足元を掘ります

3月の始めに、気分転換にだんなさんとお散歩に行った。元々二人ともお散歩がとても好きだ。東京にいたころは本当によく歩いた。デートも一日中都会の狭間を歩き回った。すーじぐゎー(小道)が好きで、原宿、表参道、代官山、自由が丘などくまなく歩いている。鎌倉も。沖縄に来てからもすーじぐゎーを小さな車でいけるところまで走る。ただ、歩く場面がどうしても減っていた。豊崎もウォーキングのメッカだけど、どうしてもだだっぴろすぎて(すーじぐゎーがないし)、脳が歩くことをなんだか苦行みたいに捉えてしまう。でも知念に来てからは復活した。

豊崎も本当にすばらしいところだったけど、寂しかったのはこの点だ。スケールが大きい。どうも私たちは小さくてこまこましていてきれいなところが好きだ。あと、山、木、ちっちゃな花。海と山だと二人とも山派。

沖縄の山は、特に南部は丘、くらいの感じだけど、でももう100%山ごころも満足している。志喜屋漁港をプチ散歩したら我が家が見えて、山の中腹くらいのところに森に囲まれるように見え隠れしていた。あそこに住んでいるんだと思うとまるでおとぎ話のように感じた。文字通り私は毎日極上の美しい海を眺めながら山にこもっている。車を運転しないのでどこにも行かない。でも本当に満足している。こんなときが人生に来るなんて。感謝しか出てこない。

このお散歩をきっかけに、翌朝から1時間早起きをしてお散歩している。歩きたいところは山ほどあるけど、どうしても知念大川(うっかー)ははずせない。ここは言わば巡礼の聖所の一つに数えられるところで、古来から今も続く東御廻り(あがりうまーい、と読む)という巡礼ルートの中のひとつ。他にもたくさんあるのだけれど、ここは満場一致(計二名)で一番すごい。手を合わせ目を閉じるだけで、とにかく優しく細やかなバイブレーションに包まれ満たされる。こちらに来てすぐから、瞑想やヒーリングのときにここを感じるようになった。私もそう思っていたけれどだんなさんの口からも何度も出てきた。何度行ってもここが一番いい、と。先日県外からみえたお客さまにもご紹介したら「びっくりしました。他もすばらしいけど、明らかに違うって感じました」とおっしゃって。やっぱり!

ここに行きたいばかりにどんなに眠たくても飛び起きる。あと一回ウグイスが鳴いたら、元気に起きられる、と自分に言い聞かせると、すっと目が覚める。

あちこちの岩かげには拝所がある。小さな御嶽だ。どれもきれいに整えられて、人が神聖な意識を向けた跡を感じる。沖縄で暮らすと神が私の声を聞き逃すことなんてありえないと、普通に思うことができる。東京育ちの私は、東京的感覚がよくわかる。東京では望まなくても、経済が神であり、神の表れは富や成功、権力というのが普通だ。意識していないかもしれないが、それはあまりに当たり前だから、無意識に受け入れている価値観だ。それに強烈に違和感や苦しみを覚えている人もそうだ。つまり受け入れているがゆえにそれに抵抗を感じて苦しんでいる。自分は違うと思っていても、ではどのような価値観が自分の軸なのかは見えていない。だから自分を探している。そして見つからないことに苛立ち苦しみ、社会や世界に半ば絶望し、または変革を求め、ここでないどこか、もしくはもっときれいになるとか、部屋の模様替えとか、もっとエコをやるとか、スキルアップするとか、より高度なライフスタイルとか、ちょっと前ならやはり出世とか、そういうものに自由や自己実現を求める。つまり社会、世界に不満なのは、自己に対して不満だということだ。

