ソウルメイトは劇団員。


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百名ビーチのお散歩
百名ビーチのお散歩

よく「この世は舞台、人はみな役者」と例えられますが、演劇には舞台上のルールがあり、そして脚本という筋書きがあります。私は演劇に出会い、舞台上で演じている時に初めて「自由」ということを実感しました。ルールというのは例えば、切迫した感情をぶつけ合いながらも絶対に自分自身や他者を(肉体的にも精神的にも)傷つけず、信頼を築く、というようなこと。役者はそのようなルールがあるからこそ、全力でぶつかり合うことができます。また、脚本や設定があるということは、その結末や目的地が見えているということです。

それで、実際の人生の中でそのようなルールや目的地を見つけられれば、或いはそれらがあるかのように生きられれば、もっと幸せになれるのでは、と考えました。

ただ、私が言いたいのは、人生のストーリーや未来に起こることを予知することがそうだというのではありません。スピリチュアルというと最近は占いとよく一緒に扱われますが、出来事を予測することと仕組みを知ることは違います。ルールや目的地というのは言い換えれば仕組みのことです。

私たちは意識を使って世界を創り、認知し、人生を生きています。しかしながら私たちはこの意識というもの自体をよく知りません。仕組みを知らないまま使っているので誤解と混乱に満ちています。誤解と混乱があると、苦が生じます。私たちが幸せになるためにはこの苦から自由にならなくてはなりません。

過去世についての説明をするとき私は、魂を役者、肉体を役柄に例えます。

ソウルメイトは同じ劇団の劇団員です。何度も一緒に演じている気心の知れた、信頼できる役者同士です。

同じ劇団で何度も違う演目の公演を繰り返しています。これが転生です。

一つの魂は数千という役柄を演じてきています。魂はベテラン役者で、人間を演じることには慣れているのですが、毎回役に没頭するので、その役柄の人生観や価値観、性質も意識に刷り込まれています。これが潜在意識の記憶です。時には自分が役者で演じているのだということを忘れ、舞台のルールを忘れて、本気で相手役を憎んだり殺したりしてしまうこともあります。そして、今の演目で今の役柄を演じて相手役と絡んでいるときにふと、前回の役柄の時の記憶や癖が頭をよぎり、動作やセリフに表れてしまいます。これが過去世の影響です。

そうすると、相手役は戸惑いながらもつい、そのアクションにつられてリアクションをとってしまいます。自分も前回の役柄の気持ちで反応してしまうのです。今回は仲のいい親子を演じているはずなのに、前回の敵対していた兵士の時の記憶が出てしまうのです。一触即発なピリピリとした空気が互いの間に流れます。そんなつもりはないのに、そのピリピリムードに乗っかってしまいます。前回演じた時のリアルな感触が肉体感覚に刷り込まれているのでそれを演じるのはお手の物なのです。

こんなことが起こると、今回の演目はぶち壊しです。そして頭では軌道修正しなくてはと思っているのに、顔を見るとつい慣れ親しんだ方のリアクションが優位になって、互いに悪循環が起こります。

こんな感じで、私たちは数千回と繰り返された過去の役柄の反応の蓄積を持ちながら今回の新しい演目に取り組んでいます。これは演技の引き出しが多いようで良いことのように見えますが、実は無駄も多いのです。そこであまりにも過去の役柄の影響を受けすぎているならそれを意図的に解放することができるということです。それにはイメトレが効きます。イメトレというと軽いですが、これが瞑想、或いは催眠療法です。

瞑想は、いろいろな役柄のイメージでいっぱいになった意識をいったんからっぽに近づけて、魂だけの存在だった自分を思い出そうとする試みです。着込んだ衣装を外し、自分に染み付いているセリフや感情や自己イメージに気づいて、それを返上します。そして自分は役の人間である以前に、役者であり、どのような役にも愛を持って演じているだけだということを思い出すのです。

そうすると、演目のストーリーに巻き込まれずに、演じていることへの喜びと感謝が戻ってきます。役者は悲劇をも感謝と喜びと使命感を持って演じます。その根底にあるのは愛です。

