世界から戦争がなくなるとき

愛と平和。この言葉の中の本当のパワーに日々気づく。言葉の本当の意味に出会い続けている。

私はこの地上から戦争が消える日を望んでいる。実際には真の愛と平和の意味と価値に多くの人が気づき目覚めることでこのことは実現する。

戦争は世界最大にして最悪のビジネスだ。脱原発は多くの平和を愛する人が望んでいることだと思うが、戦争が必要なくなれば原発も必要なくなる。まだ原発が純粋な電力供給のツールだと信じている人がいるのだろうか。お湯を沸かすのに核はいらない。繰り返すが、戦争が消滅すれば原発は要らないのだ。核は戦争のための道具だから、戦争をしたい人のために価値がある。

平和のために社会の仕組みを変えよう、お金の仕組みを変えたいと望んでいる人は大勢いるだろう。でももし、世界から戦争が消えたら、恐らく今ある社会的な問題は遅かれ早かれ消えていく。貧困と貧困を助けることができない仕組みも戦争という仕組みに組み込まれている。戦争という癌細胞に組織がやられてしまっているのだ。戦争がある限り、人間は貧しい。貧しいから戦わなくてはと思わせられる。悪循環の輪だ。

私は日本が世界一お金持ちだった時を経験している。その時の世界を平和だったと思っている人もいるだろうが決してそうではなかった。平和ぼけ、などと戦争をしていない日本をばかにする人もいるけれど、日本は戦争にずっと利用されている。日本のお金や技術や人のパワーが利用され続けてきた。平和ぼけなんか、存在していない。私たちは常に恐れている。世界の在り方を。世界中の脅威を。

「世界中の兵士がいっせいに武器を置く」というたとえ話をどこからか耳にして、その情景をイメージしてみる。昨今の情勢を慮るとどうもそのイメージは遠い絵空事に感じていた。

日本は今戦争ビジネスマンによって煽られあたかも世界がその波に乗っているかのように思わされている。しかし、マスコミやテレビの報道のほとんどは情報操作、イメージコントロールによる支配のために容易に利用されることは311以来更に明確になった。ごく一部を全体のように取り上げ、全体の民意のうねりを点のように、或いは無視してないことにするのは簡単だ。

http://youtu.be/R4Z1avRGWiU

昨日たまたまこんな映像を見た。ものすごくセンセーショナルななにかではないのだけど、なぜか鳥肌が立った。それから涙が出てきた。最近はあまり泣くことがなかったのだけど、久々に泣けた。そして一瞬、世界中の兵士がいっせいに武器を置くビジョンが意識をよぎり、それは「可能だ」と私の中の声が言った。なにかが溶けた(解けた)。

こうして愛と平和の意識は今日も拡大し続けているのだ、と理屈抜きに感じた。

彼らが体験した戦争という名のテロ、或いは殺戮。嘘とコントロール支配。過去の自分を赦し立ち上がるために彼らが通過した儀礼はどれほどのものだろうと思う。

戦争が完全に消える世界。それは不可能ではない。なぜなら本当に戦争をしたいのは、世界のほんのほんのほんの一部の人だけだからだ。それに加担しているのは私たちの持つ本能の記憶の残像。人間には争いが必要だ、やられる前にやらなければやられる…というような。そんな記憶の残像をみんながお掃除し始めたら、誰も戦争に加担することはできなくなる。内面の浄化。記憶のクリーニング。

戦争を本当にやりたい人たちはこのような多数の目覚めを恐れているだろう。誰もが脅威の嘘と騙しに乗らなくなる時代。その前に稼げるだけ稼ごうと焦っているかもしれない。

戦争が完全に消えた世界。そこではお金の使い方が完全にかわるだろう。お金が純粋なエネルギーだとしたら、私たちは今はそのほとんどを誰かのある目的のために吸い上げられている。戦争から多くの人が目覚めるということは、支配者から目覚めるということだ。今は個々の幸せのための資金はほとんど回っていない。申し訳程度、あきらめさせるため程度にしか。そんな必要があるんだろうか。古くから強者に吸い上げられることに私たちが慣れすぎているのだ。巨額の軍事費。軍事ありきの外交のための予算は膨大で計り知れない。

戦争が完全に消える時には、多くがそれらの欺瞞に気づいている。だからその時には世界はひっくり返るほど変わっているだろう。人類が初めて社会に平等と平和をもたらす時だ。

だから、騙されたと思って内面の浄化に取り組んでほしいと思う。頭で考えていることがどれだけ小さい世界のことか。そこでひねり出すアイディアにどれほど無理があるか、気づく。

