聖なる母からの愛

全国的に寒いお天気のようで、沖縄も澄んだ冬空の色をしています。とは言え、気温は23度まで上がり相変わらずすごしやすいこの頃です。

最近のマザーアースときたら、本当にすごいです。皆さんぜひマザーを瞑想してくだい。必要な浄化を促し強力に波動を引き上げてくれると思います。

やりたいものだけど、マザーを瞑想するってどういうこと、思われる方へ、今日は瞑想について書きます。

瞑想には絶対的に決まったやり方はない、と言われます。それは絶対に決まった祈りの方法がないのと同じです。

瞑想にもなになに法とかなになに瞑想ってありますが、それをしないとできないというものではありません。お祈りにも形式や文句がありますが、それじゃなきゃ神さまに届かないわけではありません。でももちろん、瞑想の目的はあります。

わが師であるパラマハンサ・ヨガナンダジは「瞑想は神をみつける方法」であり「神への愛を伝える方法」であると言います。また私は祈りは神への信頼を示し、委ねることへのコミットメントだと理解しています。ですからみなさん、遠慮せずに神にどんどん祈ってください。こんな願いしてはいけないとか、こんな祈りはだめなんじゃないかという心配は要りません。ただし、祈りはすべて届けられますので、そのお返事、つまり結果を「神からの贈り物」としてちゃんと受け入れるようにしてください。

神からの贈り物は往々にして、私たちの思考での予測を超えています。例えば私は仕事に出かけていくための靴をください、と願ったのに、サンダルでも出かけられる乗り物や、そもそも靴がいらない仕事そのものを与えられるというようなことが起こります。神の奇跡とはそういうものですので、それに気づくだけの心のスペースをあけておきたいものです。靴のほうに夢中になったり執着することなく、神のはからいに意識を開いておきましょう。信頼へとコミットしたのですから最後まで信頼を続けることです。

さて瞑想です。

瞑想は神に対して自分の心を向けることに始まりますが、私たちは神のことをよく知りません。神への通路の入り口はどこにあるかというと、私たちの心(意識)にあります。瞑想では、マインドを超えるとか、マインドを落とすとか言いますので、マインドに意識を向けてはいけないのかと思いがちですが、通過するにも落とすにも、そこを通過しないとどうにもなりません。

それで、多くの人が瞑想を始めるとなんだか嫌な感じを感じたりします。落ち着かないとか、嫌な記憶、気分を思い出す、などです。でも、そうだとすればその人は正しいところにいます。ですがこの時点で「なにかまずい方向へ向かっているぞ」と多くの人は判断し、瞑想を離れてしまいます。これは、ちょうど意識を奥へ掘り始めたところで、記憶の層で想念の岩盤にぶつかったことを示します。ここが潜在意識の領域です。ここを突破すると私たちはこの奥に座する普遍的な高次元の意識の層、つまり超意識(ハイヤーセルフなどの領域)、そして宇宙意識(神・愛の領域)へと進むことができます。

潜在意識の仕組みに気づいていったんお掃除を始めると、その領域は「「浄化」という方向へ流れ始めます。らせん状に上昇するなどと呼ばれる道筋です。自浄作用、身体で言えば自然治癒力のようなものです。これは何がしているかというと、内なる神がします。要は未消化、未浄化の想念を完全燃焼してしまうのです。これはプチ悟りです。気づきとはこれのことです。どのような体験にもその裏には神の光が神経細胞のようにいきわたっています。体験を完全燃焼してしまうとそこには神の光という骨組みだけが残ります。そうなると私たちはその体験を悟ることができます。そうならないうちは体験を昇華できませんから、何度も同じようなことを繰り返して反芻し、消化活動をするわけです。これがカルマです。

この潜在意識のお掃除を促して、その奥への風穴を開けて、さらにその奥への領域へと導き方向付けてくれるのが瞑想であり、祈りであり、ヒプノ(変性意識下で行う)ワークであり、エネルギーヒーリングです。あらゆるヒーリングの目的の多くはここにあります。

