あるがまま


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セラピーというと「不調を治して正常に戻すこと」と捉えられがちです。言葉の意味としてセラピーは治療、療法なので当たり前のことなのですが、それが究極の目的というわけではありません。人間には無限の力が備わっていると考えると、その無限を妨げているものをみつけて癒やすことができれば、本来の、あるがままに近づくことができると思います。

あるがままを知っている人がこの地上にどれくらいいるのでしょうか。

あるがままというとまず多くの人が、欲望のまま、本能のまま、というようなイメージを持たれるかもしれません。しかし欲望、本能というのは人間が個体として持っているひとつの機能に過ぎません。人間を肉体として眺めたときに付いている部品のようなものです。あるがままはそうではなく、人間の存在の本質に沿った自然な状態のことです。

そう観ると、人間があるがままになるのはそうたやすいことではなくなります。私はそうだと思います。人間は人生を通して、あるがままになるための探求の旅をしているようなものです。

私は最近では、不調というのは人間の成長を促すために存在する必然的な矯正器のようなものであると感じるようになりました。そうは言っても不調はないにこしたことはないでしょう、と多くの方はおっしゃるかもしれませんが、私はよもや、そうとは言えないとまで感じています。

なぜなら人間が本当に意識を使って意識的に生きるようになるまで人間は本質とともに生きているとは言えませんし、本質とともに生きないなら、人間は欲望と本能に生かされていると言えるからです。欲望と本能というエンジンは言ってみればとてもパワフルです。このエンジンをふかしている人は本人は調子がいいですし、周囲からみてもなんとなく気持ちのいいものです。人間は誰もがそんな絶好調を一度は夢見るものです。

しかしこのエンジンの絶好調は長続きはしません。また、必ずしも人間を幸せへは導いてくれません。当人はよくても周囲をも巻き込みます。巻き込んだり巻き込まれたりしている限り、なかなかパワーゲームのシーソーから降りることができません。

不調というのは本当は幻想です。ただ、周囲で誰もがそんなエンジンをふかしてパワーゲームに興じていると、自分はどうなんだろう、これはきっと自分がなにか間違っているか劣っているのに違いない、或いは逆に周囲が、世の中全体が間違っているという気がしてきます。そして、イライラしたり、攻撃的になったり、悲観的になったり、塞ぎこんだり、情緒が不安定になったりという状態になります。これが巻き込まれた状態です。

これらと、感情を感じることはしっかりと区別される必要があります。然るべきときに怒ることや悲しむことは、人間としての自然な姿で美しくすらあります。しかし上記の不安定さというのは、真実を感じていないときに起こります。本当は悲しむべき(悲しみたい)なのに、それを感じないように塞いでおく。なぜなら悲しんでいたら自分が弱くなってしまう気がする。弱くなったら自分は世の中(の幻想のゲーム)に負けてしまうだろう。だから悲しむのはよそう・・・。そして、その抑圧された悲しみは自己への嘘の代償としてイライラや焦りややりどころのない怒りなどに姿を変えていきます。

こういった不安定さから来る不安はこの世で多くの人が潜在的に抱えています。集団的な幻想への正常な反応として。

しかしながら私たちの本質は、そこから常に自由になろうと私たちを内から導くのです。その導きはそれに相反する働きを、自浄効果のように排毒しようと試みます。そこで、その自浄現象を効果的に意識的に通過する手助けとなるのがセラピーなりなんなりということになります。

不調という不安定は、実は私たちを偽りの安全から真の安全、平安へと導く内なる導きに他なりません。あるがままへの道です。

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