2014年へのごあいさつにかえて。

1日1クリックの応援、本当にありがとうございます。来年もまたよろしくお願いいたします。

みなさん、今年もまもなく過ぎ去ろうとしています。

AZU WORLDをお読みくださったみなさん、また、ブログランキングへのクリックで応援くださったみなさん、自分以外の人にもこのブログが読まれることをご自身の事のように喜んでくださった方々、そして、私のセッションをお選びくださり、お手伝いをさせてくださったみなさま、本当にありがとうございました。琉球の島に根をおろし、導かれるように今日まで毎旬を踏みしめて生きて来られたことに、本当に感謝しています。少し早いですが、来年もどうかよろしくお願いお願いいたします。

ごく私的に今年を振り返らせていただくなら、今年は父との別れというイベントにつきます。今年は自分の干支である午年でもあり、48歳の誕生日に父の葬儀を行うという、一生に一度の体験をしました。父と私の関係はとても濃密な付き合いだったと、振り返ることができます。父との関係を癒やし、浄化し続けることが私の人生を形造ったといって過言ではないでしょう。父との生前の関係を終えて、私は父との関係の完全な修復と癒やしと浄化に成功したのだということがわかりました。私の中に、父への完全な愛があるという結論がはっきりと認識できました。一点の曇りなく、私は父を愛し、また父からの愛を、一滴残らず受け取ることができたと思います。父がなくなって私を取り囲む父の記憶は、まさに溺愛されているという感覚でしかありません。これは、自分の人生を客観的に、思考レベルで観察するならあり得ないことではないかと思います。しかしこれが現実でした。

父と別れて感じたのは、ただ、もっと一緒にいたかった、もっと話したかった、とても寂しい、悲しい、という思いです。そんな、まるでただただ円満な父子のような思いを自分が体験することになるとは、自分の人生の大部分で想像もできないことでした。でもそうなりました。
これはひょっとして私が自己意識の、インナーチャイルドの癒やしに完全に成功したということなのだ、と気づいたのはしばらく経ってからのことです。

もしかしたら読者の方の多くは、私が死を達観していて、父との別れなど幻想なのだから、少し風が吹いたくらいの感覚で通りすぎているのでは、とお感じかもしれない、と思ったりもします。しかし結論からすると、親密な者との死という別れは肉体レベルの幻想だとしても、それは純粋な悲しみを伴います。パラマハンサ・ヨガナンダジは、母との別れも、そして師であるスリ・ユクテスワジとの別れも大いに悲しみ悲嘆にくれ、そして瞑想を通して師と再会したとき、師の足にしがみついてはなさなかったと言います。私はそのヨガナンダジの姿を思い浮かべては自分を励ましました。そして、癒されることにも癒やされないことにもどちらにも良い点と良くない点があるものだ、と思いました。つまり体験はいかなるものも等価だという意味です。

これは、あるお客さまが教えてくれたのですが、おばあさまの死の直前になって、なぜか二人の関係性が非常に悪くなって、心が通じなくなったとのことなのです。そしてほどなくおばあさまは他界されました。その頃はあまりにひどいことばかりされたもので、別れもそれほど堪えなかったということなのです。もし、そういうことがなかったら、耐えられないほど辛かったでしょう、それほど祖母を慕っていましたから、と。

私にとってはとても強いメッセージでした。学びをしたからといって、人間の感情の体験が薄れるものではありません。当然のことですが、感情の中に愛情があり、愛情の更に奥に、真に出会うべき愛を私たちは心の中に秘めています。私たちは体験によって学ぶために地上へやってきています。どう体験するかはある程度選ぶことができます。現実を変えることが可能です。ですが、必要なことを体験しないという選択はありません。いずれにしろ、それは起こるのです。

父との体験は、これ以上ないほど、見事に、芸術的に、この地上での体験すべきことを私に見せ、私を巻き込んでくれました。そのすべてが父から私に存在を通して与えてくれた愛だというふうにしか、今の私には感じることができません。

今はまだ、じっくりとその私の体験から来るエッセンスを飲み込み吸収している時期かもしれません。日々、その体験を与えられ、与えられたものを受け取っています。

これを実りと言わずなんと呼べばいいのかわかりません。私は父の死に対し、それで良かった、とかなんとかはまったく思っていません。父の人生もこれで良かったとも、良かったのか、とも思いません。しかし、そこから受け取り得られるものはすべて自分のものにしたいとは思っています。