私たちが繋がるべきなのは超意識から奥の領域です。瞑想はそうあるべく自己をそこに開いていく行為です。ですがそれは自分がなにかを得るという目的で行うことではなく、「ただ(本来として)在る」ことなので、そこになにかを求めて望むと本来の目的からずれてしまうと言えます。それで、瞑想とは、というのを言葉にすると、あれでもなくこれでもなくそれでもない、というような表現になるのだと思います。でも、ヨガナンダジは「ただ純粋に無邪気に神を求めればいい」とおっしゃっていて、私も本当にそうんだんだなーと思っています。

ヒプノシス、エネルギーワークなどの仕組みを用いた成功哲学、自己啓発などが失敗(矛盾)するのは、ここを履き違えているからだと私は思います。こういったワークはもちろん自己のエネルギーの滞りをはずし円滑にしてくれますから調和的な成功は現実になります。ですが幻想世界(多くの人が現実と思っているこの世)の成功を追い求めた時点で私たちは現実世界(無限の神の源泉)から外れてしまいます。靴を求めたらとにかく靴を手に入れるだけが成功、と思い込むのがこのやり方です。さらに、成功哲学では潜在意識に刷り込むことに主眼を置いていますがそれは、お部屋を掃除することなしに家具を詰め込むようなものです。でも私たちはそんなことよりもこの人生ですべきことがあります。お部屋をきれいに掃除し、必要最小限のものを配置し、そこに神の光が差し込んでいることを感じることです。最小限というのは、貧乏であれということではなく、自分にとって本当に大切で必要なことをよく知ることです。あれがなければ幸せになれない、という生き方ではなく本当に自己を満たしてくれるものがちゃんと内側にあるということを実感する生き方をするということです。それにはがらくたは少ないほうがいいのです。気を紛らわすおもちゃがあちこちにころがっているよりも、ぴかぴかに磨かれた床や壁や澄んだ空間があれば、光がよく見えます。この光は無限の源泉ですから、その部屋に配置すべきものを誰よりもよく知っていてそれを現実化してくれます。現実化のワークに必要なのは、お掃除なのです。

マザーは今、お掃除強化月間を私たちに与え、集合的な意識の飛躍を助けてくれています。それはマザーの前進であり、マザーが私たちとともに進もうとする母なる愛の現れです。ですから今マザーを瞑想するのはとてもたやすいのです。

「聖なる母とその顕現である地球の魂よ、私を浄化し、あなたとともに私を前進させてください。あなたの愛に感謝します」
目を閉じ深呼吸してそう呼びかけてみてください。そして聖母からあなたへ戻ってくる愛を受け取るためにただ待っていてください。時間の許す限り、そうしていてください。応えは私たちの予測を超えるということをお忘れなく。

