人生の問題を解決するとき必須なもの

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沖縄で暮らしてまる6年になろうとしています。
最近、主人と車の中で(車の中でいろんな話をします)
「沖縄に来て本当に良かったと思う」と私が言うと
「もしかして俺たち、沖縄でなければいけなかったかもしれないと思うよ、最近」と主人から返ってきました。

沖縄へ来てしばらく経った頃には
「どこで暮らしても同じなんだ、要は自分」と学ばされましたが、それも踏まえた上での会話です。
どちらも本当のこと。

沖縄でよく思うことは、人ひとりの想いのちからの大きさ。
沖縄のお天気は行事に強いなぁ、と思うことが多いのだけど、大事なときにはよく、天気予報を無視して晴れる、とか。
大事な時っていうのが例えば、子供の日とか、運動会とかだったりして、私はよく、おばあが孫たちのために心込めてうーとーとー(お祈り)してるんだな、と感じるのです。

私はまじめにそう思うのですが、ここで多分、沖縄の人がこれを読んだら、そうねー、普通よーっていう感じに受け取っていただけるんじゃないかと思います。やまとぅーにはもう少し遠い感じの話に聞こえる気がします。

東京育ちの肌感覚では、例えば、祈るのは最後の手段、という感じがあります。
ですから、何か問題があるときの解決策にはまず合理的手段を探すのが当たり前という感覚です。
体調を崩したらまず病院に行く、というような。当たり前ですよね。

でもこちらでは「病院半分、ユタ半分」という言葉があって、体調の不良も、エネルギー的な不具合かも、という視点で考えるのは普通です。
私はユタさんの言い分がすべてとか絶対とは思いませんが、最初にエネルギーありき、というのは本当だと思っています。

「エネルギー」というのは、人間において言えば、「心」が放つ「想念」の波動がもっとも直接的で影響力があると思います。
いろいろな意味で、沖縄の集合的な世界観は形而上学的に科学的で理にかなった点がとても多いのです。誤解や迷信的な部分が付随していることはありますが、人間が霊眼を一時的に見失ったとしても、再度見つけることができるように形式化されて伝統的に引き継げるように工夫がしてある部分に感銘を受けることが多いのです。

日本人は第二次世界大戦の敗戦のあと、神を封印し、経済を崇めました。
その影響下で育った多くの人は、顕在意識(合理的思考)によってものごとは片付き、人間は発展する、と認識してきました。
でも実際、合理的思考によって解決できるのは瑣末な部分でしかありません。
それはあくまで補佐的に働くちからです。言わば交通整理です。
交通整理で衝突事故を緩和することはできます。
でも、ゆくべきところをみつけることはできません。
ゆくべきところをみつけるのは、私の魂であり、意識であり、存在のちからです。

ゆくべきところがみつからないまま、私たちは交通整理に必死になり、交通整理に人生の時間を捧げます。
より快適に、よりスマートに、を求めて。
そうしていればそのうち、ゆくべきところがみつかるだろう、その先に幸せがあるのだろう、とぼんやり考えながら。
このことは一般に「意識の高い」と言われる人々の中にも多く見受けられます。
しかし、本当にそうでしょうか。私は違うということがわかりました。

もしそういう行為の滑稽さ不毛さに気づいたら、私たちは自己を見直す必要があります。

祈りと瞑想は、私たちが魂と、意識と、真の自己存在と再会するための唯一の方法です。
ですから基本的に、対処と祈りでは、祈りが先です。
そうすれば、対処が実を結びます。
対処のとき、間違った選択(誤解、混乱)を選ばずに済みます。

神というあまねく照らす光にまず介入してもらって、事の様相をはっきり見せてもらうのです。
それから落ち着いて対処することです。
そうすれば、人事を尽くして天命を待つ、という心境にもなれます。

盲目のまま対処に明け暮れ、デタラメに走り回って、「どうして着かないんだろう」とか、
あるいは神がいればきっと着かせてくれるはず、というのも、人間の都合のいい考えです。
それはきちんと依頼せずに、あわよくば恩恵に預かろうという考えに似ています。

