どこにいて何をしているかに気づく。


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先日の台風19号のあとは、この上なく爽やかな秋らしいお天気が数日続きましたが、ここは沖縄、再び蒸し暑さが戻って参りました。わかっていてもつい、このままこんな感じでいくんだっけな、と思ってしまう、四季に馴染んだ内地育ちです。勝手にからだが来るべき寒さに対して構えているんですね。頭ではそうはならないと思っていても。

心の反応というのもこんなことが無意識にいつも行われています。これらは悪いことではなくて、潜在意識の中でも肉体存続のための重要な仕事です。

けれどもこの反応が自分自身だと思ってしまうと、自分というのはとても限定された不自由な存在に見えてきます。まるで、生き延びるために生きているみたいに。

瞑想はこの小さな枠から抜け出す唯一の方法です。

私は以前はそうだったのですが、意識について、考えることがすべてだと思っていました。これ以上ないほど突き詰めて考える。あらゆる想定をし、検証する。でもそのやり方で人生を進めると、あっという間に壁に突き当たります。どうしたって人間は不遇な生き物なのです。のんきに生きられるのはその不遇さに気づいていないだけだ、というふうに思えます。牢屋に入れられていても、牢屋の外を想定しなければ不自由ではないのです。ですがいったん想定すれば牢屋は地獄と化します。そうなると、知らぬが仏、要は気づかないことのほうが幸せ、ということになります。そんなことでいいのか、というのが私の以前の悩みでした。

でも、結果、そうではありませんでした。そうでない道をみつけるには、まず自分が牢屋にいるのだということに気づく必要があります。そしてそれに不自由さなりなんなりを感じて、出る方法なりなんなりを真剣にみつけようとする必要があります。

そして結果的には、本当に必要なことはそれだけでした。今、どこにいて、なにをしているのか、気づきとはこのことです。

求めよ、さらば与えられん、というのはこのことを言っています。欲望のままに欲しいものを求めても、無限に与えられないことを人は薄々知っています。しかし、人間が本来の自己に戻ろうとするとき、天はその叡智を惜しみなく与えてくれます。

これは夏の志喜屋ビーチ
これは夏の志喜屋ビーチ


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