みなさんにもどうか実りのある今が毎旬訪れますように。
またこれからもよろしくお願いいたします。

感謝とともに
AZU

自信がない

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みなさんこんにちは。
世の中はなんとも不穏な音を立てているように感じます。
そんな音、聞こえないという方も多いかもしれない。
それどころではない、という方も。

聞こえても聞こえなくても、あるものはあるしないものはないのですが、私たちの意識が世の中の映像を創り出しているのであれば、私たちは自分の中身と向き合い、より親密で愛に満ちた自己との付き合いをしていきたいものです。より良き変容のために。

自己の内面を癒やし前進していく過程で、多くの方が罪悪感というものに行き当たるのではないかと思います。意識の法則なり波長の法則なり引き寄せの法則なりを知るにつれ、外側に見えるものは自分の内面の投影だ、ということがわかるにつれ、こんな世の中を作っているのも自分のせいなんだよな、とすると、自分はやっぱりダメなんじゃないか、というような。

或いは、恋愛がうまくいかないとか、人間関係で相手に受け入れられないとか、評価されないとか、漠然と思うようにならない、というときに感じるかもしれません。

私は以前は瞑想よりも思考がまさっていましたので、やはりこのような境地にはまりました。思い切り。

どうして人間にはこうも罪悪感があるのか。それも、一般にいい人、優しい人、思いやりのある人に限って、罪悪感との葛藤を抱えています。

罪悪感があるとどのような弊害があるか、まず、受け取ることが苦手になります。いい人優しい人思いやりのある人の多くは、与えることのほうが受け取ることよりいいことだと感じています。そして、与えることのほうが容易くもあります。

しかしこう考えると罪悪感というものも捨てたものではないかもしれませんね。そもそもこれがあるからこそ、人間の欲望に歯止めがかかり、自己の本能を問いなおす機能が働いているのかもしれません。

親が子どもをしつけるにあたって、子どもの罪悪感を助長するような言葉で叱ることがとても問題だと言われています。子どもは確かに、根底にお母さんに愛されようとする本能的な欲求があります。無意識のなかでその欲求は常に働いていますから、脅しの形で子どもと取引をすると、親の推測以上に効果が出てしまって子どもの潜在意識に一つの固定観念を作ってしまいます。

ですが、だからといって、子どもをすべて肯定するとか、否定しないということがいいわけではありません。もちろん当たり前のことです。ですが、繊細なお母さんは良くないことをどこまでも排除しなければという脅迫的に近い観念を持ってしまうことがあります。完全主義という問題です。そして、完璧にできないことに罪悪感を感じて自分を苦しめてしまいます。

どこまで行っても問題が出てきてしまいますね。ではどうすればいいのでしょうか。

ものごとは二極でできているわけではありません。三次元のこの世ですら、立体的にできています。一つの立方体には六つの面があります。ものごとのいろいろな側面を知っていくと、いい悪いだけでは判断できません。罪悪感ですら、いい面があります。時と場合によります。この世には完全に無駄なものはなかなかありません。

『自己を受け入れられない』のはなぜか、と問いかけると、色々な答えが出てくると思います。自信がないから、という答えを持っている人は多いかもしれません。自信がないのと罪悪感があるのは、実は表裏一体の感覚かもしれません。じゃあどうして自信がないんでしょうか。

そうすると、幼少期が原因かしら、親かしら、きょうだいかしら、友達かしら、先生かしら、となります。それでもぴたっと来ないときは過去世の体験が原因のこともあります。

本当にひっかかって取れない観念を突破してあげるのにそのためのワークをするのはとても効果があります。

ですが、それは何のためにするのでしょうか。

どうして自信がないか、どうして罪悪感があるか、どうして、自己を受け入れられないか、どうして愛せないのか。

これは究極の問いです。

それは自分の中に何かが足りないからでも、なにか余計なものがあるからでもありません。くっつけたり、外したりするだけでは解決しません。

それは、『私たちが、古い(過去からの)価値観を持っていて、それが本当の自分にそぐわないからです。』

居心地が良くないとき、それは、世間でも社会でもこの肉体に対してでもそうですが、多く方がそこでなんとかその古い価値観に自己を合わせようと試みます。本当の自分のほうを、価値観のものさしに合わせようとします。それが問題の根っこにあります。

