号外 

今日は戦争法案のこと。
戦後70年、とうとう日本はここまで来ました。

原発事故の2011年3月11日からこっち、どしろうとなりに情報をあれこれ読み、自分なりに考察を重ねた結果、今日ここまでの流れはおおむね当初から推測したとおりです。

脱原発には、卒戦争が絶対に不可欠であり、脱原発しない、できない理由は、日本はまだ戦争を卒業できていなかったためだと思います。それは、沖縄での生活が私に突き付けてくれた真実でもあります。

ですから、特に今回の決定にがっかりしたりショックだったりと言うことはありませんでした。ああ本当にそう来るんだね、という残念さはありますが。

ですが、私は昨日今日と、新たに意外な発見と希望を感じています。

フェイスブック、ツイッターにはあげておりますが、主に国会中継の動画を見て感じたことです。

私は常々、自分を社会的マイノリティーであると感じてきました。自分の実際の生活上ではそんなことはありませんが、自分の視点、発言が、こんなにも多数派とずれているものかと思い知る機会は多々ありました。また、おおむね方向性が同じ意見の仲間の中でも厳密には食い違うこともたくさんありました。

そもそも私のしている仕事からいって、通常社会に認知されている常識からは逸脱するものです。先日、脳科学者が提唱する、意識の量子論の動画を見て、ああ、科学ってまだそこなんだな、と再認識したところです。私はそういった科学的仮説を飛び越えて、意識と心のセラピーという、脳科学の量子論的臨床をしていますが、それは昨今の科学の歴史があまりに浅いだけこのことであり、人間と宇宙と意識の探求というのは少なくとも数千年の人間の歴史に刻まれているものです。

社会の常識、認知というのは往々にして、こういった、そもそも、という観点が抜け落ちた上に風潮として流布されたものであることが多いと痛感しています。

私が感じた希望というのは、その国会中継の動画のなかで、福山哲郎氏と枝野幸男氏のスピーチを見て、なんだ、自分が疑問に思っていたこと、おかしいと感じていた思いなどがちゃんと語られてるじゃない、というところでした。

本当のことであろうけれど大手マスコミの報道に載らないために、黙殺され、デマ扱いされ、ごく一部のたわごととして扱われているとされているようなマイノリティーの意見を、少なくとも堂々と代弁しているように見えました。

つまり、政治という領域において、自分の頭にあることは自分で思うほどマイノリティーではなかったんだ、それどころか、政治と民衆の声がこんなに直通だったことってあったっけ、これはもしかしたら、ものすごく大きな事件だ、と思えたのです。(私の言うマイノリティーは、政治における野党レベルのものではもちろんありませんでしたので。)

『民主主義というのは多数派によって物事を決めていく制度だが、決してそれが正義ではない。多数の暴力によってこそ、少数派の人権侵害ということが起こるものである。少数派、少数の立場にある人間が、安心して生きていける、少数の権利を守るものが立憲主義であり、民主主義と立憲主義は絶対にセットでなくてはならない。

安倍総理大臣は歴史に残る仕事をした。立憲主義というものがいかに大切なものかということを、私たち日本人が、あまりに当たり前すぎて忘れていたとことを知らしめた。』枝野氏。

私は特に両氏を支持どころか興味すら持ったことがない人間でしたが、彼らのスピーチには胸を打たれました。彼らの態度には、そもそもの自らの使命というものを体現するものの迫力がありました。

約50分と、1時間45分という、とても長い演説です。へたしたら映画や芝居1本分の独演、私は退屈しませんでした。へたな映画よりずっと良かったです。

付録です。
http://saigaijyouhou.com/blog-entry-8066.html

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