自己浄化のすすめ

参議院選挙が近いので、平和について、そして今という時代の岐路ともいうべき状況について、よく考えを巡らせています。思考というのはこういう時に使うのだな、と思います。過去から学習し、検討し、見極め、そして次にとるべき姿勢について思案する、ということです。

その上で自分にできることを考えると、やはり今取り組んでいる仕事をコツコツすることだな、と思います。それは自己への取り組みであり、自己意識の浄化であり、内なる神とのつながりを見つけることであり、それを生きるということです。自分の仕事は、自己の取り組みによって自己が幸せになった道を示し、気づきを分かち合い、案内すること。

世界にはこんなにたくさんの人が生きていて、それぞれが自分の人生を懸命に生きています。たくさんの情報、知識、教養への道があり、それを得ることが出来る人もたくさんいます。けれど、人間という生き物について、その細かな成り立ちや仕組み、取り扱い方について、また誰もが幸せになるために必要な自己への取り組みについて、すべての人に応用できるような教えというのはまだまだ、人々の間に浸透していません。

過去には宗教がその役割を担っていたのかもしれませんが、人々の間で語られる神と実際の神との間には大きなギャップがあるように感じられます。こういうとまるで私が神を熟知しているかのように聞こえそうですが、宗教の教義のなかにおられる神は私の知っている神にとは随分違っていて、まるで人間のように怒りっぽかったり偏狭だったり神経質だったり応用が効かなかったりあるいは優しいけれど無力だったり、するように見えます。けれどももちろん神はそんな存在であるはずがありません。人間が自己意識の尺度というフィルターのついためがねで神を見ようとしたり定義しようとするからそうなるのです。神は無限の愛というパワーそのもので唯一絶対です。ワンネスとはこのことです。

人間は理屈でものを考えると、自己意識の罠にはまります。自己意識が限定している枠から外へは決して出ることができません。なぜなら自己意識はその人の認識できる世界のすべてだからです。その中にない答えを求めているのにその範疇で考えているとき、人は悩みます。思考はグルグルと同じ所を回り、ああでもない、こうでもないと言い、ぱっとする心惹かれる名案は浮かびません。当然です。知っていることの中からどれかを答えとして選ぼうとしているのですから。でもみつけたいのは、これまで気づかなかったような新しく画期的なアイデアなのです。

その枠を出るのは難しいと多くの人は考えています。自分の能力や知識の限界を理由にあげるかもしれません。でも、それは本当は誰もが持っているもので突破でできます。それがよくスピリチュアルで言われる「答えは自分の中にある」です。

そこまでわかっていても、その方法を自分でみつけるのは難しいようです。あるいは方法が示されても一人で行うのが困難です。どうしてかというと、私達人間は「自分の見たくないものは見ない。感じたくないものは感じない」ことができるからです。裏返して答えを言えば、私達は自分の中の見たくないもの、感じたくないものへ積極的に開くことで、自分を迷宮に閉じ込めている枠を突破できるということです。

ただし、人間が本当に苦しみの中にあったり葛藤のさなかにいる時に、それ以上の不快なものを自ら感じるなんて不可能だ、と思うでしょう。その苦しみや葛藤から自由になること、それ以前にそこから逃げ出す方法を必死で探している時に、誰がそこにもっとじっくりいてやろうと思うでしょうか。これこそが、人間が幸せになる道が一般的に広まらない原因だと私は思います。

私がこれを自分だけでやろうとするなら、神という味方が必要だと思います。けれど姿が見えない実感のない味方を、雲を掴むような気持ちで信頼して飛び込める人はなかなかいないでしょう。この言葉もスピリチュアルではよく言われますね。「信頼して飛び込みなさい。」それで多くの人が、天使が目に見えたり神のお告げが言葉で聞こえることを切望するのです。でも本当は、それすらがレッスンです。見えないもの、聞こえないものをこそ信頼できる勇気、自分でそのブラックボックスの中身を想像する力をこそ、神が人間のなかに育てようとしている神の気質そのものだと今では思えます。私の人生で言えば、長い苦しみの期間、言い換えれば自分を探し迷子になっていた時期は、見えざる神を意識し信頼するレッスン期間だったと言えます。スピリチュアルを見るための何かだと思うのは間違いです。真の成長というのはそこにはありません。

「この嫌な感じなら、いつでも感じています。いつもイライラして、腹が立っています。そんなもの感じてもなんんの解決にもなりません。」と、多くの人は思うかもしれません。でもその理由を考えることはもっと解決になりません。理由を考える時、人間は理屈や理論を使って、自己意識の範疇で答えを探します。答えは誰か、もしくは自分のせい、これが悪い、これが間違っている、というふうになります。思考的な考え方です。

イライラしている、は、状態のことを言っているに過ぎません。そしてそれは、いつもではないのです。どこかで、誰かと、何かをしている時に頻繁に起こっているはずです。そして、イライラは感情ですらありません。そのイライラは本当は焦りかもしれない。何かを考えた時にそれを打ち消すように湧き上がる感覚かもしれない。例えば、私はこうしたいのに、そうならない、というような考え。私はこうしているのに、誰々に邪魔をされる。私は優しいお母さんでいたいのに、いつも怒鳴っている。自分に対する無力感を感じそうになると、自分への怒りがわき、その怒りをそらすために外側へ意識を向けてイライラだと認識している。・・・

大事なのはその状態の奥にある感情を感じ、その奥の思い、つまり心の声を聴くことです。それを細やかに感じてあげる「愛」によってです。それは間違いのために起こったのではなく、自己意識が真実に気づいていないために起こります。本当の声に自分が気づいていないのです。自己意識が誤解しているわけです。この誤解が解け理解されると暴れていたエネルギーは癒され、細やかなバイブレーションへと鎮まっていきます。つまりこれが愛の力です。この時の理解は思考、理屈ではなく共感という愛によります。本当の癒しは愛によってのみ行われます。

その愛の後ろには忍耐や根気、理解、受容、寛容などという愛の側面が含まれています。人間は癒されるに従い自分自身に、そしてひいては周囲の人間にもそれを振り向けることが容易になります。真の愛が「自分を愛することでしか他者へ与えることはできない」と言われるのはこのためです。ただ愛っぽいもの-好きとかときめくとか気に入るとか-にはそれはできません。愛というのはとても明確で実態のあるものです。それを私達は感じ取る能力を与えられています。それが心の役割です。

こうして心が癒されると、自己意識が浄化されると、私達は平安という内なるスペースで神に出会うことができます。そうなった時、その内なる世界での価値観はもはや自己の欲求によるもの、世俗で言われるものとはかけ離れたものになっているでしょう。世俗と言われるものは、自己の欲求を満たすことを良しとしますが、癒された存在は、在ることを尊きとします。

私はそういう価値観への転換こそが、最も痛みのないそして最も素早い平和への革命であると感じています。私達は愛するものや食べ物や豊かさや繊細さや優しさや美しさを何も失うことなく革命することができます。ただ自分がしがみついている恐れを手放すことによって。そうすると私達は愛へまっすぐに進むことができます。

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