ネガティブを超える

「ネガティブな感情」「ネガティブな状態」という言葉がスピリチュアル界ではよく使われるようですが、私はあまり使う機会がありません。多くの人は怒りや悲しみ、けんかするような状態、いらいらなど、また、貧乏や苦しみや失敗、葛藤、罪悪感、落ち込みなど・・・をネガティブと捉えるように思います。そして自分の世界からネガティブを一掃することに熱心です。ネガティブを見つけたら一目散にそこから逃げ出そうともがきます。見るのもいや、見てはいけない、感じてもいけない、なぜならそれが実現化してしまうから、と信じている人も多いかと思います。

そういう見方、世界観というのは、それ自体が落とし穴にはまっています。

このことに気をつけ始めると、世界は、あるいは内面は平和になるでしょうか。平安が訪れるでしょうか。多分そうはならないはずです。どうなるかというと、四六時中自分を監視し、自分にダメ出しし、早く何とかしなくちゃと焦り、神経質になり、不機嫌になり、いやになっちゃう、という感じでしょうか。

この世は陰と陽、ブラスとマイナスがどこまでもバランスして織り成されている世界です。表と裏は一体になっています。私たちが自分にとって都合のいい側面だけを選んでいるつもりでももれなくうらっかわもついてきています。かたっぽをさけようとしたらもうかたっぽも受け入れることはできません。どちらに対しても拒絶している状態です。

私たちが光と呼び、求めているものは、この二元性の影とセットの光ではありません。この光と影の映像を作り出すおおもととなっている光です。映写機から発せられている光のすべてです。スクリーンに映っている明るい部分のことではありません。スクリーンのほうは光と影がセットで全体の景色を映し出しているものであって、ネガティブを避ける行為はこの景色の一部分だけを切り取って明るいところだけ見ようという試みに似ています。それだけじゃあ何も見えないしわからないのです。

ではこのようにネガを見ずにポジだけにフォーカスさせて、私たちに全体の景色を見せなくさせているものはなんでしょうか。それが「恐れ」です。私たちが識別すべきなのはこの恐れだけであり、私たちが克服すべきなのは、この恐れに惑わされることだけだとも言えます。

私たちは外界を恐れ、あたかもそこに敵が充満しているかのような心持で生活しています。それは、恐れているからです。戦いも逃避も防御も恐れという本能から来る反射です。この本能を克服する(手なづける・訓練する)と、私たちはすべては愛でありひとつであるという真実を体験することができます。肉体を持ちながら神を体験するというのがこれです。

世界の本質はまったき光ですが、私たちがスクリーンに映った陰影(五感から得た感覚)のほうを信じてしまうと私たちは光から恐れによって分離されます。これが闇にはまる意味です。この世に存在する陰と陽のすべてを体験しながらも私たちが恐れではなく内なる神(光)への信頼とともにそれを受け入れるとき、私たちは本当に望んでいる意味でのポジティブでいることができます。そのポジティブは、本当は二元性つまりネガティブもポジティブをも超えた光を見つけたところにあります。

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