前世、それから神

前世療法、というセラピー。この療法を10年以上やっている。

そろそろどんなものなのか、ちゃんとしゃべっていこうかな、と思っている。

私自身、どうしてこんな仕事を始めたのか、とても不思議。

だけど始めた当時は不思議がっている余裕すらなかった。

本当にただ、来た、呼ばれた、というのが本当だ。

ヒプノセラピーもスピリチュアルブームとともに日の目をみるようになった。

セラピストになりたいという人も増えた。

でも、これを本当に仕事としてコンスタントに行っていくというのは

本当に厳しいのではないか、と、最近よく思う。

それはこの仕事の全貌や深みが、途方もなく深遠で複雑だということが

経験を積むほどにわかってくるからだと思う。

私はこの仕事を通して

スピリチュアルの本質とか根幹と言えるであろうものに出会ってきた。

最初はただ一生懸命掘るだけだったけど、

掘るほどに横穴や洲、空間や場というものにぶちあたり

その度にばらばらと目隠しになっていた壁は崩れ落ちる。

この壁は多分一生崩れ落ちて続けてもなくなることはないだろう。

崩れ落ちることがなくなるということは

気づきが尽きるということだからだ。

だいたい、前世というものの存在自体が証明できないものだという地盤に

この療法は立ち上がっている。

私は十数年のセラピスト人生を

前世というものを絶対的に信じないまま行ってきた。

本当に私は疑い深いのだ。

誰がなんと言おうと鵜呑みにはしない。

しかし、この療法が結果として人間の意識に特定の原則のもとに変化をもたらし、

人が変わる姿を常に常に目の当たりにさせられることで

この前世というものの証明なしに、人間の意識の仕組みについて

仮説と検証と実証を繰り返しつつ実際というものを体験することができた。

そこで言います。

前世と言えるような意識の仕組みは実在すると思います。

前世がある、というのはずっと昔から悟った人の教えで言われてきたことだが

この教えは神はある、というのと同じくらい神聖な教えで

人が真実や真理、幸福というものを探究する上で

なくては説明のつかないものです。

ですから、前世を探求する、というのは

「今」を本当に知る上でとても重要です。

今、というのは、この外側に見えている幻想の世界のことではありません。

今ある現実、というのは、本当は

あなたという意識そのもののことです。

その「現実」をしっかりと知る、しっかりと見るために

時にそれを見せなくしているものに意識を向け「向き合って」

意図的に手放す、つまり「赦す」ことが近道になります。

浄化、することです。

浄化には赦しが必要です。

私たちが意識の奥で赦せていないものは無数にありますが

それを赦すには赦せていないものに気づかなくてはなりません。

その気づきは愛=神の力によるものです。

ですからヒプノセラピーは、神の力のもとに執り行われなければ

「癒し」は起こらないのです。

前世を見たい、という興味にかられる方はたくさんいらしゃると思います。

誘導催眠によって前世の記憶を導きだすことは確かにできますが

ヒーラーとヒーリーの双方に、

潜在意識のその奥にある絶対的な全なる光に委ねるために

謙虚に自己を開く心なしには真の癒しはありません。

癒しなしに前世を見ることで

かえって混乱や恐れを招くことは充分にありえます。

セラピストの仕事と責任はこのあたりにあると思えます。

セラピストやヒーラーは、エスパーやサイキックになることではなく

人間であることを大切にできる、ということが重要だと思うのです。

人間のあらゆる資質を愛することができると、

私たちは癒すことができるようになります。

あらゆる資質を愛するというのは神の資質だから

神の法則と同調できるようになるのです。

これはもちろん、すべての人間が共有している原則です。

アセンションのサイクル

やさしいハーブティーが美味しいなと感じる今日この頃。

RUACH心のセラピストAZUです。

アセンション、みなさん楽しんでいますか?

