。
もし右が国家主義だというなら
私は皇室にも反対ではないし
今の天皇陛下とそのご発言など大好きだし
日本という国にも親しみと愛を感じます。
世界の中で愛され尊敬される国でありたいと
心底願って努力しているし
なにより、仲間が一番たくさん暮らしている国は日本です。
でも、勝手になにものかにコントロールされて
私は反国家主義者のほうに、追いやられているようです。
それはなぜなのか。

この社会には権力と被権力という構造しかありません。
その構造は、私たちの精神をも支配と被支配に分かちます。
それらは不可分です。
精神の支配なしに、権力は支配できません。

そしてその対比はものすごく偏った比率です。

前回の記事に書いたような
「対立の根底にある平等さや
議論の基盤にある誠実さ」は
そこにはありません。

瞑想は私たちから、そういった目隠しを外してくれます。
そもそも、魂だった、という視点まで
私たちを連れて帰ってくれます。

そこへ帰ってみると
この世でいつの間にか着せられた衣の滑稽さに気づきます。

それは、親や周囲から浴びせられた否定的な感情や言葉であり
また社会から与えられた役割を演じるための装束です。

それらの欺瞞や嘘から離れ、真実であることの喜びが思い出されます。

瞑想すると、そこに帰ることができます。
百万の議論より明確に素早く
いろいろな問題を解決し
最も優しい方法で
あらゆる対立を和解に導いてくれます。

あなたも洗脳による奴隷をやめてみませんか。
311で目覚めた人は多いと思います。
でも災害と多大な犠牲からではなく
友愛から、それを始めることもできます。

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こつこつがんばっています。

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