星の間

最近、なにかと気づきが大きくて自分でも驚いている。言語化したいのだが文章化へのハードルが高くてまだ消化中。

先日、『インターステラー』という映画を観た。なんというか、映画としてはつまらなくて何度となく失敗の文字がよぎったのだが、終盤の、5次元(ほんとは4次元なのかな)から3次元を見ているというところは真実味があってそれまでの忍耐が報われた気がした。それで少しリラックスすることができたのだが、見終わった瞬間から、映画をグイーンと遡って、そこに描かれている内容のどこが嘘なのか、というのが見えてきた。

描かれている世界は、瞑想していない人の発想なのだ、ということがまずわかった。そうすると、宇宙の、時間軸や密度の異なる空間にも、この肉体を持って移動することになる。(それはそうだ。行かないなら物語は始まらない。)この肉体と肉体感覚が軸になって、別の宇宙を体験することになっている。そうすると、描かれている世界はもしかしたら真実と似ているのかもしれないが、人間がかかわった時点で全部嘘になってしまう。

それでは肉体ありき(3次元)の発想を軸に異なる時空を当てはめた推測になってしまうからだ。

私たちが4次元、5次元というものを知ろうとするとき、私たちの意識の軸をそれ以上の次元に移行したところから見ないとそれらは見えない。
3次元意識想像力をいくら拡大しても、せいぜいそれは別の、隣の、或いは同時多発的な、ところにあるなにか、という風にしか理解できない。

だから、宇宙というものを理解しようとしたときにやはり物理的空間と星の存在を3次元的に並べて何とか理解しようとする。
そうすると必然、宇宙を実感として把握するのは困難になる。

おそらく、物理的肉体の私たちの体が、宇宙のある一線を越えて存在するのは不可能なのだろう、とそのとき私はものすごく実感を持って確信した。そしてそれがわかった、と感じたとき、笑いが出てしまった。はっきり言えば爆笑した。そんなことをしたことがないのでなんだこれは、と思いながらも、爆笑がおさまらなかった。

この世に安堵できなさを感じる人の多くが、何かしら別の真実を見つけたいと望んでいるように思う。私たちには無限と言える能力を持っている。使おうと思えばまだまだ開発可能なコンピューターを持っている。

限りなく遠くや微細なものを見る目を得たとしても、考える力を得たとしても、聴こえたとしても、目的を理解し、使いこなす力がなければそれらは危険物になる。見えてしまう人の苦しみはそこにある。それを解決するものがハート、つまり愛のセンターにある。

瞑想は最高次元からくる愛という根源に自ら意図的に波長を合わせ(チャネリングし)そうあるべく向かう(成る)行為だ。それに向かって進むということは、アクセス可能な自己意識の中心地点の波動を上げていくことに他ならない。つまりたとえるなら、4次元を4次元的視野から、5次元を5次元的視野から理解するのだ。

物理次元の技術を駆使しても、私たちはおそらく隣の銀河にすら存在できない。しかし、意識の探求を進めれば、宇宙を支配する存在とすら親密になることができる。通じあうことができるのだ。それ以上の安堵があるだろうか。

さらに高次の意識を自らのものにできたとき、その意識を宿す肉体は自由にこの宇宙に存在できるのかもしれないと思う。そのことをアセンションとして多くの人が期待したのだろう。

いやいや、地球人はまだ今しばらく無理だろうな。自分の感情に向きあうことすらままならずにいるのだから。その奥に無限が横たわっていると言われても恐れをなして、あるいはめんどくさがって、なかなかそれをしない。それくらい、この物理次元の刺激は強烈で、魅力的なのだと思う。

外側への反応=生きることだ、という概念が今のところ主流になっている。でも少なくても、自分とその周辺への具体的な愛こそが大事という概念にはシフト可能になってきていると思う。


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