きちんと依頼する、というのは、とても大事なことです。
その対処にも自覚を持つことになり、またそこから来た結果をもしっかりと受けとめることにつながります。
結果的に、責任感と感謝にもつながります。

逆説的ですが、よく考えればこれは当たり前のことです。
最高司令官に監視を依頼している、と、イメージしてみるといいかもしれません。
そうすれば自ずと自分の行いも認識し、自覚と責任を持つようになるという感じです。

人間には、思考と想念という、使い方に注意が必要な強大なパワーを与えられています。
神によく話しかけ、助けてもらいながら、最善の使い方をみつけ、施行するという責任があるのです。

無限の良心を生きる。


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みなさんこんにちは。
沖縄は先日、県知事選挙がありました。沖縄に住んで二度目でした。

沖縄へ来てこのかた、選挙には必ず行きます。以前は行かないという選択があると思っていました。
しかし、今は変わりました。
私の持つ権限はたったの一票ですが、そこに宿るエネルギーはもっとずっと大きなものです。
そういうエネルギーによって、今は常に変化しています。

日本はどうなっていくのでしょうか。

人間には永遠に変わらない無限の良心とも言えるものがあります。
それが愛です。

良心とはなにか、と頭で考えますと、善悪のことがまず浮かびます。
善、という言葉も、悪とセットになっています。

しかし、愛を表す良心や善は、悪とセットではありません。
善悪や良し悪しを超えたそれを、私は神と呼びます。

光のあるところに闇は存在できません。
このことに気づくのに結構時間がかかりました。
世の中では光と闇はあたかも表裏一体であるかのように言われています。

光のあるところに闇は存在できません。
これが神の特性を表していると思います。

では闇はどうしたら存在できるでしょう。
光を遮るものがあるときだけ、闇は存在し得ます。

愛に置き換えます。

愛があるところに、闇は存在し得ません。
しかし、愛を遮るものがあるとき、闇が存在し得ます。
この闇は無知であり遮るものは恐れです。

闇は隠されたものであり、影であり、実在ではありません。
光だけが実在です。

私たちが光から隠れようとするとき、私たちは遮るものを作り出します。
遮られると私たちは無知に陥ります。

いったんそれが起こると、私たちは次々にその無知から逃れるための何かを作り出します。

作り出すことはそれ自体が想像や創造のちからをかきたてますから楽しいこともあります。
でも、そればかり追いかけている限り、私たちは本質からますます遠ざけられていきます。
根源なる光は遮られ、人工の明かりばかりを頼るようになります。

人工の明かりはある程度は人間を助けます。
だからといって恒久的にそれが続くわけではありません。

けれど人間は傲慢になります。
人工の明かりがだめになったらまた別の人工の明かりを作ればいいと考えます。

ある程度助けてくれたものに頼るばかりか、人間がそれを恒久的に作っていけると考えるのです。

その流れを止め、修正できるのは内なる気づきと意思の他はありません。
それを気づかせ、助け、導き、道を照らし守ってくれるものが光すなわち神の愛です。
でもどうやって?という考えの答えは順を追ってやってきます。
私たちが光を見るようにすること、光を知ろうとすること、光とともにあろうとし、その意思を感じ取ろうとすることが全てです。

すべての人が内なる神を見つけ、愛のなかに生きる世界が来ることを願っています。

大城(うふぐすく)からの夕日
大城(うふぐすく)からの夕日

あらゆる制限をはずす。


更新遅くなりました。いつも応援ありがとうございます!