それにしても沖縄へ来てからこっちの内なる気づきと進化、

その体験ときたらすごいものです。

それがとても静かに当たり前に進行していくのです。

ですが振り返るとこれらの体験は以前の私目線から見れば

予測や想像をはるかに超えています。

時々、私というものがすでに小さな私からは測れない存在として「在る」ことに気づきます。

けれどもこの在りかたというのは、なろうとか、こうありたい、という

理性的なくくりでは到底到達できないような

時空を超えた場に存在しているようです。

私たちがずっと人生の中で捜し求めている場というのは

おおむねこれ(あれ)のことなんだろうと思います。

それは通常私たちがどこかへ到達しようとして立てる計画様式とは

まったく違っています。

3次元、4次元的な思考を裏切り続けるその「やり方」というのがあり、壮大な計画です。

このことを示そうとするときにどうしても私の言葉では

「こつこつ」とか「一歩一歩」が出てきます。

まったくもって逆説的なイメージなのですが。

いったいなにこつこつなのかというお話を少し。

人間誰もが「しあわせ」であるという状態を求めていますが、

それを達成するのに必須なのは愛です。

しあわせのかたちは人様々ですが、

しあわせが何でできているかというと愛というエネルギーです。

多くの人はしあわせのかたちは違うということを

愛以外から得たものであると誤解していますが

愛以外のあらゆる要素を総動員してもしあわせにはなりえません。

あらゆる要素というのは装置やストーリーや衣装や照明や音響です。

ですがそれらに息を吹きこむのは人間です。

人間の中でも、意識の部分です。

意識ひとつで明かりは明るくも暗くも暖かくも冷たくも、優しくも厳しくも見えます。

人間の意識の中心にある核のようなものは、

全宇宙の根源的な神と同質、同等のものであり、これが愛です。

私たちはこの内なる神聖さが私たちの意識のあらゆる場所に浸透し、

いきわたらせ反映されながら生きる状態を求めています。

しあわせに生きることです。

これが魂の意志です。

そのために様々な装置や衣装やストーリーや衣装や照明や音響を引き寄せて

自分自身を活かします。

これを具体的にやっているのは潜在意識です。

そのように引き寄せられたものを手がかりにしながら私たちは演じています。

ほとんど即興ですが、演じることに必要なメモリは潜在意識の中にあるので

それを引き出したりしながら目の前にあるものに反応して人生を彩っています。

実際に重要なのは演じられているストーリーや装置その他ではなく、

その奥にある魂の意志、意図のほうです。

つまり「内なる神聖さが私たちの意識のあらゆる場所に浸透し、

いきわたらせ反映れせながら生きる状態」

つまりは愛であるという状態です。

よく起こることなのですが、人生の意味を求め探すあまりに

目の前に起こったことのほうにフォーカスして

その意味を考えてしまっている人がいます。

「この出来事の意味はなに?」という問いかけです。

そうではなく、本当に掘り下げなくてはならないのは出来事ではなく自己意識です。

現象について考えることは内なる探求とはまったく別のことです。

出来事に夢中になって演じてることを忘れている自分に気づかなくてはなりません。

そして、この出来事について反応している自分がなににどう反応して

どうしたがっているんだろう、と気づくことです。

これは自我の本当の欲求(インナーチャイルドの気持ち)に気づくこと

また、自分がいつも、自分に対してどう感じているか、ということとも意味しています。

どう感じ、どう受け止め、どう評価しているのか、

そして心のどんなエネルギーをどう向けているか、ということです。

それはまだ心の浅い部分でのことですが、

その探求なしにその先の探求はありえません。

なぜならその時点ではその無意識的な心のエネルギーが

人生の創造をほぼ支配しているからです。

次になにをするかというと、

この潜在意識の浅い部分の欲求に対して愛情で応えることです。

つまり、インナーチャイルドが「まだ満たされてないんだけど、ここが」

と言っている部分に気づき、しっかりと愛情で満たすことです。

そうしてあげると、このステージの第一場が幕、ということになります。

シチュエーションがどうであれそこで愛のレッスンをし、

どのような球を投げられても愛で投げ返すことができるようになるよう、

自分で設定を選んでいます。

ですから設定の如何によって人間がしあわせになるわけではないのです。

設定が一見楽チンであろうが誰が見ても困難であろうが、複雑で混乱していようが

しあわせかどうかとは関係ありません。

もちろんこれは直線的な次元に例えたお話で

実際はこの進行はらせん状に上昇するために

