意識の次元をあげると世界は

この世にあるものはいいものばかりに決まってる。

そう言うと、いつもすべてのものを嫌ったりしてはいけない、と思う人もいる。なぜ?
たかが私が嫌いなくらいでそれが悪いものになるわけではないのに。
好き嫌いなんて、本当に本当にちっぽけなこと。

この世に今あって、改善すべきことはたくさんある。
それらのすべては、人間が取り扱いを間違えた結果、誤解した結果、思い込んだ結果、
そうなっているだけ。
本当にそれが悪いなんて、誰に言えるんだろう。
(すると、悪くないならなぜ取り組まなくてはいけないのか、と、思う人もいる。)

だから、それを解く、解き明かすことにみんなが目を向けられさえすれば、
それは自然、明るいほうへと向かう。

私たちは知っていようがいまいが好むと好まざるとにかかわらず、
私の意思、意識によって世界を創っている。
(あなたがいることで、世界はこうなっている。)

間違え、誤解し、思い込んだ結果、混乱し、間違った選択をする。
これが人間の犯す過ちの正体だと思う。
でもその過ちのなかに、やってはいけないことは確かにあるのです。
(みんな混乱している。)

それは誰かのものではなく、人間みんながそれぞれに持ち、日々行っていること。
だから、気づいた人から自らを正し、
そして身近な人のそれに気づいたらそっと手伝えばいい。

時にはその混乱は、お手上げしたくなるほど入り組んで、
投げ出したいほどひどいこともある。
投げ出したまま、生きることもできる。
しかしそれでも、あなたが世界を構成していることに変わりはない。
混乱は巡り、そして自分に還ってくる。
たいていの場合、一回り大きくなって。

そうしていったん投げ出したとしても、またある時、向きあって、
自分と一緒に、生き始めることもできる。
意識して、意志を持って。
(その意志が世界を創る。)

世界が愛中心の世界になるって、例えばこんなこと。

私は缶コーヒーを手にしている。
(私は缶コーヒーは嫌いです。飲みたくありません。)

その缶コーヒーは、ある時ある人が
『こんなものあったら、誰かが喜んで、心があったかくなれるかも。』という
愛から発する思いで創りました。

私は手にした缶コーヒーから、その愛を受け取り、幸せを感じることができる。
たとえ缶コーヒーが嫌いでも。

誰かがエスカレーターを創った。
疲れた人に優しくしたいと思って。
足の悪い人が、少しでも優しい気持ちで外出できるように。

エスカレーターに乗ると、私はその優しさ、愛を受け取ることができる。
エスカレーターを見ると
エスカレーターを思い浮かべるだけで
そんな優しさに心が満たされて
幸せになれる。

世界はそんな優しさにあふれている。

椅子に腰かけると、
家々の屋根を眺めると、
道路を歩くと、
橋を渡ると、
電灯が灯ると、
クッションにもたれると、
掃除機をかけると、
洗濯機が服を洗うと、
階段を一歩あがると、
歯ブラシを握ると、
石鹸が泡立つと、
雑巾が汚れをきれいにしてくれると、
湯船にお湯がたまると、
紙に絵が描けると、
文字が私の心を伝えると、
その優しさが私のなかにあふれかえる。

愛中心の世界は1人の人の、そんな心から創られる。

すべてのもの、すべての現象の背後に神をみること、
それが人間を本当の意味で聡明に賢くする。
すべてのもの、すべての現象の背後に愛をみること、
それが人間を本当の意味で幸せに崇高にする。

私たちはすぐに忘れてしまう。
缶コーヒーがなぜ作られたか、エスカレーターがなぜあるのか。

時間短縮し、生産性をあげるため、
そんな風に自分を扱って自分をそんな存在だと定めてしまっているのは
自分自身だということを。

短縮された時間で、自分と大切な人、見知らぬ人、この世界を愛でることもできる。
何かを思いやる時間に充てることもできるのに。


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