私たちの意識の中心はみんな繋がっているのだ。私たちが深いレベルで思うことは一瞬で全人類に伝わるということ、その真実の智恵を使って取り組んでいこうよ、と思う。そのためには有象無象の記憶を浄化し、内面により深く潜れるように内的環境を整えなくてはならない。

大切なのは作業に没頭しないで内面に戻ってくることだ。無限の領域に少しでも多くの人が多くの時間、戻ってくることだ。

いっせいに武器を置くとき、なるべく痛みと犠牲が少ないことを願う。個々が内面に愛を拡張することでそれは可能になる。

真実は人を傷つけるか

子供のころよく母から「真実のみが人を傷つける」と言われました。その意味は「思い当たることを言い当てられるから人はショックを受ける」です。自分の中にあるものを外界に見つけると人は反応します。これは「内面の世界が外界を映し出している」というこの世界の法則を指しています。

意識の探求をしていて今私が思うのは「真実は人に優しい」です。傷つくというのはショックのことであってそのショックは変容を後押しする気づきから来る一瞬の亀裂です。これまでの幻想を斬り、崩れ去るときに起こる「間」のようなものです。

真実は私たちを幻想の恐れから自由にしてくれるものに他なりません。「ザ・ワーク」(バイロン ケイティの著書)ではそのことに言及されています。私たちが恐れているのは、起こっていることではなく、起こっていることに対する自分の考え(思考)です。今スピリチュアルの法則を学んでいる人の多くが「自分の意識が世界を創造している」という真実に対して誤解をしているようです。私たちは感じることをやめることで世界を平安にできるのではありません。起こっていることのすべては「正しい」結果だ、というところから始めましょう。多くの人は「自分の間違った思考(感情)によって今の間違った結果を招いてしまった、と考えます。それは恐れに満ちた世界観です。

今のすべてが「意識が創造した結果」です。もしその結果を変化させたいのであれば、それを創っている意識の世界に入っていって「あるがまま」を観ることから始めます。すでにあるものですから、慌ててふたをしたり感じ方だけを変えようとしてもただ恐れを増長するだけです。あるがままをしっかり観る(感覚や感情を感じきる)ことで私たちはそこに余分にくっつけていた恐れや思い込みを振り落とすことができます。恐れや思い込みが落ちていくと残るのはただの事実だけです。それは、あるべくしてあり起こるべくして実った事実です。それを受け入れると私たちはより広い、高い次元の視野から世界を眺めることができ、その世界観から新たな現実を創りだします。

それがより愛に満ちた状態のことであり、その状態から創る世界はより愛に満ちています。私たちはそのように変容していきたいのです。

ですからいつも言うようですが、閉じないでください。自分の持てるすべてに対して目と心を開いて、感じきります。感じ残しこそが負のカルマです。もしなにかしなくてならない気がしている人は「感じきって」ください。遠くへ行かずに、自分の足元から、そしてハートから。真実の入り口はそこにしかありません。

ネガティブを超える

「ネガティブな感情」「ネガティブな状態」という言葉がスピリチュアル界ではよく使われるようですが、私はあまり使う機会がありません。多くの人は怒りや悲しみ、けんかするような状態、いらいらなど、また、貧乏や苦しみや失敗、葛藤、罪悪感、落ち込みなど・・・をネガティブと捉えるように思います。そして自分の世界からネガティブを一掃することに熱心です。ネガティブを見つけたら一目散にそこから逃げ出そうともがきます。見るのもいや、見てはいけない、感じてもいけない、なぜならそれが実現化してしまうから、と信じている人も多いかと思います。

そういう見方、世界観というのは、それ自体が落とし穴にはまっています。

このことに気をつけ始めると、世界は、あるいは内面は平和になるでしょうか。平安が訪れるでしょうか。多分そうはならないはずです。どうなるかというと、四六時中自分を監視し、自分にダメ出しし、早く何とかしなくちゃと焦り、神経質になり、不機嫌になり、いやになっちゃう、という感じでしょうか。

この世は陰と陽、ブラスとマイナスがどこまでもバランスして織り成されている世界です。表と裏は一体になっています。私たちが自分にとって都合のいい側面だけを選んでいるつもりでももれなくうらっかわもついてきています。かたっぽをさけようとしたらもうかたっぽも受け入れることはできません。どちらに対しても拒絶している状態です。

私たちが光と呼び、求めているものは、この二元性の影とセットの光ではありません。この光と影の映像を作り出すおおもととなっている光です。映写機から発せられている光のすべてです。スクリーンに映っている明るい部分のことではありません。スクリーンのほうは光と影がセットで全体の景色を映し出しているものであって、ネガティブを避ける行為はこの景色の一部分だけを切り取って明るいところだけ見ようという試みに似ています。それだけじゃあ何も見えないしわからないのです。