ヒプノセラピーで退行催眠を体験すると、このような意識の仕組みに実際に触れることができます。そうすると、自分はこんな性格、こんな人格、こんな人、という自己認識は単に感覚的な記憶であること、また感情は物質のように扱うことができるエネルギーだということもだんだんわかってきます。

多くの人が、自分という存在を誤解することで苦しんでいます。その苦から自由になるには本当の自分を知ることであり、自分に対する自分の誤解を解くことなのです。

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健康のもと。


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パワーをいただいています。

みなさんこんにちは。

先日のことです。「メンタルの問題の原因は食べ物ですか?」と聞かれて、一瞬考えました。食べ物は確かに心にも大きな影響力を持っています。何につけ、生きることへの不調和を感じるのは身体になにかしらの異変や不具合を感じる時だと思います。人間の幸福と健康に多大な貢献をした偉大なチャネラーであるエドガー・ケイシーは「人間のからだは食べ物と日々の思いでできている」と言いました。そして「食べ物には2種類しかない。身体にエネルギーを与えるものと、毒するもののどちらかだ」とも言っています。これには深く共感します。口に入れる時、これがそのどちらなのだろうと意識し選ぶことはとても大切だと思います。

しかし、人間は肉体であると同時に意識という存在でもあります。エネルギーというレベルで言うならまず意識という微細なエネルギーがあり、それが結晶化したのが肉体である、というイメージです。まず意識のエネルギーありきです。冒頭の質問に私は「おもに、家族関係」と答えました。もっと明確に言うなら、あらゆる不調和の本当の原因はどんなレベルであれ、どんなシチュエーションであれ「愛の欠如」だけです。

口に入れるもの、食べ物にあまりに意識を向けすぎると、私たちは自分を「肉体という存在だ」というふうにみなしていがちになるかもしれません。身体の健康は本当にありがたいものですがそれ自体が贈り物とも言えます。その贈り物に対して世話をするのは大事なことです。世の中には食べ物にむとんちゃくな人も恐らくたくさんいるので、それが健康状態や心の状態に深く関係していることに気づき選択することはとても重要です。

しかしもっと言えば、私たちは栄養素によって生かされているのではなく、食べ物の生命力をいただいています。自然界の中にいる乳酸菌や麹菌や枯草菌などの菌類、また、細胞の中のミトコンドリアのような微細な生物は意志を持つかのように連携しながら働いています。彼らの生命力は私たちの生命力でもあります。その自然界のバランスが崩れることで私たちは当然バランスを崩します。

私が学校で習った頃の栄養学では、食べ物はその栄養素に価値があるというものでした。それは多分今でも基本変わっていないのでしょう。しかし私自身自分の体調や心の状態などを探求してきて思うのは、人間はやはりそれ以上のものから影響を受け、与えられ受け取ることのできる生き物なのだということです。

私は自分がとても身体が弱いと感じて生きてきました。実際に母親から、あんたたちはなんて弱いんだろうと言われて育ちました。そして幼い頃同居していた健康おたくの祖母が試したあらゆる健康法、健康食などを享受されました。食材も、当時は生活クラブに入っていて、選ばれたものをいただいていました。そして調子を崩して病院で検査してもどこと言って決定的なことは出てきません。それは今も変わりません。いったい自分のからだはどうなっているんだろう。どうしてこうもスタミナが続かずガッツがないんだろう、些細なことでダメージを受け、ひきずりやすいんだろう、と、いつも感じていました。自分が怠け者でずるい人間のように思えることもありました。

しかし、理屈でいくら理解しても分析しても、或いは栄養学的な健康法を試してみても、自分の生命力のパワーは一向に上昇しないどころか、大人になるにつれ制限が増え、とうとう20代の酷い時には、近所のスーパーに買い物に行って戻るだけで力尽きてしまうほどまで弱ってしまいました。そのような自分に抵抗し、努力をしてみてもできる限りの手を尽くしたつもりでも改善しませんでした。そうしていると、自分は自分自身や自分の人生に対してなかなか自信が持てませんでした。自分がとても危うくまたこの世界から歓迎されざる存在だというような―そうはっきり認識しなくても―感触を人生に持たざるを得ませんでした。