沖縄、昨日は澄み切った冬のような空でした。乾燥して冷たさを感じる空気でしたが、きれいです。沖縄。

スピリチュアルを意識し、取り組むということは、現実を意図的に創造するということと同義です。
つまり世界が変わらないならスピリチュアルではありません。

そして、世界を変えるには自分が変わる、つまり過去(の概念へのとらわれ)を捨て、今に生きる必要があります。
変わるというのは簡単に言えば、過去を手放すことです。

そうすることで、スピリットのエネルギーが自分を今満タンに満たすことができるようになるのです。
かみ砕いて言うなら、内なる神が私たちの心身を満たして、共に在ることを感じさせてくれます。

さて、私たちは常に目の前の義務に追われ、選択を強いられます。
多くの人が、自分はどうしたいのかがわからない、と感じているのではないでしょうか。
もしくは、それすらも無意識のもやとして感じているかもしれないし、感じていないかもしれない。

どうしたい、というのは欲求、欲ですから、ないほうがいいのでは、と思う人もいるかもしれません。
また、どうしたいか、ということがイコール本当の自分であり、それを見つけることが自分を見つけることだと思っている人もいるかもしれません。

私はそれらのどれも経験してきたと言えます。
自分がどうしたいかを知っているのはとても大事なことです。
もちろんそれ自体が自分ではありません。
ですが、自分を知る大きな要素ではあります。

私は子供のころから、まず全体を見まわして、みんながいいのがいい、という基準がありました。
みんながそれぞれほしいものを選んだら、最後に残ったのをもらう、という感じです。

一見とても大人なのですが、実際大人になってみるとそれは特に美徳というわけでもありませんでした。
いえ、それで完全に安定しているのなら申し分ないのですが、なかなかそうはなりません。破たんがきます。
結果、自分の境界線を見つけることに非常に苦労しました。

これは、例えば主婦という仕事をしてみるとよくわかります。
自分の時間とか、自分のため、というのをどこまでも犠牲にしてしまって、それが当たり前すぎてなかなか気づけません。
それで疲れすぎてしまったり、全部がいやになってしまったり、ということにつながるのです。
これは、実はインナーチャイルドが満たされてない状態を示しています。

私は20代終わりくらいから、自分の育て直しに取り組みました。
それはイコールスピリチュアルの法則に基づいて生きるということでした。

愛とは、エネルギーとは、心とは、からだとは、意識の仕組みと成り立ちとは、ということを理解するだけではなく、実際の生活に照らして、自分を変える試みをする、ということです。

自分で選ぶということは、選んだものをきちんと受け入れ、そこから学び、責任をとることを覚える上でとても重要です。
状況や、周囲の意向や圧力や常識などに合わせて自分の動向を決めるやり方に慣れてしまっていると、(実際のところ、これがスタンダードです)私たちはあっという間に眠ってしまいます。

それを意識化する練習として私がよくやっていたのは『制限がないとしたら、私は何を選ぶか。何を望むか。』と自分に問いかけることです。
お金や、家族や、なんやかんやという条件付けをいったんできる限り取り払ってイメージしてみるのです。
自分がどこまで自由になれるか、あるいはどこまで不自由なのか、きっと感じることができます。

そんなことしたってしょうがない、時間の無駄、そんなこと考えたってしょうがない、と思われるかもしれませんが、結構役に立ちます。
自分がどれだけ創造に対するエネルギーを制限して、『私は』という主体を見失っているかがわかります。
そしてそれに気づければ、それを取り戻すという選択が可能になるのです。

父が、母が、きょうだいが、会社が、上司が、社会が、システムが、お金が、資格が、才能が、時間が・・・・
という風に、私たちはまず制限ありきで発想することに慣らされています。
その枠内で可能なことを選ぼうとします。
そうしていると、ある日足は萎え、羽は弱り、想像力は乏しくなっていき、生命力は先細りになり、それに備えるために人生を生きるようになってしまうのです。

そんななかで『私たちは無限の存在です』などという真実の言葉を聞いたって意味がわからないですし、変な宗教のようにしか感じられないでしょう。

『私は』と言ってみてください。
今まで否応なく選ばされてきたように感じていても、私は、と宣言することによって、私たちは自分を取り戻す道を歩み始め、『私』を通してしか出会うことのできない、内なる真実の神を見つけることが可能になります。