平和は実はシンプルです。

去る8月4日は私の49年目の誕生日でした。思えばも予想もつかない道のりでしたが、私のインナーチャイルドは今の私にどうやら満足してくれているようです。「こういう人になりたかった」と彼女は言います。なによりのほめ言葉ですが、当時の自分には当然、自分がこういう人間なのだということも、どんな生き方をするのかも、なにひとつわかっていませんでした。

誕生日に母から小包が送られてきました。いつものプレゼント詰め合わせと一緒に、母の字で書かれたたくさんのメモが入っていました。

沖縄の基地の写真をプリントアウトしたコピー用紙の裏に、いらなくなったコピーの裏紙を4つに切ったメモ用紙がセロテープで貼り付けられています。この裏紙を4つに切ったメモ用紙は我が中村家の伝統で、私のデスクにもクリップで留めた束が3つ置かれています。

父のナレーションの仕事の台本が原稿用紙をコピーした大量のコピー用紙だったので、母はいつもそれをすてきなペーパーナイフで切って束ねて父の仕事の電話の伝言やお買い物リストや、その他のメモ用紙にしていたのです。

父が亡くなって、わずかばかりの遺品を整理していると、父のデスクにいつもあったそのきれいなペーパーナイフがカメラのバッグからでてきました。まさかこのナイフが大人になった私の、沖縄のおうちにあるなんて、という感じです。

母のメモにはなんの説明もなくこう書かれていました。

6月23日、沖縄慰霊の日、テレビを見ながら泣けてしかたありません。
戦後70年。私は77歳になります。

私が6歳の時、父は満州国(新京)から召集令状を受け、沖縄の戦地に赴き、
昭和20年5月1日に戦死、33歳の若さでした。

幼い子供4人(8歳、6歳、5歳、2歳)を残して。信じられますか・・・

残された母は美しい人で20代の若さ。
94歳で亡くなるまで、4人の子供を育て上げ、立派な女性でした。

先日、大阪に住む弟から、
戦没者遺児に1年に五万円×5年間、年金が支給されるという書類が届きました。

長姉はすでに亡く、残る3人のきょうだいに分けるとのこと。
25万円を3人でわけると・・・
金額的には微々たる額。―――――

でも書類に記された「父の名前」を確認したとき、なんとも言えない悲しみが襲いました。
初めて、父が父であることを、思い出したのです。ショックでした。
父と私のつながりを初めて感じたのです。

戦後、満州から引き揚げ、父のくに九州の佐賀に・・・
しかし混乱したふるさとは、私たち母子を受け入れてくれるはずもなく
母のふるさと岡山へと流れ―――――

昨今、集団的自衛権とやらが国会で取り上げられていますが
私には戦争の準備としか受け取れません。
またも繰り返されかねない戦争へ向かうのでしょうか。

戦後、すべての苦しみと悲しみを深くのみこみ
私たちを育ててくれた母はすでに亡く、
そんな母を助け、きょうだいをしきり、物知りだった姉も亡くなり
私と弟ふたりは記憶も定かではないながら
戦争という名の犠牲に翻弄されながら70年を生きてきました。

残された8歳、6歳、5歳、2歳の子供たちが、27歳だった母が、
どんな人生を歩いたか、語りつくせない。
それぞれの人生をわかってもらえるでしょうか。
この70年の歩みを。

人生の終わりに近づいている私、
苦しかった、悲しかったの言葉の中に
どれだけのものが織り込まれているのか。
私たちがいなくなると忘れ去られてしまう。

私たちの年代は当時まだ子供でした。
70年経って、真実を知る人たちはいなくなってしまう。

みんなが声をあげなければ。

戦争を知らない人たちよ
戦争にあこがれている人たちよ
考えろ
戦争は人殺しだよ

後日電話でありがとうを伝えると母は笑って
「美緒に笑われるかと思った~受け止めてもらってよかった~」と言いました。

私はこのメモを読んで、本当に良かったと思ったのです。

私は自分の潜在意識を探求する過程で多くのことに気づきました。母はとても感受性が強く人間的な魅力にあふれた女性です。しかし、私の幼少期は家族はいつも火宅の中でした。なぜこんなにもいつも両親はエキセントリックでぶつけあいぶつかりあってそして許しあえないのか疑問でした。

思春期になるとそれは父のせいなのだと思うようになりました。ある時点から私も父を許さなくなりました。もちろんそれではなにひとつ解決しません。

気がつくと私は猛烈な絶望の中にいました。通常の努力や思考的理解では全く解決できないことがわかり、弟は大人になると精神疾患があることがわかりました。

何かを解決しない限り、私は絶対にしあわせに生きることはできないということだけはわかりました。

インナーチャイルドを学ぶにつれ、母の中には途方もなく深い傷や痛みがあるとわかりました。父はよく「お母さんは大陸的でおおらかな人だ」と言いましたが、当時はその片鱗もありませんでした。とにかくすべてにおいてネガティブで、いつも最悪のほうを選んでしまうように見えました。

私にはだんだんとそのからくりが見えるようになり、見えるほどにそれは、あってしかるべき姿に見えてきたのです。母にはあってしかるべき土台、安心や平安、そしてそれが良きものなのだという観念が損なわれていました。

ものごころつくと父親はなく、終戦から一年以上満州を転々と逃げ回って、それは命からがらの状態でした。またその後もずっと、祖母とその子供たちには息をつく暇なく戦った人生だったはずなのです。

潜在意識は13歳までに形成されるという事実知り、この世の、人間の心の謎は一気に解け始めました。母の心の中では戦争からずっと、戦争が続いていたのです。それが母の心の中ではあまりに当たり前すぎて、見直すことは不可能だったはずです。

ですから母のメモで
「初めて、父が父であることを、思いしたのです。ショックでした。父と私のつながりを初めて感じたのです。」
という文面を読んだとき、母の中で長い間眠らされていた、本当の心が目覚めたのだとうれしかったのです。

戦争というもっとも凄惨で低次元のエネルギーがもたらす産物の影響が持ち越され引き継がれた一つの形が、私がこの人生で体験した、人間の本質である愛に対する破壊的な挑戦です。

私はその正体をみつけました。どうか多くの人がみつけ、そして乗り越え、愛に近づき、愛を生きることができますように。


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