結局のところそのターニングポイントは、「意識の仕組み」に出会った所で初めて訪れました。肉体や状況、環境や人間関係、社会性や能力の問題、それらのすべてに影響を与えていたのは、『潜在意識』でした。潜在意識への取り組みを始めたことでようやく負の折れ線グラフに変化が訪れたのです。

私はよく母親から「うちの子達は、どんなに良い物を与えても効果が出ない」と言われていました。振り返るとその通りだと思います。何を食べても飲んでも、心の中に毒がたまっていればいい影響が現れません。心の毒というのは「悪」」という意味ではありません。それは、愛の光が行き渡らない部分に積もっていく「恐れ」なのです。

その恐れは過去世からの想念も含め、潜在意識にブロックを作っていきます。ブロックされたところには、神の光である生命力や治癒力や愛情のような魂の滋養が流れこまなくなっていきます。身体に良い物を摂っても、健康法や治療法を試しても結果に繋がらないのはこういった意識のエネルギーにブロックがあるためだと私は理解しています。意識のエネルギーはとても強力なのです。何しろすべてを創っているおおもとです。

食べ物や健康法の良い影響は、意識の浄化が進むにつれて徐々に効果が現れるようになりました。内面が浄化されるとそれに伴い波長の会う人や食べ物、健康法や治療法などを引き寄せるようになり、その内容が自然に移行していくことにも抵抗を感じなくて済むようになりました。ものごとは絶対的ではなく相対的です。

幼少期、愛を与えてくれ愛とはなにかを体感として教えてくれるのが、親という存在です。親が自分自身の中にこの毒を抱えていれば当然、子供に与えることに何かしらの制限ができます。しかしこの毒は人間誰もが持っているものですので完璧にクリーンな人など存在していないと言えるでしょう。また、このように言うと、与える側の問題が取りざたされてしまいますが、本当に重要なのはいつでも受け取る側の問題なのです。

子供は誰もが、まずは親から愛を受け取ることが仕事です。ですが与えられたものをすべてじょうずに受け取れるはずがありません。しかしながら愛からも、愛の欠如からも人間は成長します。そのレッスンのすべてが、人間に与えたれた人間らしく生きることへのテーマであり贈り物です。

学ぶとは、賢くなるためでなく、愛という面においてより崇高な存在へとなっていくためです。霊的成長というのがそれであり、人間が霊的(スピリチュアル)な存在であるということの意味です。

共感力。


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自分が自分の人生で精一杯だった頃は、ろくに世の中を見渡したりはしなかった。自分の宿題があらかためどが付いて、家族の問題にも向き合えるようになって、ふと、世の中を眺めると、呆然とすることがある。

情報を遮断することは、この南の島のはずれの、私の環境ではある程度可能だ。確かにここは静かだ。けれどだから地球が平和だというわけではない。今ここというのはもちろんそういうことではない。ひとたび情報の扉を開けば暴力や破壊的な想念が飛び込んでくる。自分が癒されるほどに、暴力や破壊的な想念はとても微細にリアルに感じられる。

意識を拡大するということは、見通しが効くということであり過去も未来もここにあることを知っているということだ。多くの共感力を持った人が、起こっていないことに苦しむのはこういう理由であると思う。訓練の段階で、起こっていることといないことを認識するのは大事だ。例えば「私はあの人にこう思われているのでこうなってしまう」というのは推測に基づく仮定に反応し、自分の対応を決めてしまっている。「こう思われているというのは、本当ですか?」というところから問い直さなければならない。カウンセリングというのはこういう問い直しの連続だ。

共感力を、周辺を察知するために使ってしまうとこのように外界に反応しつづけることでへとへとに疲れてしまう。不特定多数の人と一緒にいるだけで、人数分の神経を使って、自分の軸がなくなってしまう。