体がその場に馴染むまで何度もレッスンが繰り返されます。

本番中なので、レッスンは同じことではなく

シチュエーションを変えては繰り返しドリルのように起こります。

設定に挑むことに夢中になり肝心なレッスンが進まないときなどに

魂がレッスンに取り組みやすいようにプッシュしたり、

ガイドが助け舟を出してくれたりして、

はっと真の我に還るよう導かれることがあります。

スピリットは3次元意識のあなたがラッキーだと感じることを

えさとして与えてくれるわけではありません。

そういうときに魂がプッシュしている状態が

3次元の自我にとってはとても厳しかったり苦しかったりすることがあります。

これは3次元的な解決がもはや通用しない、という状況です。

それは困難であると同時に再生の兆しです。

古いやり方を手放し、スピリットの世界に飛び込むという表現はこのことです。

この体験によって人は「手放す」こと、「委ねる」ことの真意を知ります。

さて、この手放しと委ねるは同義語のように捉えられがちですが、

その目的語はまったく別のものです。

手放すべきもの、というのは3次元、4次元的な思考、想念などです。

執着や利己的な欲求のみならず、

このレベルでの集合意識的な価値観なども含まれます。

これらの奥にあるものを結合させているのは「恐れ」という原動力です。

つまり私たちが持っている悪意だけではなく良心や正義さえも、

この恐れに基づき結合している想念であればそれらは

私たちが手放し自由になるべき対象と言うことになります。

私たちがどんなに賢く利口になったとしても

自己を掘り下げ探求し前進するというコミットなしには

この次元で生きその次元の波動によって生かされていることに違いはありません。

またそこから放たれ自由になっていかないと、

委ねることはとても困難に感じられます。

そして委ねるべき対象の見当がつかなければ

私たちは低次の世で自分を守ってくれているエゴのよろいを

本格的に手放すことは困難です。

ですが幸いなことに、

私たちはそれを語ることはできなくても感じることはできます。

その委ねるべきものとは愛です。

愛とは宇宙の源でありすべてであり完全である神のみこころです。

私たちは生まれながらに

それを感じることができるようにプログラミングされて

その点で完璧な状態で生まれてきました。

しかしそれ以外の様々なことを学ぶうちに、

そもそも何のためにそれ以外を学んだのか忘れてしまいます。

本能が急スピードで養われ活用されるうちに、

私たちを生かしているのは本能、つまり肉体意識だというふうに勘違いします。

人間のしあわせはこの肉体意識が手に入れるのだというふうに。

私たちはしあわせの姿をみつけたとき

それに必要なのは愛だったとわかります。

そしてそのときには、過去のレッスンのすべてに

感謝と畏敬の念を抱かずにはいられないでしょう。

その想像を絶する本当のからくりは、

こつこつと一歩一歩体験してみないと理解することはできません。

このプロセスが「アセンション」だと私は思っています。

私とひとつでありきょうだいであるみなさんが

すばらしいアセンションを体験なさいますように。

幸運を招くスピリチュアル

今日はあったかいので窓全開、Tシャツ一枚の心のセラピストAZUです。

スピリチュアルに惹かれ、いろいろな知識を得た人のあいだで、恐れと混乱を深めてしまうことが多々起こっています。

神に例えるなら「神の罰がくだる」とか、「神の裁き」という考え。

災いが起こればそれは天罰だという考えを信じることです。

スピリチュアルの心の法則で言うなら、「ネガティブなことを思うとネガティブが実現する」「ネガティブなことを感じると引き寄せてしまう」のように。

そしてこれから起こるかもしれない災いについて恐れます。

「こんな気持ちでいたら、悪いほうへどんどんいっちゃう!」という風に。

心に余裕があるときはこんな状態を微笑みを持って見ることができますが、どこか調子が悪いな、とか、落ち着かない感覚を感じているときなどは、こういった考え=幻想のほうをリアルだ、真実だ、と感じてしまいます。

そして実際そういう風な出来事が起こることもありますよね。確かに。

それで多くの人はどうするかというと、「なるべく感じない方向で」行こうと決めます。

感覚に対して閉じてしまいます。

そして感覚の代わりに「思考・理性」というアンテナを使うことになります。

感覚の領域は潜在意識。思考・理性領域は顕在意識。

このちから関係は10(00000):1と言われています。

一見この対処法は、間違いがなくまっとうで信頼に値するように見えますが、思考と理性にできるのは物事を整頓させたり順番をつけたり正邪を判断したり、理論的な領域で働くことです。

