恋愛と神さま

「ようは神の探求なんですよね、人間の探求っていうのは」
「それでどうしてこんなことやっているのかっていうと、それはパートナーと出会うためだと思ってます」

20代男子とこんな会話しながら、ライタリアンレイキのアチューメントをしています。
とても気が合います。

世界中を巡礼しても、自分の中に見つけなければ何も知ったことにならないのが神ですし、その神はただ、愛という姿で私たちの中にあるものだと私は思います。

神を探求する、と、愛を探求する、は同じです。

命の前に、まず愛があります。

愛が命に宿ると人間になるのです。

愛はこれまで様々な命に宿ってはその肉体的活動を通して体験を積んできました。

その時点で最も波長の合う、次に愛を学ぶ条件的にふさわしいカップルのもとへ飛び火するようにして宿ります。

そしていったんこれまでのことはおいといて、この両親における愛という基準を、体験とともにどんどん自分にインストールしていきます。これがインナーチャイルドです。

心地のいい愛もあれば、一見愛なんか皆無だ、と感じられる愛もあるでしょう。いづれにしても、自分が発信源となって愛の拠点となる準備を続けます。

その準備の中で、自分が深いところ、魂で知っている愛と、この肉体に宿ってから体験した愛にギャップが出てきます。当然ですが、これが成長です。そこでそのギャップによってなにかに躓いたり、壁にぶつかったり、痛みや悲しみを知ったり、またなにかしらの不充分さを感じたとき、人は自分を見直す、ということを始めるのだと思います。

この体験の幅はそれぞれのカルマによって自然と決まってきます。ソフトで亀裂の少ない道を歩む人もいるでしょう。傍から見ると破たんのない人生に見えるかもしれませんが、本人の心の感触だけは外観からはわかりません。

さて、両親からもらったものや社会で用意された回答だけでどうにもならないものに直面したとき、私たちは形而上のものから真実を探す旅を始めるのかもしれません。

すべてに優る法則は愛です。
つまり、この領域を名付けて神と呼びます。

神には領域など本来はありませんが、私たちは、神を再体験することで成長するという特性を与えられた生き物です。すべては光ですが、あえて闇という幻想を設定します。そこから垣間見ることで光のすばらしさを再認識し、光を知る体験を重ねます。

体験を重ねることが、私たちのうちに光を深く刻みつけることになります。そうしてやがては幻想から目覚めるのでしょう。

愛(神)は壮大で一つの定義に収まることがありません。体験することによってしか知りえないものなのです。

人間として神を体験することの中でもっとも大きな仕事は「愛すること」です。

生まれながらに人はまずお母さんを愛するところから始めます。それはもちろん、幼い、未熟な愛です。相手に喜んでもらいたいとかこうしてほしい(例えば「認めてほしい」など)という、欲求と本能との抱き合わせになっています。

ゆえにその愛には限界があります。誰かを何かを愛してみてその限界に達したとき、私たちはもっと自由な可能性を探します。最高のお手本を探すのです。それが神の探求です。

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