ではこのようにネガを見ずにポジだけにフォーカスさせて、私たちに全体の景色を見せなくさせているものはなんでしょうか。それが「恐れ」です。私たちが識別すべきなのはこの恐れだけであり、私たちが克服すべきなのは、この恐れに惑わされることだけだとも言えます。

私たちは外界を恐れ、あたかもそこに敵が充満しているかのような心持で生活しています。それは、恐れているからです。戦いも逃避も防御も恐れという本能から来る反射です。この本能を克服する(手なづける・訓練する)と、私たちはすべては愛でありひとつであるという真実を体験することができます。肉体を持ちながら神を体験するというのがこれです。

世界の本質はまったき光ですが、私たちがスクリーンに映った陰影(五感から得た感覚)のほうを信じてしまうと私たちは光から恐れによって分離されます。これが闇にはまる意味です。この世に存在する陰と陽のすべてを体験しながらも私たちが恐れではなく内なる神(光)への信頼とともにそれを受け入れるとき、私たちは本当に望んでいる意味でのポジティブでいることができます。そのポジティブは、本当は二元性つまりネガティブもポジティブをも超えた光を見つけたところにあります。

足元を掘ります

3月の始めに、気分転換にだんなさんとお散歩に行った。元々二人ともお散歩がとても好きだ。東京にいたころは本当によく歩いた。デートも一日中都会の狭間を歩き回った。すーじぐゎー(小道)が好きで、原宿、表参道、代官山、自由が丘などくまなく歩いている。鎌倉も。沖縄に来てからもすーじぐゎーを小さな車でいけるところまで走る。ただ、歩く場面がどうしても減っていた。豊崎もウォーキングのメッカだけど、どうしてもだだっぴろすぎて(すーじぐゎーがないし)、脳が歩くことをなんだか苦行みたいに捉えてしまう。でも知念に来てからは復活した。

豊崎も本当にすばらしいところだったけど、寂しかったのはこの点だ。スケールが大きい。どうも私たちは小さくてこまこましていてきれいなところが好きだ。あと、山、木、ちっちゃな花。海と山だと二人とも山派。

沖縄の山は、特に南部は丘、くらいの感じだけど、でももう100%山ごころも満足している。志喜屋漁港をプチ散歩したら我が家が見えて、山の中腹くらいのところに森に囲まれるように見え隠れしていた。あそこに住んでいるんだと思うとまるでおとぎ話のように感じた。文字通り私は毎日極上の美しい海を眺めながら山にこもっている。車を運転しないのでどこにも行かない。でも本当に満足している。こんなときが人生に来るなんて。感謝しか出てこない。

このお散歩をきっかけに、翌朝から1時間早起きをしてお散歩している。歩きたいところは山ほどあるけど、どうしても知念大川(うっかー)ははずせない。ここは言わば巡礼の聖所の一つに数えられるところで、古来から今も続く東御廻り(あがりうまーい、と読む)という巡礼ルートの中のひとつ。他にもたくさんあるのだけれど、ここは満場一致(計二名)で一番すごい。手を合わせ目を閉じるだけで、とにかく優しく細やかなバイブレーションに包まれ満たされる。こちらに来てすぐから、瞑想やヒーリングのときにここを感じるようになった。私もそう思っていたけれどだんなさんの口からも何度も出てきた。何度行ってもここが一番いい、と。先日県外からみえたお客さまにもご紹介したら「びっくりしました。他もすばらしいけど、明らかに違うって感じました」とおっしゃって。やっぱり!

ここに行きたいばかりにどんなに眠たくても飛び起きる。あと一回ウグイスが鳴いたら、元気に起きられる、と自分に言い聞かせると、すっと目が覚める。

あちこちの岩かげには拝所がある。小さな御嶽だ。どれもきれいに整えられて、人が神聖な意識を向けた跡を感じる。沖縄で暮らすと神が私の声を聞き逃すことなんてありえないと、普通に思うことができる。東京育ちの私は、東京的感覚がよくわかる。東京では望まなくても、経済が神であり、神の表れは富や成功、権力というのが普通だ。意識していないかもしれないが、それはあまりに当たり前だから、無意識に受け入れている価値観だ。それに強烈に違和感や苦しみを覚えている人もそうだ。つまり受け入れているがゆえにそれに抵抗を感じて苦しんでいる。自分は違うと思っていても、ではどのような価値観が自分の軸なのかは見えていない。だから自分を探している。そして見つからないことに苛立ち苦しみ、社会や世界に半ば絶望し、または変革を求め、ここでないどこか、もしくはもっときれいになるとか、部屋の模様替えとか、もっとエコをやるとか、スキルアップするとか、より高度なライフスタイルとか、ちょっと前ならやはり出世とか、そういうものに自由や自己実現を求める。つまり社会、世界に不満なのは、自己に対して不満だということだ。