それでなんとかなったりうまく行っているとき、私たちは調子が良いと感じます。しかしそうしていることに疲れたり、飽きたり、魅力や達成感を感じなくなったとき、私たちはスイッチが切れたようにダウンしてしまいます。

古い価値観は生まれてこのかた、両親から学ぶ過程で受け取ったものから、社会から無条件に押し付けられたもの、集合意識的に共有しているもの、長いDNAの進化とともに持ち合わせた記憶、過去世と言われる魂の系列から引き継がれた記憶と、壮大な歴史を持って私たちに刷り込まれています。

私たちの霊的成長という挑戦はそれら古い観念から私たちが卒業していくプロセスにあります。とてもではないけれど、頭で考えて対処するレベルでは捉えきれないし追いつかないでしょう。瞑想なしにその挑戦が成立しないのはそういうわけです。

古い価値観というのは抽象的に思えるかもしれません。具体的にどれ?と思うかもしれませんが、それは空気のように身の回りにあるすべてです。その空気の如き存在に、まずは気づくこと。そして私たちが当たり前に呼吸して生きていることに気づくことから、世界の変容が始まります。

愛を学ぶというのはこういった人類の冒険の物語でもあります。

楽しんで生きるには

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人間の歴史を調べていると、有史以来人は神との関わりの中で前進してきているのがわかります。誰もが本当は心のなかに神の気配を感じているのに、それを確信し、実感できる人はどれだけ存在したのでしょう。

大学で演劇を学んだ時
『演劇の歴史の起源は人類の歴史のそれと等しい。古来演劇は神に捧げられたところから始まる』と教わり感動したのを覚えています。

人間が人間だと自己を認識したと同時に、人は心を意識し、神を求め、その神に人間であることへの洞察を捧げ、神に認識されることを求めたのだと思います。

けれどその歴史はなぜか血塗られています。神から離れた人間は争い、また神に近づこうとして人は争います。

その結果を見て、神を求めることに幻滅する人もいます。けれど私は、人が幸せを求めて簡単に幸せを手に入れられないのと同じように、神を求めても簡単に見つけることができないことを示していると感じます。

神を、その後ろ姿の片鱗でも見つけることができればきっと、神を巡る争いなどに興味を持つことすらできなくなるだろうと私は思います。

もし本当に神に愛されていることを感じることができたらきっとその人は、他の人ともそれを分かち合いたいと思うでしょう。他の人が愛されることについて、また神の愛し方についてとかやく言う必要はなくなってしまうでしょう。

私は、人間というのは存在そのものが奇跡だと、つくづく思います。奇跡というのは、神のわざのことです。この自然やすべてのいきとしいけるものもそうです。でも人間は記憶し、再現するだけでなく、未知のものを創りだそうとする意欲や知ろうとする欲求、自己を認識するちから、そしてそういった知恵をも超越した叡智をも内包し、それを分かち合い、共感する能力を持っています。本当に、神の似姿に作られていると思うのです。そういった特性の統合のゆえに、愛を知りうる存在であるのです。

人間が地球上で学ばなくてはならない最も崇高なものは、愛です。ですから人間が自己という存在を認識すると同時に神をも意識したのです。神なしに愛を学ぶことはできません。それは宗教上の教えをする神ではなく、すべての人の心の内側の深いところから、常に私たちに音を発し、光を放ち、その存在を示し続けているもののことです。

多くの人がそれを感じたいと願っています。それを感じるために私たちはこの世にやってきます。そしてまず、お母さんからその道標を受け取ろうとします。愛を知るための土台となる、自分を育む愛情を全力で体感しようとするのです。

そのお母さんがどうであろうと、そこに私たちを育んでくれたことが彼女の愛です。ですが、子どもが必ずしもそれを上手に受け取ることはできません。そのボタンの掛け違いから、実は私たちは、より真実の、より大きな愛を求める旅を始めるのだと思うのです。

掛け違いが大幅にずれている人もそうでない人もいるでしょう。でもいずれにせよ、お母さんの愛が完璧でないからこそ、私たちはもっと大きな愛を見つけようと求めることができます。自分の家族を新たに作って、自分ならこうする、という実践をすることもできますし、社会を通して与える練習をしながら神の愛を見つけることもできます。こうして無条件の愛について少しずつ知っていくのです。