沖縄で暮らすとたくさんの違いにぶつかるが、何が圧倒的かというと神とともに暮らすのが普通、という価値観だ。宗教とは違った、まさに現代のスピリチュアルが根付いている。経済はもちろん神ではない。仕事はただ暮らすためにあって、自己実現ではない。もちろん現代の価値観の中で迷っている人もたくさんいると思うが、社会のシステム自体がそうなっていない。例えば、沖縄の人は亡くなったご先祖といつも共に暮らす。そしてそれを引き継ぐための儀式があり、毎月暦にしたがって儀式を行う。それはとても大変なことだけど、仕事よりもそちらが優先、というのは普通だ。長男のお嫁さんになると、毎月何度も親戚が集まってその行事の準備で自分の時間なんてまったくない、とか、お嫁さんでなくてもその役を負う人は、仕事が休みの時間はすべて費やしてきたのでこの島でも行ったことのない場所だらけです、というお話を実際に伺う。それはそれでたくさんの問題を孕むのだけど、でもそれくらいに大事なのが、亡くなったご先祖の意識とつながりその魂が健やかに向かうべきところに向かい地上に残る自分たちをより神に近いところへ導いてくださることを祈ることだ。

細かく知るほど、魂の浄化の仕組みはよく捉えられている。理にかなっているように見える。スピリチュアルの情報などで、魂や輪廻や命のシステムのことが言われているが、そういう情報を情報としてではなく実地で生きているのがこの島の暮らしだと感じる。もちろん儀式化されているので真実だけが伝わるわけではないのだが、それでも真実が途絶えずに引き継がれるように丁寧に儀式化されていることに驚く。

チベット、ネイティブアメリカン、マヤ族、エジプトなど、世界には神から真実を人間が受け取ることができるよう儀式化して地下に保存してきた情報があると言われている。人間の大半の意識が神から離れ、物質界の財宝に目がくらだとしても、また社会から異端だ、支配者の統率を乱す分子だと撲滅されようとしても、根絶やすことなく、そこから真実を引き出そうとする意志があるときに損なうことなく取り出せるように折りたたむように儀式の中に真実は織り込まれている。

でももちろん、それは導きではあるけれど、それ自体が神ではない。私たちは情報を受け取りそしてそれを活かさなくてはそれを生きたことにはならない。私たちは情報を通過することに慣れすぎている。通過しただけなのに「知っている」と思ってしまう。その情報が「真実」あるいは「真理」と言われる深遠なものであったとしてもそうだ。知っていると思っていて本当は知らない、体験していない、手にとっていない、掘り起こしていない、噛み砕いていない、消化していない、実感していないものだらけだ。たった一言の言葉に込められた真実を、知っていると思って見過ごしてしまう。

それを見過ごしている限り、私たちは自分がなにものなのか、どのような存在なのか、どこから来てどこへ向かっているのかは永遠にわからない。私たちがもっとも身近に向き合うべきもの、自分を幸せにする、そして世界を幸せにするその方法も道もわからない。そして多くの人がまた、物理次元の神を求めてさまよう。

どこから来てどこへ行くのか、というのを、ストーリーのことだと勘違いしている人も多いだろう。私の魂のふるさとはどこそこの銀河のあの星で、地球に来たのはこんな理由で、だから私は地球をなかなか愛せないでいて、人間が好きだけど嫌いで・・・。でもそれらは、幻想を肯定するための理由に過ぎない。前回も書いたけれど、それは私たちが受け入れがたい現状を受け入れるためにどうしても必要な時にとられる緊急避難措置のような、神の慈悲だ。希望の光が見えないまま生きることは本当に苦しいから、私たちはそうやってこの地上に生きる理由を探す。もちろん魂の系譜はある。でもそれは生きる理由ではない。生きるのは、自分の内に希望を見つけるためだ。その希望の光というのが内なる神と呼ばれているものだ。

物理次元の欲望を満たすことと神を外側に求めることは大きな枠では余り違いがない。後者のほうがより真実を自分に隠しやすいかもしれない。真実を識別するには多くを学ばなくてはならないけれど、ここで言う多くというのはより多くの情報を通貨することではなく知っているつもりで知らないという真実に向き合いそのことを受け入れ、今、現状、自分が握り締めている執着や恐れに気づいて手放していくことと等しい。そうしていくと内側に始めからあった光がようやく目に入るようになり、心に広がり、意識を満たすようになる。叡智や愛という神の資質を受け取り自分のエゴに生かすことができるようになる。それが統合といわれるものであり、地上に肉体を持ったまま次元が上昇するという言葉に込められた真実だと思う。

13-03-08_002

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