幸せを求める

多くの人が幸せというものを求めながらも、幸せになる道があると知ってもそれを手に取ろうとはしない。とてもまじめでパワフルな人であるほど、幸せのなさそうな場所を片っ端から探しまわってあれでもない、これでもない、と消去法で見つけようとしている。私もかつてはそうだった。

ここになかったけれど、きっと別のどこかにあるはず、と思ってあちこちでかけて行くのは、まあ人生の旅と言えば聞こえはいいけれど、難点は非常に自己のエネルギーを消耗してしまうところだ。そしてだんだんと希望が失せていく。つまり自分は単に命や時間というものを消費しているのだということに気づいていく。しかしあまりに没頭していると、そのことにうすうす気づいてはいてもそれを受け入れることが難しい。あまりに多くのエネルギーをそこに費やしてしまったので見直し軌道修正することが恐ろしいからだ。だからたいていは、引き返すためのなにか大きめの事件が人生に起こりきっかけとなることを必要とする。多くの人が。

本当はなにもいらない。ただ、私たちが気づいたことを受け入れ、見直し、修正すると決めて、そうするだけでいい。やり方はそう決めればわかるものだ。多くの人が「どうやればいいかわからない」と言う。でも、やり方は、与えられるものだ。やると決めた人に。そして本当は知っている。やり方を教わったところでやると決めていない人にとってそれは魅力的には見えず、差し出されても目に入らないだけだ。

本当にガイダンスが必要な人は、それを知っている人に尋ねればいい。この世には人間が本当に幸せになるためのガイダンスが与えられている。そういう道が歴然と示されている。だけど、それを選ばないための理由を私たちは並べる。次から次へ。その理由を挙げることをやめるだけで、私たちの逆行の歩みは止まる。その理由というのは欲望と恐れだ。

私たちはより良い生き方を求めているつもりで、実は欲求を満たす理由を探している。本当はすべての欲は、神によって満たされているのに人間は自分でそれをやっていると信じている。そして達成したとか得た快感のためにまた理由を探す。欲求が正当化されるための。

自分探しとか、運命とか、そういうストーリーはほとんど全部その類だ。どうしてそんなことをするかというと、人間は弱いからだ。そのストーリーというのは神が与えた慈悲だと私は思う。人間が内なる神を見つけるまでに人間の心に希望の火を燈しておくための。でもいったん神の後姿を見つけたら、そのようなストーリーは必要なくなる。手放すことが必要だ。なぜなら、その神がすべてを与える源だから。それ以外のすべては方便に過ぎない。

スピリチュアルを実践すれば、地上の富や成功が手に入ると信じている人が多いけれど、(私もかつてそう教えられましたが)私たちは愛に満たされるために人間になったのであって、スピリチュアルの教えというのはすべてその目的のために説かれています。もし富やお金が必要であるとすればそれは、より静かに瞑想し祈るための時間とスペースを作るためです。でも、富や成功が手に入ったら瞑想しよう、とかなにかに当てようと考えてそれに命を費やしているうちは、それは来ません。聖書には「まず神の国を求めよ」という言葉があります。まず瞑想する(=神を求める)と、必要な道具は与えられるのです。環境や仕事や愛を分かち合うための家族や食べ物。必要な時に必要なだけ。それも私たちが思うその量ではなく、神のはからいによって。

この導きを受け入れることはこの地上において天国を生きることです。それなしに安全を地上に求めれば、私たちは神以外の物質によって自分を守ることになります。富や権力や武力を神のようにあがめることになります。

「二人の神に遣えることはできない」と聖書で言われているのはこのことです。キリストはキリスト以外の宗教を信じるなとかそういう下世話なことを言ったのではなく、物質に遣えるか、無限にしてひとつである神を信頼するかどちらかしかないよ、とおっしゃった。本当にどちらかしかないのです。

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