この冒険の旅には幾つもの挫折の罠があります。お母さんからしっかりと受け取れなかったことが傷となり、後の体験を積むことを恐れさせることもあります。家族からしっかり受け取れたつもりでも、パートナーとの間でつまずくこともあります。与える立場になったとき、受け取ったときのようにうまく与えることができないこともあります。がんばりすぎて、考えすぎて、感じることを忘れてしまうこともあります。愛はいつでも、頭で理解するだけでは内側に溶け込むことはできません。愛と一体になるために、私たちは心で感じなければなりません。それには心を安心によって開いておく必要があり、その内側には受け取るスペースを空けておく必要があります。でも一生懸命になりすぎると、このスペースは荷物で埋まってしまうのです。

こんなふうに私たちは幾重もの罠にかかり失敗するのです。しかし、心とからだは、失敗を恐れすぎている限り学ぶことができません。

失敗を恐れていると、私たちは体験そのものを楽しむことができません。よく『楽しんでね』と、スピリチュアルの信奉者は言います。それは、楽しいことだけ選んで体験することでも、失敗しないことでも、楽しいげな気分ばかりを感じることでもありません。楽しむ、というのは、真実である、ということです。正直で、自分と一体である、ということです。

そうであるとき、私たちは、苦しみも痛みをも、人生として受け入れ、楽しむことができるようになるのです。それが人生における最大のギフトです。

人生を楽しむには、言い方を換えれば味わい切るには、どうしても神と、その愛が必要です。安心によって心にスペースを空けておくために。

舞台美術、音響、登場人物、そして脚本。あなたは知らなくても、それらを神が、あなたのためだけに、あなたに最も合うように、選んで準備してくれているとしたらどうでしょう。神が、個別に、あなたを格別に愛し、その愛ゆえに、あなたには内緒ですべてを準備してくれているとしたら。本当はそうなっています。

内なる神を見つけるというのは、その神からの愛の贈り物を信頼して生きることなのです。

時事とスピリチュアル

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みなさん、こんにちは。

今朝は豪雨で明けました。今年は雨が少なかったようなので、恵みの雨にほっとします。夏以外は毎年様相が違うんだな、ということもわかってきました。

日本はまた選挙ですね。前回の衆議院議員選挙では、もう後がないという切羽詰まった気持ちでしたが、今はもう、その後を生きている感覚です。でも本当に後がなくなるのはこれからなんでしょう。それでもすべては私たちひとりひとりの今における選択にかかっています。日本がいい方に、平和で、豊かに、ひとりひとりの人権を奪われない方向に、と祈っています。

私の育った家庭では、両親ともに政治には関心があったほうなのだな、と振り返ると思います。

私も小3で、水疱瘡で学校を休んでいる間に代表委員というものに決まっていて、それがちょうど、小学校の国会みたいなもので、それ以来ずっと代表委員をし、5年生で副会長、6年生で議長というのをやって、全体のために運営する、という楽しさを学びました。

人にはそれぞれ得意分野というものがあり、カルマがありますので、いろんな人がいて当然なのですが、代表とか権力者とかいう立場の人が、全体の幸せを自分の喜びと思えないと、世界は暗黒に染まってしまいます。

そういう立場を得た人が癒やされていないと、もっと欲を叶えたい、もっと欲しい、になってしまいます。そういう欲は確かに一時的な原動力になはりますが、本当には世界を動かしてはいません。きっかけは欲でも、やってみたら使命のすばらしさに気づけた、となるのがそういう立場にふさわしい器であり健全な精神だと私は思います。日本人はこういうことが分かる人が以前はもっと多かったように感じるのですが、今はもっともっと、という人が多くなってしまっている気がします。そうやって古い毒が出ているのでしょうが、それを自覚していないことはとても問題だと思います。無意識は新たな闇を作り出すからです。

スピリチュアルのある分野では、人類の精神性は過去にもっとずっと発達していたという説があります。或いは、人間の過去はそうでもないけれど、別の宇宙から来た魂は高度な精神性を宿し、人類の進化をリードしに来ている、という説もあります。

そういう説から私たちが学び、活かすことがあるとすれば、私たちはいかに、もっと高度でありうるかを、思い出すことができる、という点にあるでしょう。

結局のところ、人はなぜ生きるか、という問いの答えは、自己をどれほどに知ることができるか、という一点にかかっています。自分を知るというと、多くの人が他者との比較を思いつきますがそうではなく、自分がどんな存在なのか、ということです。それがわかればすべてがわかります。なぜならすべてはひとつだからです。それ以外の切り込み口や外側を探しても、代用することは不可能です。言い換えれば、どんなに回り道をしたとしても、いつか自分の蒔いた種はすべて刈り取らなくてはならないということです。世界に種を蒔いているいるのは自分なのです。