共感力というのは、進化のために欠かせない重要な能力だ。お猿さんが集団生活を円滑にするために「笑顔」というものを使う。その笑顔の意味は「敵じゃないよ」である。その意図は「だから攻撃しないで」である。その機能は防衛であり本能からくるものだ。しかし人間はそれ以上のなにかをそこでつかもうとする。防衛を超えた共感、それは思いやりや優しさや理解、受容とった連帯だ。愛の表現の一部だ。

人間は常に、防衛か、愛か、というせめぎあいの狭間に立たされているように思う。エゴか高次元か、と、スピリチュアル信奉者は言うかもしれない。しかし何を信じていようが起こっていることはひとつだ。防衛か、愛か。

「右の頬を打たれたら左を差し出しなさい」「銀の食器を盗まれたら、銀の燭台まで差し上げなさい」というのが神の教える秘法だ。人間は、愛によってしか動物以上のものにはなれない。もし動物でいようとするなら人間という動物はとんでもない秩序の破壊者だろう。動物は生存のために本能を使うが人間は欲望のためにも巧妙な知恵を使うからだ。人間は本能に生きる動物には真似のできない、神のやり方を学び使うために存在している。愛を体現することによって。

もしこのやり方を実践したことのある人なら、その威力の大きさを実感済みだろうと思う。そこには奇跡がある。自分と、自分の最も身近な人との間で起こった奇跡は家族全体にひろがり、友人と友人の家族にひろがり、社会にひろがり、国家間という大きな単位の家族にひろがる。それが平和の確立だ。

日本という家族の動向を率いる首相のやり方、発言を見ていると、今のところ幻滅する。「右のほほを打たれるのを待って、闇討ちしたい」とか「番長がやってるから闇うちにのっかる」という精神が見え見えだ。要は戦争がやりたいのだ。そして、そういうのをやれやれとのっかる国民がいったいどれくらい存在するのかと想像する。

先月、「母べえ」という映画を見た。第二次世界大戦前と最中の世相が描かれていた。多くの日本人は「戦争に勝てる」と思ってそれを楽しんでいたんだというあたりが伺えた。戦後日本は思い切り戦争を恥じて反省したのだとばかり思っていたが、本当は敗戦を恥じてリベンジを狙う思いが集合的に(あるいは一部に)潜むということもあるかとふと思う。母べえでは近所のおばさんが「どんどん勝って気持ちいわね」と浮足立ちながら戦利品の配給を貰いに行く場面がある。また隣組の組長さん(商店街のおじさん)は米英との開戦に「そうこなくちゃ」と胸を張って言う。とてもリアルに感じた。戦争が破壊するものをなにも理解していない人の感じが。彼はとても親切で善人なのだ。普通のおじさんなのだ。

相手の気持ちになって、身になって、相手の痛みや喜びを想像する、というのは、愛の第一歩だ。現代のスピリチュアルのワークでは、そういうことが自然に出来ていてなお、そこから来る弊害に苦しむ人を救済するのが大きな仕事である。私たちはその先へ行かなくてはならない。しかし、戦争などの破壊行為はまず相手の身になって痛みを知る機能をぶっ壊し、マシーンか、アニマルになることで目的を達する。切磋琢磨には摩擦は必要だ。けれど、立ち上がれないほど破壊するとか、殺す、という選択肢はいい加減卒業したいものだと思う。未来の人間たちに恥じない今でありたい。戦争にまっしぐらの日本。魂のリーダーが政治を率いる時代はまだ少し遠いのかなと待ち遠しい。

琥珀に封じ込められた夢。


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今年は少し咲いています。デイゴです。
今年は少し咲いています。デイゴです。

