いのちより愛

ツイッターなんかで社会科のお勉強をしていると、「お金よりいのち」という言葉をよく目にします。これを見る度になにか引っかかって気持ちが悪かったのですが、それがなんなのか最近はっきりとわかりました。

お金よりいのち、と言っている人は善意ある、311以降脱原発などを訴えている人がほとんど。脱原発は私自身も賛成です。賛成というか、目指していることですから、この点では同志です。

ですが、お金といのちって、比べるものでしょうか。そして比べて確認して、何か意味があるのでしょうか。例えば政府や国家が国民すべてのいのちを軽んじて、経済優先にしていることに対する反論としての言葉だとしても、お金よりいのち、なんて言っては大切なことが遠くへ行ってしまうように思える。

なぜならまず第一に、国民のいのちを軽んじている政治家だって、お金より自分のいのちのほうが大事だと知っていると思うから。というよりも自分のいのちがなにより惜しいと思っていると思うから。お金にしがみつくのといのちにしがみつくのは同じことだから。彼らがもしわかっていないとすれば、自分のいのちと他者のいのちは等しく尊いということがわかっていない。(いのちは等しく尊い。このことはとても重要です。平和を訴える意識の根っこになくてはならないから。)

それから、お金というのは単なる道具、エネルギーの対価としての仮のしるし。それとわざわざいのちを並べてみることがいのちをとても軽くしてしまう。(結果的にいのちを軽く扱うこととなってしまう。)

それから、お金と並べてしまったいのちというのは、肉体のいのちのことにしか見えにくい。(自分のいのちにしがみつく、というふうに使われる意味でのいのち。)でも本当はいのちというのは宇宙と同じ。意識のことであり、神のことであり、愛のことだから。お金と並べてしまうなんて、物事を明らかにするどころか混乱へと向けることにしかならないと思う。(いのちとは肉体のことではなく意識とすべてのこと。)

比べて意味がないばかりか弊害が大きい気がしてならない。

もし私達が本気で世界を変えたいと思うなら、真実を語ろう。真実の言葉の中には莫大なパワーと奇跡の素が備わっている。

私は「いのちより愛」と言いたい。ここでいういのちは小さい意味のいのち。肉体に縛られた意識という意味のいのち。「子どもたちのいのちを守れ」の意味がこのいのちであるなら、私達は子どもを守るなんてできないと思う。すべての人は神の子ども。大いなるちからに生かされた宇宙の意識をわけた子どもだ。この地上でどのくらいの時間を生きたかどうか、その小さな差なんて問題ではない。すべての人が、今を、愛を生きることができるかどうかが問題だ。

もし私達が今を、愛をいきることができるなら、それはすべての人に伝わり、世界に伝わり世界を変えられる。結果的に子どもは守られ愛を受け取り学ぶこともできる。

すべての人のいのちを思いやることができるとき、人は自分という小さないのちの枠を超える。そのとき私達は愛であり、宇宙であり、真実であり、奇跡そのものになる。

愛が私達の中心であることがわかった人から、まだそれを見つけられない人を助ける。私達にできるのはただそれだけだ。地球を守るのでも子どもを守るのでもない。それは自分を救うことであり、同時に世界を救っている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。