政治の話になると、多くの人があいつが悪いこいつが悪いと言って、あいつに責任をとらせよう、となります。それはこの地球のゲームのルール上は間違っていません。でも、もっと大きな魂の世界のルールでは、すべては連帯責任となります。本当はみんなで決めてやっていることです。元々、そういうルールで地球に来ているし、肉体を離れればある意味、魂もひとつしかないのです。

そういうルールを知ってしまうと、もう、あいつが悪い、とか言って怒っている場合ではなくなります。助けなくては、という気持ちになります。助け方はもちろん優しいだけである必要はありません。叱っても時にはぶっ飛ばす必要も、あるとは思います。強い執着を引き剥がす時には時にはショック療法が効き目がありますから。でも、ショック療法は、行う側にもリクスがあるのです。ケンカの形になればケンカは両成敗になりますし、叩くほうの手もそれなりに痛みます。

そういう役目を負うには、愛情なくしては任務を遂行できません。それには精神の成熟が必要になります。そういう成熟した人が、今は影を潜めているように見えます。おじいさんたちが最期のちからを振り絞ってがんばってくれているようにも見えます。どうも次の世代にうまくバトンタッチできていないようにも見えます。これはやはり、敗戦という価値観の区切りが、極端に人の精神を切り裂いたための分断のようにも見えます。

自分の取り分を主張する目的だけのケンカは、次元の低いケンカです。どうも今は、ケンカはすべてNGとなっていて、愛あるケンカまでもが敬遠されてしまっています。きょうだいゲンカとか夫婦ゲンカって、もちろん自己主張であると同時に、相手にわかってほしい、裏返して相手をもっと理解したい、につながっています。わかんないからケンカするんですが、でも絶対に仲直りしたいんです。もっと仲良くなりたいからケンカします。

で、こういうことを言うと、だから戦争くらいしたほうがいいんだ、などと言ってくるじいさんもいます。でもそれは次元が違いますよ。そんなこと本当に言葉尻捉えて言ったもの勝ちみたいになっている事自体、精神性の低さを感じます。今、国の代表連がそんな感じです。それを真に受けちゃう人も多いというところが、頭で考えて言葉遊びに終始しているんだろうな、と思うのです。

どうせ頭で考えるなら、もっと突っ込んでとことん考えてみるといいのに、とも思います。人間としてなんかおかしい、と感じるところには絶対に理論がありますから、とことんやれば論破できると思います。中途半端で諦めてしまうと、えせ宗教みたいなレベルに落ち着いてしまうこともあります。

小学校の議会では、言葉尻を捉えて揚げ足を取ってくる子って必ずいました。少し勉強ができて、プライドが高くて、人に勝ちたくて、でも深くは考えてないような子です。でもそういう子にひどいことを言われて、カッとして怒ってしまうと負けてしまいます。私は何度もそういう悔しい思いをして、そういう論旨のおかしいところを言葉で説明できるようになりました。元々目的が自分を通そうとして揚げ足をとっているだけなので、理論で覆されるとぐうの音も出なくなります。根底に信念がないからです。安倍首相の発言を見るにつけ、そういう頃のことを思い出します。

私は人生の前半で、とても多く宗教の勧誘を受けました。その時も多くを学びましたが、言葉の意味を聞いているとなにが真実かわからなくなります。いつでも、その奥の意図を聴くように心がけます。するとその目的や方向、また隠されているものも自ずと見えてきます。人が神を語るとき、それは最も純粋な理想を語ることです。それは便宜上使われるものでも他の目的のために利用されるべきものありません。

同じく人が人の世界を動かそうとするとき、最も純粋な理想のためにそれを行おうとする意図が重要だと私は思います。本当に単純すぎて、みんなが諦めかけてしまいそうなことですが。でもその前提なしにはただ混乱があるだけだと私は思います。その前提あってこそ、泣き所や妥協点なども正しく認識することができるのです。

前提は、いつの世にもみんなで声がけしていないといつのまにかなし崩しに消えてしまうものなのだな、と、思っています。