前回のブログに美輪さんや江上さんこのことを書いたら、先週我が家に遊びに来てくれたアンチエイジングの鬼こと勝田小百合ちゃんが、ちょうど同時期美輪さんの舞台に出ていたということを教えてくれた。江上さんはじめ、共演していた数人の役者さんが出ていたので観に行った『葵の上・卒塔婆小町』の初演に出ていたそうでびっくりした。その時まだ私たちは出会う前だったが、どの女優さんだったかもちゃんと思い出すことができた。まさに縁の糸はここにも張り巡らされていたというわけだ。20年近く前のことになる。

私が出ていた江上さんプロデュースの舞台では、私はなんといっても高橋広樹と仲良しでいつもべったりとくっついていた。なぜなのかよくわからないし、本当に公演の期間だけのことだ。彼も確か江上さんのクラスの出身で駆け出しのまだ所属も決まらない純な男の子だった。テレビを見ないので、彼が声優として活躍しているのをネットで知ったのは割と最近のことだ。mixiで『アズさん高橋広樹さんと知り合いなんですか?すご~い!』なんて言われて驚いた。

演出なさったのはドラマの名監督の故・土屋統吾郎氏でとても可愛がってくださった。監督は私と広樹くんを「あの2人は愛し合ってるな」と言ってみたり、私の相手役だった方と私を「昔のショーケンと桃井みたい」とおっしゃったりして面白がってくださったように思う。広樹くんは当時ミュージカルが好きで、私にミス・サイゴンの全曲と彼の選曲したミュージカルナンバーがB面に入った90分テープ2本組をプレセントしてくれたりした。おかげで私は今も『ひとりミス・サイゴン』ができる。

ちなみにこの舞台を観に来てくださった美輪さんは後に江上さんに対して『あの晶子を演った子(私のこと)、ジャンジャンで私に「よくわかりました」って言った子ね。私なら晶子をこう演るわ』って結構真剣にお話になったそうだ。「美輪さんがあんなふうに言うこと滅多にないよ。」と、興奮気味に江上さんが教えてくれたのも感慨深い思い出だ。(そうなんだ。私はジャンジャンの美輪さんのライブのあと、楽屋で握手してもらいながら「よく、わかりました」と言ったのだった。)

この頃のこういう昔話を思い出すのは当時の未熟な自分の記憶とセットだから冷や汗ものだ。本当は面白い話が山のようにあるのだがなかなか書く気になれない。20年なんて本当にあっという間で、傷とは言わずとも当時の生々しい記憶の肌触りというのはなかなか風化しないものだと思う。みんな見えない未来に向かって手探りだし役者というのは向こうから吹いてくる風を棘のように身体に刻むのが仕事のようなものだ。刺さる棘を紡いで物語を語るのだ。そんな人達が何十人集まってむき出すものを持ち寄って芝居を作るのだから、何十年もうなされる夢のようなものの澱がからだのどこかに残るのは当たり前だ。それをも私たちは笑って話せるようになるけれど、笑って話せるのとその澱が風化するかはまた別の話だ。奇しくもこの芝居のタイトルは『琥珀の夢』という。当時決して成功とは言えなかった舞台だと思うが、私の中ではなんとなくあの記憶こそが琥珀の夢だ。ある次元でなにかしらの真実を紡いだのかもしれない。

今のように潜在意識というものを探求する以前、演劇ばかりをやっていた時代から、私は芝居を『潜在意識の紡ぐ夢』だと定義していた。芝居を観に行って、面白いと思うかどうかというボーダーラインは、潜在意識に届くか届かないかの違いだと思う。芝居はストーリーではなく、その場のエネルギーを紡ぎ、そして客席を波立たせ、そして同調させる。舞台はある波動を作り出し、高いエネルギーで客席を引き上げるのが仕事だと思っていた。それはとても僭越で烏滸がましい行為なのだ。だからこそ役者は謙虚に稽古を繰り返し、自己のエゴを神に献上して役に降りてきてもらう。古来演劇は神に捧げるものであり劇場には神の座席を作った。芸術が観客のニーズに応えるためにあるのではない理由もそこにある。神の遊びの中で潜在意識の記憶を発動し浄化し気づきと奇跡をもたらすのがその役目である。