私腹、至福考

12-09-26_002

沖縄南部は強風域に突入しました。とたんに空は嵐もようとなりました。

私たち人間は、個々の魂のカルマを乗り越え消化していくとだんだんと内なる光の存在が感じられるようになります。自らの光を遮るような在り方から、共にある在り方になることは幸せです。不調だったところにことごとくエネルギーが流れて調和し、周辺の景色は変わります。自身の内なる光の放射によって、そう見えるようになるのです。特に家族というカルマ的な繋がりの強い関係に光が流れる体験は、神からご褒美をいただいているような幸せを味わうことができます。

そこで私たちは、ただそれを味わい感謝を体験するだけでいいのですが、出てくるのはその感覚に対する執着です。この状態を維持したい、という欲求と、また失って元に戻ってしまったらいやだな、という恐れが顔を出します。古い課題はクリアしてきたわけですが、新たなステージに上がるとそこにはまた新たな課題が顔を出すわけです。

その葛藤はエネルギーを膠着させて、私たちを肉体感覚の意識のほうへ引き戻そうとします。それによって私たちはまんまと、なりたくなかった状態、つまり元に戻っちゃった感覚を体験します。けれどもそれは本当は戻っちゃったわけではなく、新しい状態に慣れるための新たな練習課題と言えます。私たちの肉体意識はこんなに調子のいい、或いは平安な状態に慣れていないので、幸せすぎてこわい、というふうに心が感知するわけです。そして肉体は再び警戒警報を発令します。そこには本当は敵はいません。心から古いパータンから抜けきれていないだけです。

心と身体が新しい自己(意識)に慣れるためには時間と体験が必要になります。この神の計らいは実に見事です。神はここで、緩やかな時空を私たちに与えます。心や肉体感覚で対処しない環境を与えてくれるのです。急がない、思考で組み立てない、できる限り自己の中心にいる時間を増やし、起こった最低限のことに、この状態のまま対処していく、というのがここでのレッスンになります。

いったいこのあとどうなるんだろう、どこまでこのようなことが続くんだろう、と、多くの人が考えると思いますが、この頃には古いカルマや自己意識の枠を外した体験があるので、本質の流れ、つまり魂の導きを信頼してついていくことにも多くの人は馴染んできています。ですからその流れに従っていくことは、小刻みにつまづくことは起こっても(実際何度もつまづくことでしょう)恐れをなして後へ引き下がることはもうないでしょう。以前より今のほうがずっといい、ということを知っているからです。

私たちは至近距離に迫っていた個の課題、家族の課題に恩赦を与えられ、神の優しい導きを体験し、もうひとりではなく、その大いなるものとともに歩む人生のことがわかってきます。同時に、以前の視点から見ていた、或いは想定していたことと事実とは随分違うな、と、多くの人が気づきます。過去の視点から覗く未来は一直線上に延長線を引いていく世界ですが、実際は、自分はどこにも移動していないし移動する必要もなかった、ただ、見通す感覚が変わり、見え方が変わり、感触が変わり、佇まいがかわり、捉え方が変わった。つまり自分が変わっただけなのだということがわかります。ですが、このことは同時に世界を変えたことになるのです。

新しい世界では私は何よりも、自分のことばかり考えなくなります。私って、私って、という心の声はすっかりきかれなくなります。これはどういうことかというと、私が私自身にうんとフィットしている感じです。本質と個がフィットして、一体感があるので、私って、という分離感がなくなっていくのです。私に対する意識は高まり、私を尊いものとして扱えるようになり、愛するようになります。自己意識が設けた枠がはずされ、よりあるがままでいることが可能になるのです。自由で、楽で、平安、という表現が合っているかもしれません。

古い視野では、解放された自分は望むような自分になることを達成している、というイメージかもしれません。しかしそのイメージは小さな枠の中にいる自分が今の不満を晴らすための願望が込められていますので、達成自体も人生においてはあまり意味のあるものではないと言えます。(小さな自己が)望む自分になるのではなく、本当の(真の)自分(我)になるのです。本当の自分がもしつまらなく退屈だったらどうしよう、そうではなく、私は私よりもっと素敵なものになりたい、と枠の中の小さな私は思います。その事自体が、自分をわかっていない証拠です。枠の中に入っているので本当の自分なんてまったく見えていないというわけなのです。ですから、その枠をはずして、想像もできなかったような本当の素晴らしい自分に出会えばいいのではないでしょうか。

その方法というのが瞑想です。そこで多くの人が、おっと、その瞑想とやらを習得しないと本当の自分にすらなれないというのか、いんちき臭い、と思うでしょう(小さい枠の中の私は以前そのように言いました)。もっと自然に生きてこそ、あるがままに近づくんじゃないの、と。でも、ただこの日常を一生懸命生きるだけで、自然に生きることにはならないのです。私たちがそもそも、幻想という煙にまかれて生きているのだという前提を私たちは知りません。生まれ落ちた瞬間からそうだから気づきません。これが、あの映画のマトリックスのからくりです。そこから出るにはわずかな違和感をスルーしないで嗅ぎとって、嘘を拒まなくてはなりません。嘘を拒むには、真実に慣れることが一番です。瞑想は私たちのうちにある真実に意図的に意識を向け、そこにいることです。ヨガナンダさんふうに言えば、内なる神に、愛を捧げに行くことです。その神をみつけることが人生の目的だとヨガナンダジはおっしゃいます。

彼はみつける、とおっしゃっていますが、実際はただみつけるだけではなく神とできる限り片時も離れずに一緒にいること、そのための技法がヨガだと師はおっしゃいます。

ところで、個のカルマをすっかり解放してしまうと、そこには空のスペースが生まれます。それで小さい枠の中にいる人はその自由を使って好き三昧に生きたい、などと願望するものです。ですが、実際に空になると、見通す世界は無限に広がり、世界中のカルマが透けて見えるようになるそうです。そして、導くことはもちろんですが、そのカルマを自身に引き受けることができるようになると。つまりカルマを解脱した人は私腹を肥やして贅沢をすることができるようになるわけでも、仕事でスペシャルに成功し、願望達成を自己実現だなとと言うこともなく、(それもカルマ。いいカルマと言われますが人生の目的ではありません)そういう外面的なことには影響を受けなくなり、世界中の人々のカルマを引き受けてあげられるようになる、ということです。ですから、成功しているふうなことをことさらに目標にする人や、それを幸せだと言って売り物にするような人の言うことには私は用心します。至福な人は神と一緒に仕事をし、生活をし、周囲を幸せにする人だと私は思っています。

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