いわば、時間と距離に支配された3次元界でどっぷり生きるのと同じことになります。

本末転倒ですね。

この世界で生きていると、人生というのは知れば知るほど小さく狭いものになっていきます。

毎日生きるということは時間の消費であり、可能性を実行することは可能性を消去することであり、お金を使うことは持てるものが減ることであり、年をとることは若さや生命力が減退することで、残りの人生はだんだんと少なくなる、という具合です。

その世界で確実に頼れるものは貯金くらいのものでしょうか。

それ以外のものはすべて目減りしていくものでしょう。

夢も希望もないですね。

でも人間とはそれだけの存在ではない、というのがスピリチュアルの世界です。

スピリチュアルの世界はこの絶望的な3次元世界から現実逃避するための絵空事ではありません。

意識の世界を3次元の視点のままで捉えようすると、上記のような「逆走」による「迷走」が起こります。

でもみなさんうすうすはお分かりだと思いますが、スピリットの世界とは無限のことであり、そこへ辿りつくと私たちは自由になります。

裁きかのように見える因果の法則とカルマから自由であり、大気と水のように、いえ、それ以上に無限の愛の法則の中に生きることができます。

私たちは、意識しようとしまいと、潜在意識の中に無数の記憶を持ち、その記憶の感覚が発動するとそのバイブレーションが出来事を引き寄せそのフィーリングを実現していきます。

この潜在意識の感覚に多くの人は意識を払わないため、あたかも操られたように、とか運命的に、それが起こっているように見えます。

この感じは、好ましくない出来事に関してはときに怖いものです。

私もこの状態に常に人生を翻弄されてきました。

でもこれはすでに持っている記憶のシナリオが決行されているだけなのです。

でもそのシナリオが余りにきつくてひどすぎるとき、私たちは「なにかもっと方法があるはず」と、考えます。

それで、私たちはこの記憶を運命や神とあがめるのではなく、もっと本質の、もっと再奥にある、完全なるものを求めます。

これが内なる神です。

内なる神は完全でありひとつなので、陰陽や正邪や正負というような二極性の性質からも超越しています。

ちょっと難しいのですが、光と闇、というセットでいう光は二極のうちの一方であってすべてではありません。

半分です。

でも、内なる完全な神は闇とセットではありません。

光だけです。

そして、その光によって浮かび上がる陰影のすべてはただの投影、つまり幻想だと言っています。

つまり、この世にある真実は光だけで、あとはイリュージョンなんだよ、と言っているのです。

私たちが普段一喜一憂したり恐れたり喜んだりしていることがらというのは、このイリュージョンです。

ですからスピリチュアルの世界で「私たちは楽しむために存在している」という言葉は、楽しいことだけ見てればいいんだよ、という意味ではなく、「ありとあらゆるすべてのものは、幻想なんだから、ありとあらゆる幻想を受け入れて楽しんでしまいなさい」という意味が真実だと言えます。

そうして生きていると、そのあらゆるものを映し出している光のほうが実は真実で重要で、私たちはその光とともに生きている尊い存在なんだということがだんだん実感できるようになるよ、と言っています。

好き嫌いばかりして選り好みしていないで、来たものはあなたの意識からできたものだから受け入れて愛しなさい、そうするとそれに苦しめられることはうんと少なくて済むよ、そしてどのようなものにもどのようなときにも、それを映し出している光(神)は片時も離れようがないでそばにいるんだから、そっちのほうを意識して生きなさいね、そうするとあなたはいついかなるときも「幸せ」ですよ。

私はセッションのとき、この仕組みを「まる」を描いてお話しています。

この「まる」は、たくさんのセッションを重ねているうちにあるとき降りてきました。

この「まる」を描くと、皆さんがとっても納得し、また安心してくださいます。

時には安堵のあまり泣き出す方もいらっしゃいます。

ただ紙に書いたまるですが。

私たちがどう思おうと、すべての中に神がいて、また神の中にすべてがある、という真理がそこに垣間見れるからだと思っています。