沖縄で暮らすとたくさんの違いにぶつかるが、何が圧倒的かというと神とともに暮らすのが普通、という価値観だ。宗教とは違った、まさに現代のスピリチュアルが根付いている。経済はもちろん神ではない。仕事はただ暮らすためにあって、自己実現ではない。もちろん現代の価値観の中で迷っている人もたくさんいると思うが、社会のシステム自体がそうなっていない。例えば、沖縄の人は亡くなったご先祖といつも共に暮らす。そしてそれを引き継ぐための儀式があり、毎月暦にしたがって儀式を行う。それはとても大変なことだけど、仕事よりもそちらが優先、というのは普通だ。長男のお嫁さんになると、毎月何度も親戚が集まってその行事の準備で自分の時間なんてまったくない、とか、お嫁さんでなくてもその役を負う人は、仕事が休みの時間はすべて費やしてきたのでこの島でも行ったことのない場所だらけです、というお話を実際に伺う。それはそれでたくさんの問題を孕むのだけど、でもそれくらいに大事なのが、亡くなったご先祖の意識とつながりその魂が健やかに向かうべきところに向かい地上に残る自分たちをより神に近いところへ導いてくださることを祈ることだ。

細かく知るほど、魂の浄化の仕組みはよく捉えられている。理にかなっているように見える。スピリチュアルの情報などで、魂や輪廻や命のシステムのことが言われているが、そういう情報を情報としてではなく実地で生きているのがこの島の暮らしだと感じる。もちろん儀式化されているので真実だけが伝わるわけではないのだが、それでも真実が途絶えずに引き継がれるように丁寧に儀式化されていることに驚く。

チベット、ネイティブアメリカン、マヤ族、エジプトなど、世界には神から真実を人間が受け取ることができるよう儀式化して地下に保存してきた情報があると言われている。人間の大半の意識が神から離れ、物質界の財宝に目がくらだとしても、また社会から異端だ、支配者の統率を乱す分子だと撲滅されようとしても、根絶やすことなく、そこから真実を引き出そうとする意志があるときに損なうことなく取り出せるように折りたたむように儀式の中に真実は織り込まれている。

でももちろん、それは導きではあるけれど、それ自体が神ではない。私たちは情報を受け取りそしてそれを活かさなくてはそれを生きたことにはならない。私たちは情報を通過することに慣れすぎている。通過しただけなのに「知っている」と思ってしまう。その情報が「真実」あるいは「真理」と言われる深遠なものであったとしてもそうだ。知っていると思っていて本当は知らない、体験していない、手にとっていない、掘り起こしていない、噛み砕いていない、消化していない、実感していないものだらけだ。たった一言の言葉に込められた真実を、知っていると思って見過ごしてしまう。

それを見過ごしている限り、私たちは自分がなにものなのか、どのような存在なのか、どこから来てどこへ向かっているのかは永遠にわからない。私たちがもっとも身近に向き合うべきもの、自分を幸せにする、そして世界を幸せにするその方法も道もわからない。そして多くの人がまた、物理次元の神を求めてさまよう。

どこから来てどこへ行くのか、というのを、ストーリーのことだと勘違いしている人も多いだろう。私の魂のふるさとはどこそこの銀河のあの星で、地球に来たのはこんな理由で、だから私は地球をなかなか愛せないでいて、人間が好きだけど嫌いで・・・。でもそれらは、幻想を肯定するための理由に過ぎない。前回も書いたけれど、それは私たちが受け入れがたい現状を受け入れるためにどうしても必要な時にとられる緊急避難措置のような、神の慈悲だ。希望の光が見えないまま生きることは本当に苦しいから、私たちはそうやってこの地上に生きる理由を探す。もちろん魂の系譜はある。でもそれは生きる理由ではない。生きるのは、自分の内に希望を見つけるためだ。その希望の光というのが内なる神と呼ばれているものだ。

物理次元の欲望を満たすことと神を外側に求めることは大きな枠では余り違いがない。後者のほうがより真実を自分に隠しやすいかもしれない。真実を識別するには多くを学ばなくてはならないけれど、ここで言う多くというのはより多くの情報を通貨することではなく知っているつもりで知らないという真実に向き合いそのことを受け入れ、今、現状、自分が握り締めている執着や恐れに気づいて手放していくことと等しい。そうしていくと内側に始めからあった光がようやく目に入るようになり、心に広がり、意識を満たすようになる。叡智や愛という神の資質を受け取り自分のエゴに生かすことができるようになる。それが統合といわれるものであり、地上に肉体を持ったまま次元が上昇するという言葉に込められた真実だと思う。

13-03-08_002