地に足を、地上に愛を降ろす

先日お客様から、本当に実感のこもった言葉でこんなふうに言っていただきました。

『本当に苦しくて始めた取り組みでしたけど、今は本当の自分に戻れてきて、これまでのすべてがあって、今の私があるって、これまでのすべてに感謝の気持ちです。』

そして、カウンセリングの貴重なお時間を使って、私とのセッションへの感謝を丁寧に心を込めて伝えてくださいました。

『AZUさんはこれまで、私に「あなたはこうだから、もっとこうしなさい」というようなことを一度も言いませんでした。でも気がついたら、自分でそうできるようになっていたんです。自分でできるように、選べるように、自分で気づけるようにいつも導いてくれました。私には、あなたでなければだめでした。』

なによりの私へのギフトをいただきました。
クリスマスにあたって、全宇宙からの祝福をぽんと気前よくいただいたような、そんな感じです。

私は自分自身がそれを体験することがこの人生の大きな目的の一つだったと思っています。
まだ暗闇にいたずっと以前から、かすかにきっと、いつか、という希望が消え切らずにあったから、今があると思います。
みなさんのこの地球劇場での物語はすべて私の物語でもあります。

本当に闇の中にいる方には最初にこの目的地のお話をすることもあります。
私の中にある最も強烈な信念は「私もできた。だから可能性がある。あきらめないで。ここまで来れたのだから、絶対に大丈夫。」なのです。
私にとって大丈夫、というのは、すべてに納得がいって満足することだし、あきらめるというのは闇を闇のまま、墓場に葬ることです。きっとそのことを昔の人が地獄と名付けたのでしょう。

感謝という言葉を遣うのはたやすいことです。
ですがその奥にはすべての人々の人生の、物語と道があります。
どこにいるのかわからないこともあります。
その時でさえ感謝がわいてくる、というのは、どこで何をしていても、私は私なんだ、という安堵に他なりません。

その私というのは、内側を掘れば掘るほど愛でできている存在です。
「私を知る」というのは、私は愛という存在であること、すなわち神とともにある存在だと知ることですし、「私に戻る」というのは、愛である私に戻ることですし、「私自身を生きる」と言うのは、神を内在する、愛である私として生きることです。

しかし私たちは往々にしてそのことと、家の中のあれこれは別、社会のあれこれは別、嫁姑の関係では別、あろうことに、夫婦の間では別、というふうに、どこか分裂しています。

そしてどこかで、私は愛である努力をしているけど、あのひとは違う、というふうに鏡と自分を別のように捉えて苦しんでしまいます。

相手の中に愛がみつからないとき、それはあなたのなかの愛との分裂を映して見せてくれています。
あなたの愛が誰かに届かないと感じるとき、あなたのなかに愛が届いていないことを知らせてくれています。
自分が自分であることと、世界が、隣人が、家族が、パートナーがそうであることを切り離して捉えることは本来おかしなことです。
なぜならあなたはその愛を与えるために愛であるからです。

自己探求は、自分を確立するためにあるのではなく、ただ与える、放射するという愛本来の性質とひとつであり続けるためのレッスンにすぎません。

そのためにまず自分に与えるという段階があるのです。そして作業としてはそれをし続けることで、他者や周囲に与え続けることができるようになります。

周囲にうまく与えることができない、という状態にあってこそ、自分の本来の資質を妨げているものに目を向けるべきときです。

自分が光を放射する主体だという実感があるとき、私たちは周囲に感謝できます。
受け取ってくれてありがとう。愛させてくれてありがとう、という豊かさにあふれています。

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本当にありがとうございます。

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